010
脚を引きずる音が近くなってくる。扉に背中をつけて、何度も深呼吸をすると、血と腐敗臭で、気持ち悪くなった。
ドンッ! と扉が外側から叩きつけられて、扉が背中に当たり、咳き込む。
ゾンビの癖に扉を破壊できるほどの馬鹿力なのは、些かオーソドックスではない。心の中で悪態ついて、今度は肩で押さえる。
もう一度、扉が振動し、留め金が軋んだ。やはり、ゾンビはこの部屋に入りたがっている。
二度、三度、同じことが繰り返され、後一回受ければ、留め金が外れてしまいそうなところで、最後の深呼吸をする。もう、鼓動は落ち着いていた。
パージ。心の中で唱えると、右手に硬い感触がした。
僕の身体は扉から離れ、部屋の壁へと駆ける。壁を蹴り、駆けた勢いを増して、戻ってきた扉の直前で片足を浮かせた。
片足を浮かせたと同時に、扉が勢いよく破られ、留め金の欠片が僕の横を飛んでいく。扉がこちらへ倒れてくる前に、浮かせた片足に体重を乗せて扉を穿った。
扉の破片越しに、硬さの間に柔らかさのあるモノにめり込む感触がする。それがすぐに離れていき、大きな物体がどこかに叩きつけられるような音が鳴った。
倒れてくる扉を左腕で押さえて、足を傷つけないように、引き抜く。僕はいつの間にか体操選手並みの体幹を会得していたみたいだ。
侵入しようとしていたゾンビは、穴の奥で、大の字で倒れていた。知っているゾンビなら、こんなので終わらない。確実なトドメが必要だ。
扉を床に預けて、扉を蹴って半分に割る。割った上部分を両手で持ち、ゾンビに近づいて、荒く刺々しい部分をゾンビの頭部へ叩きつけた。
鈍く重い音とともに、頭部の半分はラジエルの顔面のように潰れる。遅れて浮き上がった身体が廊下に叩きつけられる音がした。
頭を潰せば、流石に………とにかく、これで動かないでほしい。
「?!」
足首に冷たい感触がした。足首の冷たい感触を実感して間も無く、急に僕の視界が天を向く。勝手に身体が背を丸くし、左腕を視界の端にとらえた。
次に僕の身体の左側から全体へ、鈍重な痛が、とてつもない衝撃とともに駆け抜けた。自転車で転けたとかの比じゃない。
息が詰まり、呼吸がまともにできない。
痛みと苦しみも束の間、ふっ、と身体が浮いた感覚がして、臓器が全部ふわふわする。そして、今度は右へ、息が詰まったまま身体が移動する。
歯を食いしばりながら、右腕が動き、身体の右側からさっきと同じ衝撃がやってきて、視界が揺れる。
短く息を吐いて、精神を蝕む痛みを実感するなか、また浮遊感が襲ってきた。
僕の意思とは反して、激痛を伴いながら、身体を腹筋するように折って、足首にある感覚に向けて、ナイフを振るう。硬い感触がしたあとに、どこかにぶつかって、また浮遊感を覚えて、受け身を取りつつも、背中から床にぶっかった。
「かはっ、かっ、はっ、はっ、はぁ」
心臓の早さに合わせるように呼吸を整えた。頭がくらくらして、視界が揺れている。いつの間にか鳴りだした耳鳴りが酷く、立ちたくても、腕や足に力が入らない。
うつ伏せで、歪んだ視界をゾンビの方向へ向けた。ゾンビの右手が廊下に落ちている。当のゾンビは身体のいたるところから、乾いた筋が折れる音を鳴らして立ちあがろうとしていた。
頭を潰して死なないゾンビって、どうやったら死ぬんだ。燃やすとか? だとすれば、火は炊事場で起こせるけど、この一直線の廊下をゾンビに捕まらず横を通り過ぎて行くのは無理だ。窓戸から出るのも不可能ではないけど、もう体力がなさそう。
もしかしたらこのスキルは知っているんじゃないのか? 熊の殺したかたは知っていたじゃないか。
自身のチートスキルに訊ねても答えは返ってこない。身体を動かす力や知恵は貸してくれるけど、不条理な事態では自分でなんとかしろってことね。ちくちょう。
………不条理。
そうか、不条理か。
頭の中で閃いた僕は、身体に鞭を打たせて、壁に凭れかかりながら立ち上がる。膝が笑い、いつ倒れてもおかしくない。
一歩前に踏み込んでみると、思っていたところに足が出ていない。ゾンビが二重、三重に見えるし、自分の正体を見失いそうだ。
それでも、死んでいられない。
やると決めたのなら、やれるだけ突き通したい。
「あああああっ!」
よたついた足で走った。ゾンビは口許しかない身体で起き上がっている。その心臓めがけて、僕は全身を使いナイフを突き刺した。耳鳴りの奥で、水が漏れる音を聞いた。
ゾンビを押し倒してから、僕は体勢を立て直してすぐに馬乗りになる。そしてナイフを抜いて、もう一度刺した。筋を裂き、心臓に届き、ゾンビの胸部から黒い血が噴き出し、手にかかる。血はちっとも温かくない。黒い水でしかなかった。
「ああっ!」
顔が潰れていて良かった。僕が罪悪感で潰れないで済む。それでもこの、肉を裂き、臓器を潰す感触は一生忘れないだろう。
何度も、何度も、僕は念じながらナイフを心臓に突き刺した。刺す度に家屋と、死体が揺れる。刺して血が吹き出さなくなっても、ゾンビだから、念には念を入れて突き刺した。これは、ゾンビだから、動くなと、死ねと、念じても許されるはずだ。
気がついたら、炊事場にある水桶に手を突っ込んで、泣きながら手を洗っていた。夜の冷えた水が沁みる。水は薄赤黒く、僕の手はその色に溶けていた。
気にいるまで何も考えず、ずっと手を洗った。室内が白んできて、ようやく、その場にへたり込んだ。
目を瞑ると、昨晩の光景を思い出しそうだ。そうでなくても、思い出す。ぐるぐると、同じ光景か終わっては始まりを繰り返して、僕を苛まさせた。
それでも、せめてラジエルが復活するまで、意識を失いたくない。彼女がいなくては、僕はこの世界では何者でもない。……そうだ、僕は何者でもないんだ。
床を見つめながら、乾いた笑いが漏れた。
視線を上げると、廊下の奥では動かなくなった死体が見える。
あの男性は死んだ。死んでいた。それでも僕は刺した。ラジエルを守るため。僕が死なないために。生きるために死体を破壊した。あれはゾンビ、人じゃない。それでも、人だった。
水に浸透しない感情達が、頭の中で這い回っている。
僕は、なにをしてしまったんだろう。
炊事場の壁に背中を凭れかけ、一層苛まれながら目を瞑った。
「明日さん」
誰かが僕を呼ぶ。寒気がした。身体が冷えている。なにもかもが寒くてしかたない。
「明日さん」
身体が少しだけ揺れた。誰かが、僕の肩に手を置いているのがわかる。眉間にしわをつくりながら、抵抗する瞼をあげた。
目の前にはラジエルの美麗な顔があった。光を反射した透明な睫毛が綺麗だ。
「ラジ、エル?」
「はい」
「ラジエル?!」
僕はラジエルの頬を両手で掴む。もっちりとして、温もりがあった。
「なっ、どうしました?」
手の中で頬が動く。彼女は蘇った。潰れていない碧眼がしっかりとあって、肌は赤黒くも、ぬめりもなく、しっとりとしてきめ細かく血色が良い。ラジエルは生きている。生き返ってくれた。
「よかった」
弾力のある肌を指で摩る。ラジエルの温かさが互いの生を実感させ、胸の奥が熱くなり、冷めていた身体が熱を持ちだしてきた。
「私は死にませんよ」
ラジエルの目がたおやかに細くなる。それだけで、僕は心の底から安心した。彼女はいつも安心させてくれる。
「それでも、良かった」
「ありがとうございます。とりあえず、赤切れに効く軟膏を塗り直しましょうか」
ラジエルは、真っ赤になった僕の手を優しく包み込む。彼女の手は皮膚を突き刺すように温かった。




