第13話:朝靄の向こう側、オーバーテクノロジーの絶望
雨上がりの深い朝靄が、初夏の風に完全に吹き流され、前方に布陣する『明智軍の陣立て』の全貌が、白日の下に晒された瞬間。
秀吉の天才的な頭脳が導き出した「戦国の常識」は、未来からやってきたチート知識の前では、ただの滑稽な勘違いに過ぎなかったことが残酷に証明されたのだ。
秀吉の目に飛び込んできたのは、竹や木で急ごしらえで作られた脆弱な野戦陣地でもなければ、焦って並べられた無防備な兵の列でもなかった。
天王山の麓から山崎の平野部にかけて、地平線を完全に遮断するように、幾重にも連なる異様で不気味な防衛線が構築されていたのである。
それは、史実において長篠の戦いで織田軍が用いたような、丸太を粗末に組んで縄で縛っただけの「馬防柵」などというチャチなものでは断じてない。木製の柵であれば、数万の軍勢が力任せに押し寄せて引き倒すか、最悪でもよじ登って乗り越えることができる。当時の武士たちも、障害物に対する認識はその程度のものであった。
だが、眼前のそれは、人間の力ではどう足掻いても突破できない『物理的な絶望の壁』であった。
秀吉の視界を埋め尽くしたのは、大きく抉り取られた大地――俺(明智光秀)が現代の【塹壕戦術】の知識を用い、堺の土木職人と兵たちに莫大な資金を与え、何日も前から深く掘り進めさせていた、人が立ったまま完全に身を隠せるほどの「巨大で一直線な溝」だった。
その手前には、銃弾を完全に弾き返すために固められた分厚い土嚢が、幾何学的な規則性を持って延々と、何キロメートルにもわたって積み上げられている。
大軍を迎え撃つための陣地構築に要する莫大な時間と労力。秀吉は「明智にそんな時間はないはずだ」と高を括っていたが、圧倒的な「金」の力で土木作業員を大量動員すれば、数日でこの規模の要塞を築くことは十分に可能だったのである。
そして、何より秀吉の軍勢を絶望の底へと叩き落としたのは、その塹壕のさらに前方、数十メートルにわたって何重にも複雑に張り巡らされた、無数のトゲがついた鉄の線――俺が堺の鍛冶師たちに莫大な資金を投じて量産させた『有刺鉄線(鉄条網)』による、凶悪極まりない近代要塞のラインだった。
「な、なんじゃあのトゲトゲの鉄の紐は!? 兵が前に進めませぬ!」
「痛っ! 足に絡みついた! ええい、刀で斬れんぞ! 叩き切っても跳ね返ってくる!」
突撃の最高速度のまま、「一番槍」の功名心に駆られて未知の有刺鉄線の壁に突っ込んだ羽柴軍の先鋒部隊は、一瞬にして凄惨な地獄を味わうこととなった。
鋭利に尖った鉄の棘が、兵士たちの手足を深く裂き、甲冑の隙間や布の衣服を強烈に引っ掛ける。
身動きが取れなくなった兵たちはパニックに陥り、力任せに引きちぎろうと暴れるが、有刺鉄線は彼らの予想を裏切り、恐ろしいほどの弾力と耐久性を持っていた。暴れれば暴れるほど、鋼の棘は容赦なく肉の奥深くへと食い込み、腱を切り裂き、大量の血が噴き出す。
刀で斬ろうにも、弾力のある鉄線は刃を滑らせ、槍で払おうにも、複雑に絡み合った網はビクともしない。人間の肉体や刃物などでは、絶対に切断できない「鋼鉄の茨」だったのだ。
「ぎゃあああっ! 痛い、痛いぃぃっ!」
「足が! 足がちぎれるっ!! 誰か助けてくれェェッ!!」
先鋒の数千の兵たちが、見えない蜘蛛の巣に捕らえられた虫のように、有刺鉄線の中でもがき苦しむ。武功を立てるという野心に燃えていた彼らの怒号は、次第に痛みに泣き叫ぶ悲鳴へと変わっていった。
「止まるな! 前へ出ろ! 後ろがつかえておるぞ!」
恐ろしいのは、先頭が立ち止まったからといって、三万の大軍の突撃の波が急には止まれないことだ。
神速の行軍で疲労困憊しながらも、「明智の首を獲れ!」「一番槍は俺だ!」と血走った目で駆け込んでくる後続の兵たちが、悲鳴を上げて立ち止まった前列の兵の背中に次々と激突する。
後ろからの凄まじい重圧によって押し出された前列の兵が、有刺鉄線の上へと無残に押し潰されていく。
「ぎゃあああっ! 押すな! 刺さる、刺さるゥゥッ!!」
「目が! 棘が目にィィッ!!」
「やめろ、後ろから押すなァァァッ!!」
そこは一瞬にして、敵の攻撃を受ける前に、己の味方の重圧と鉄の棘によって肉を切り刻まれる、阿鼻叫喚のミンチ製造機と化した。
秀吉が絶対の自信を持っていた三万の軍勢の「突撃の推進力」は、この物理的かつ非情な鉄の壁によって、強制的に「ゼロ」へと変換されてしまったのだ。大軍であればあるほど、その自重が己を殺す刃となる。秀吉が誇った『数の暴力』が、完全に裏目に出た瞬間だった。
「ええい、何をしておるか! 止まるな! 構うな! 死体でも盾でも踏み台にして、それを乗り越えて突っ込めぇぇっ!!」
秀吉が馬上から、焦燥感と未知の恐怖に顔を歪めながら、声を枯らして叫ぶ。
戦の天才である彼でさえ、見たこともないオーバーテクノロジーの兵器を前に思考がパニックを起こし、味方をただの肉の壁にするだけの致命的な悪手を命じてしまったのだ。
だが、死体を積み上げようとも、有刺鉄線の壁はあまりにも分厚く、そして広大だった。兵たちは踏み台を作る間もなく、押し寄せる後続の圧力によって次々と鉄の棘に巻き込まれ、血の海を広げていくばかりだ。
そして、俺が敷いた有刺鉄線の本当の恐ろしさは、「敵の前進を防ぐこと」自体にはない。
この鉄の茨の真の目的は、敵の足を完全に止め、大軍の陣形を崩してパニックに陥らせ、一箇所に無防備に密集させること。
すなわち、こちらの塹壕に潜む大量の近代銃火器の火力が最も集中して当たりやすい、計算され尽くした『キルゾーン(死の的)』へと、敵を自ら飛び込ませるための、冷酷な誘導装置に過ぎないのだ。
「……ハッ!」
味方の屍を乗り越えようと折り重なり、もがく兵たちを見て、秀吉はハッと息を呑み、全身の産毛が逆立つような強烈な悪寒を覚えた。
彼の戦場での「野生の勘」が、今自分たちが何という恐ろしい罠のど真ん中に立たされているのかを、直感的に理解したのだ。
敵は「線」で防衛しているのではない。自分たちを完全に足止めし、「面」で一網打尽にすり潰そうとしているのだと。
(あ、あやつは……わしらがこの平野に密集し、身動きが取れなくなるのを、ずっと待っておったのか……!?)
秀吉の背筋を、氷のような戦慄が駆け下りる。
罠だ。これは野戦などではない。ただ一方的に殺戮し、処理するための、完璧に設計された『処刑場』だ。
「引け……! 全軍、直ちに引けェェッ!!」
秀吉の喉から、裏返った悲鳴のような撤退命令が飛び出す。だが、狂乱状態に陥って密集した三万の軍勢に、その声が届くはずもない。前方の悲鳴と後方の怒号が入り混じり、羽柴軍は完全に統制を失い、巨大な泥の塊となってその場に釘付けにされていた。
朝靄の向こう側。
深く掘られた塹壕の中、積み上げられた土嚢の僅かな隙間から、無数の黒い銃口が、身動きの取れなくなった秀吉の軍勢を、感情のない冷酷な機械のようにピタリと狙い定めていた。
そこには、戦国武将同士の誇り高き一騎打ちの美学も、名乗りを上げて一番槍を競う武士の誉れも、何一つ存在しない。
秀吉が得意とする奇襲や包囲、心理戦といった奇策を弄する余地も、完全に奪い去られていた。
ただただ、合理的に、効率的に、無慈悲に命の数を減らしていくための「物理的な処理システム」の、嵐の前の不気味な静けさだけがあった。
兵士たちの血の通った命を、ただの「的」としてしか見なさない、未来の近代戦の恐るべき冷徹さ。
天才・秀吉が己の全存在を懸け、泥水を啜ってでも天下を獲ると誓って挑んだ神速の突撃は、未来の知識によって構築された『近代防衛戦術』という絶対的な絶望の前に、成す術なく飲み込まれようとしていた。
秀吉の目に見えるのは、自分をあざ笑うかのようにそびえる塹壕と鉄の茨、そしてその奥に潜む明智光秀の、底知れぬ漆黒の闇だけであった。
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