013
『え、明日、吹奏楽部入らないの?』
快活とした◾️◾️の声がした。
僕は理由を述べた。
『私がいるじゃん………パートが違う? でも一緒の部活だよ? それともなにか違うことやりたいの?』
答えなかった。答えられなかった。僕にはなにもなかった。僕は◾️◾️に誘われて、流されるままに生きている。でも、それが楽しかったはず。
『ま、でも明日がやらないってなら、しょうがないよね』
◾️◾️はどんな顔をしていただろうか。全て光のもやがかかって見えない。僕はなにかを言いかけた時、轟音が鳴った。
身体が飛び跳ねたのと同時に目を開いた。暗闇を纏う、のっぺりとした壁が前にあった。天窓に雨が打ちつけられる音と、遠くの方でゴロゴロと雨雲が喉を鳴らしている。ほのかに香る、木の香りが頭を冴えさせ、また、時間が経っていることに気がついた。
身体に痛みがあまり無かったので、うつ伏せに寝ていた僕は、仰向けになるために寝返りをうった。うったところで、ギョッとしてしまう。僕の隣ではラジエルが寝ていたからだ。赤子のように身体を丸めたような姿勢で、同じ掛け布団に入っている。
すぅすぅと、寝息をたてて、白シャツから覗く胸が動いている。僕は唾を飲み込もうとしたが、飲み込めなかった。どうやら、喉がカラカラらしい。
見回すと、ラジエルのコップの他に、僕用の吸飲みがサイドテーブルに置かれていた。上体を起こし、ゆっくりと、ラジエルを目覚めさせないように布団から手を伸ばして取り、咥えて飲んだ。
一瞬、部屋が光って、すぐに地を鳴らすような轟音が響き、ベッドを揺らした。そのあとに雨音がさらに強まった。
結構近いな、と思い、パイプ煙草のように咥えていた吸飲みをサイドテーブルに戻そうとしたら、自分の左手がラジエルの手を握っていることに気がついた。
「え?」
吸飲みが口から腹の上に落ちた。幸い、水は飲み切っていたので布団は大事ない。それよりも、ラジエルの手を握りしめている左手が自分のものとは思えなかった。パージを使った時と同じように、いつのまにかである。伝わってくるラジエルの温かさも、すべすべな肌触りも、ゴツっとした骨の感触も、気がついたことでようやく知覚できた。
ラジエルは寝入りながらも、僕の手を握り返してくれた。彼女の熱で、手の中が湿っていることを理解する。熱は、蓋をされたことで加熱されてゆく。
自分がしていることが分からず、とりあえず手を離す。
手をグーパーと結んでは開いてを繰り返して、自分の意思で動いていることを確かめた。まだ湿り気の中に彼女の温もりが残っている。
そんな手のひらを見つめていると、心臓の音がうるさくなってきたので、僕はもう何も考えることはせずに、ラジエルを背にして横になった。
ラジエルの温もりが背中にずっとあって、集中していたら、いつのまにか寝ていた。
雨は二日降り続いた。毎日、ラジエルは僕のベッドで寝ている。彼がラジエルの寝ていたベッドを独占しているため、隣家も遠く、床も固いので、一緒に寝ている。まあ、それなら、しょうがない。僕が慣れればいいだけだ。
ちょっとドキドキするけど、やましい感情を抱かなければいいだけの話し。それに、そんな気分になれないほど、身体がずっと疲労していた。
「明日さん、狭くないですか?」
二日目の夜、ラジエルが訊いてきた。僕は天井を見つめながら答えを探した。
「まあ、少しは」
「ですよね、すみません」
左に視線を向けると、ラジエルはこちらを向きながら、至極申し訳なさそうな顔をしていた。
「でもラジエルが近くにいて安心はするよ」
僕に迷惑をかけると、そんな顔をするラジエルが居た堪れなくなる。僕自身が落ち込んでいる時は、責められている気分にもなった。だから、彼女を励ますのだ。僕は彼女抜きでは生きていけない。現在、彼女と僕は二つで一つなのだ。
「ふふ、ありがとうございます」
ラジエルは年相応の砕けた笑顔をする。それが妙に艶やかでドキッとしてしまった。
雨がしとしとと降っている。おそらく、明日には止むであろう、とラジエルは日中に予測した。
左腕のシャツに手の温もりができて、握られたことに気がついた。ラジエルが、もぞもぞと動いて、僕との距離を縮めてくる。安心する彼女の甘い匂いが強くなった。
「実は、私も明日さんと寝れて安心しています」
こしょこしょと、耳元で話すラジエルの声がくすぐったい。
「そうなの?」
「ええ、この前の夜がですね。ちょっとトラウマになったようで……」
伏し目がちなラジエルが僕のシャツに皺を作った。
「本当は、一人で寝ようとしたんですよ。寝るべきなんです。明日さんの健康を阻害しては天使の名折れ、羽折れです。でも……怖いんです。あれ以来、一人の夜になると、怖いんです。痛みは我慢できます、痛いだけですから。ですが、それも明日さんがいるからです。明日さんが助けてくださると、信じているから耐えられるんです」
「僕はラジエルを見捨てないよ」
「ありがとうございます………私達の話をしてもよろしいですか?」
僕は顎を引いた。ありがとうございます、ラジエルは垂れた細眉で言った。
「天使は痛みに、感情に鈍感だったんです」
ラジエルは深呼吸をしてから続ける。
「物理的な痛みを知らず、精神的な痛みを知らず、それが繰り返されることを身をもって知らなかった。私は図書館の司書で、知的好奇心に溢れていたので、死まではいきませが、痛みは知っていたんです。いえ、過去形ですね、知っていたつもりでした」
ラジエルは唾を飲む。彼女の細く白い喉が揺れた。
「こんなにも暗くて怖い痛みは知りません。明日さん、明日さんがいるから、耐えられています。勝手に頼りにしてすみません。ですが、どうか、これからもこうしていただけると、嬉しいです」
ラジエルは頭を僕の左腕に押し付けた。彼女の祈るような手が腕に食い込んでいる。天使ラジエルが見せた、初めての弱さに、僕は面を食らうこともなかった。それよりも妙に納得していた。使令体はほとんど人間のようなもの、いかに精神性が高尚な者でも、人間の身体という脆く危うい器に入れば、同じになるのだと。
「ラジエル」
優しく呼ぶと、赤く腫れた目でラジエルは顔を上げた。
「僕はラジエルを見捨てないよ。絶対にね」
身体を横に倒して痛みの引いてきた右腕で背中を摩ってやると、ラジエルは僕の胸の中で声を殺して泣いてしまった。
天使じゃない彼女は、か弱い少女のようであった。
僕は、そんな彼女を置いて、家に帰りたいとは思えなくなっていた。
彼が起きたのは、僕の疲労が完全に抜けた三日目の昼だった。
「ここは」
馬の世話を終えて、ダイニングでラジエルと昼ごはんを食べていたら、足音もなく、廊下に立っていた彼がそう言った。
「おはようごさいます。ここは安全な場所ですよ」
ラジエルは驚いた様子もなく振り返り、微笑んで答えた。僕はいつでもスキルを発動できるように構えている。彼は僕を一瞥してから、ラジエルのほうに視線を合わした。
「おまっ……貴方達が俺……私を助けてくれたのですか?」
ラジエルは静かにあごを引く。彼は目を伏せてから、そうか、と呟いたあとに、膝をついて座った。
「見ず知らずの人間を助けてくれた恩義、感謝いたします!」
彼は両手を床につけ、深々と頭を下げて叫んだ。
「それと、そうとも知らずに危害を加えた無礼、誠に申し訳ありません!」
僕は目を丸くさせながら、床に額がつきそうな彼を見て、警戒するのをやめた。
「いえ、お互いに怪我が無くて良かったです。ですよね」
「うん。ビックリしたけど、貴方にも事情があったんだろうし、こうして話し合えるなら、僕は大歓迎だよ」
ラジエルの声に答えた僕の言葉を聞き終えると、彼は顔を上げた。
「おまっ……貴方達は……良心だっ」
感極まっているのか、彼は瞳を潤わせている。
「私はラジエル。こちらは明日さん」
「俺はハク。ハク・センゴクだ。よろしくお願いします、ラジエルさんに明日さん」
「とりあえず、お昼でもどうです?」
ラジエルがテーブルに促すと、ハクの腹がきゅるるると鳴った。
「そうさせてもらおうかな」
ハクが恥ずかしそうに首筋をかいていうと、僕の頬が緩むのがわかった。




