第9話:魔王の出航と、天才を狩るための罠
ボォォォォォォォォォォッ!!!
夜明けの堺の港に、聞いたこともないような巨大で重低音の汽笛が鳴り響いた。
NOBU号の船底に積まれた石炭が猛烈な勢いで燃やされ、巨大な蒸気機関のピストンが唸りを上げる。三本の太い煙突からモクモクと黒煙が噴き上がり、船体側面に取り付けられた巨大な外輪が、力強くドバァァッと海水を掻き分け始めた。
「動いた……! 帆を張っていないのに、風もないのに、鉄の船が進んでおるぞ!」
甲板からその光景を見下ろしていた蘭丸や側近たちが、度肝を抜かれて叫び声を上げる。
漆黒の巨大な鉄の船は、蒸気機関という圧倒的な推進力を得て、ゆっくりと、しかし確実に海面を滑るように進み始めた。
みるみるうちにスピードを上げ、防波堤で見送る今井宗久たちの姿が小さくなっていく。
「上様! 陸が……日の本が、あんなに小さくなっていきます!」
蘭丸の言葉に、信長は船首の装甲板の上に立ち、振り返ることなく海風を全身に受けていた。
「ああ。さらばだ、退屈な鳥籠よ」
信長の胸中には、日本という国に対する郷愁や未練など、微塵も存在しなかった。
彼の視線は、昇り始めた眩しい朝日とは逆の方向――遥か西の海(世界)へと鋭く突き刺さっている。
その目には、もはや安土城で書類仕事に埋もれていた老人のような虚無感はない。かつて桶狭間で死地を駆け抜けた時の、そして比叡山を包囲した時の、あの燃え盛るような『破壊神』の炎が完全に蘇っていた。
「待っていろ、世界。……極東の第六天魔王の、お出ましだ!!」
信長の咆哮が、黒煙とともに果てしない大海原へと響き渡った。
蒸気機関と近代兵器を積んだ一隻の黒船が、大航海時代の白人列強たちの常識を蹂躙し、世界の歴史を根底から書き換える『悪逆無道の無双劇』が、今ここに幕を開けたのである。
――一方、その頃。
京の都、いまだ煙を上げる本能寺の焼け跡からほど近い、明智家の本陣。
俺(光秀)は、縁側に立ち、昇り始めた眩しい朝日を浴びながら手元の白檀の扇子をパチンと開いた。
信長という巨大な嵐は、無事に日本を去った。これで、俺の愛する妻・熙子と過ごすための「平和な大日本帝国」を創り上げるための、最大の障害は取り除かれたことになる。
残るは、最後の大仕事だ。
俺は陣幕の中に戻り、机の上に広げられた巨大な畿内の地図を見下ろした。
そして、京の南西に位置する交通の要衝――『天王山(山崎)』の周辺に、次々と赤筆で印を書き込んでいった。
「さて……そろそろ、毛利攻めの泥沼にいる秀吉の元に、俺が放った『間抜けな使者』が捕まり、信長横死の報せが届く頃合いだな」
俺は、誰もいない陣幕の中で一人、不敵な笑みを浮かべた。
史実において、この本能寺の変を知った羽柴秀吉は、敵である毛利と即座に和睦を結び、数万の軍勢を率いて驚異的なスピードで京へ引き返してくる。世に言う『神速の中国大返し』だ。
秀吉は、「自分が主君の仇・明智光秀を討ち、天下人へと駆け上がるのだ」という最高の野心に胸を膨らませ、目を血走らせ、泥まみれになりながら不眠不休で向かってくるだろう。自分の一世一代の「最高にカッコいい英雄的見せ場」だと信じ込んで。
「さあ来い、秀吉。お前の見せ場(中国大返し)は、俺が完璧にエスコートしてやる」
俺は扇子の先で、天王山の印をトン、トンと叩いた。
「だが……お前が必死の思いで辿り着いたそのゴール地点(天王山)には、お前の武士としての常識を粉々に砕く『近代兵器の要塞』が待っているぞ」
俺はすでに数ヶ月前から、莫大な資金と物資を投じ、天王山周辺に史実の山崎の戦いとは全く異なる『地獄の防衛線』を極秘裏に構築し始めていた。
兵士がすっぽりと隠れられるよう、何重にも掘られた深い『塹壕』。
馬や歩兵の突撃を完全に足止めし、鉄の棘で肉を切り裂く『有刺鉄線(鉄条網)』。
そして、近接戦闘を完全に無力化する、手回し式の『ガトリング機関砲』と、敵の頭上の空中で爆発して数千の鉄の雨を降らせる『榴散弾』の配備。
刀と槍、そして旧式の火縄銃で勇ましく突撃してくる秀吉の軍勢を、俺は『第一次世界大戦レベルの殺戮陣地』で待ち受ける。
戦国時代の密集突撃戦術が、近代防衛戦術の前にいかに無力で、残酷なまでにすり潰されるか。それを身をもって教え込み、天才・秀吉の心を根本からへし折るのだ。
これは殺戮のための戦いではない。天才の心を一度完全に折り、俺という存在への絶対的な恐怖を魂に刻み込むための儀式である。
「泣いて絶望しろ、秀吉。……そして、その絶望の底で、俺がお前を『世界司令官』として信長様の元へ連れ出してやる」
歴史オタクによる究極の歴史改変プロデュース――そのクライマックスとなる『山崎の近代要塞戦』へのカウントダウンが、静かに、そして冷酷に始まった。
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