第10話:備中高松の慟哭と、猿の狂喜
天正10年(1582年)6月。
本能寺の変から、わずか数日後のことである。
備中国(現在の岡山県)に位置する高松城の周囲は、見渡す限りの濁った泥水に覆い尽くされていた。
梅雨の重苦しい灰色の雲から間断なく降り注ぐ雨が、水面を激しく叩き、そこがかつて平野であったことすら忘れさせるほどの一大湖沼地帯と化している。
羽柴秀吉が、己の持ち得るすべての知恵と莫大な資金力、そして膨大な人海戦術を用いて築き上げた、全長三キロメートル、高さ七メートルに及ぶ巨大な人工堤防。近くを流れる足守川の豊かな水量を丸ごとせき止め、盆地に位置する敵城を文字通り「水没」させるという、戦国の常識を覆す前代未聞の奇策――『備中高松城の水攻め』である。
城の周囲には、無数の小舟に乗った羽柴軍の兵たちが浮かび、後方に控える毛利本代の数万の援軍を牽制しながら、蟻の這い出る隙もない完全な包囲網を敷いていた。
水没した城内では、すでに腰の高さまで泥水が浸水し、兵糧も尽きかけ、城主・清水宗治をはじめとする城兵たちは飢えと疲労で限界を迎えている。落城は、もはや時間の問題であった。
これほどの大規模な土木工事による攻城戦は、秀吉がかつて墨俣一夜城などで「明智光秀が未来の技術と莫大な資本でやってのけた規格外の戦術」を間近で見せつけられ、凄まじい劣等感と対抗心を燃やし続けた結果、己なりに捻り出した「究極の力技」の集大成でもあった。
だが、その日。
高台に張られた秀吉の本陣の陣幕内は、目前に迫った完全勝利の歓喜とは無縁の、底なしに重く、そして凍てつくような暗い空気に包まれていた。
「……嘘じゃ。嘘じゃと言えええええっ!!」
陣幕の奥深く。血を吐くような、耳をつんざく絶叫が響き渡った。
泥だらけになって引き出され、後ろ手に固く縄で縛り上げられた一人の男――明智の密使(光秀が意図的に放った偽の使者)の顔面を渾身の力で蹴り飛ばし、秀吉はその場にドサリと崩れ落ち、泥の地面に額を擦りつけて泣き崩れていた。
「上様が……天下を統べるはずであった上様が! あの明智日向の卑劣な謀反によって、炎の中で討ち死になされたと申すか……!! おのれ明智! 許さん! 許さんぞ! この藤吉郎、貴様だけは断じて許さんぞおおお!!」
秀吉の悲痛な慟哭が、激しい雨音を切り裂いて陣幕の外まで響き渡る。
周囲に控える黒田官兵衛や蜂須賀小六、加藤清正、福島正則といった歴戦の猛将・知将たちも、あまりにも突然でもたらされた天下の凶報に顔面を土気色に蒼白にし、言葉を失って立ち尽くしていた。
無敵を誇った第六天魔王・織田信長が、よりにもよって織田家筆頭家老である明智光秀の裏切りによって横死した。この事実は、彼らがこれまで信じてきた世界の前提が完全に崩壊したことを意味する。
「上様ぁぁぁっ! 卑しい草履取りであったこの藤吉郎を、一軍の将にまで引き上げてくださった大恩ある上様! その御恩に報いる前に、何故……何故じゃあああっ!!」
秀吉は畳をバンバンと拳で叩き、自らの髪を掻きむしり、子供のように大声を上げて泣きじゃくった。
主君の非業の死を心から嘆き悲しむ、忠義に厚き臣下の姿。その場にいた誰もが、秀吉の流す大粒の涙に嘘偽りがあるなどとは、微塵も疑わなかった。
だが――。
床の泥に突っ伏し、着物の袖で顔を覆って大泣きしている秀吉の、その『誰にも見えない顔の裏側』。
彼の下唇は、絶望のあまり震えているのではなかった。
抑えきれない、心の底から湧き上がる歓喜と野心の笑みによって醜く歪み、歓喜のあまりブルブルと小刻みに痙攣していたのである。
袖の隙間から覗くその血走った両目には、信長への悲しみなど微塵もない。
あるのは、底なしのドス黒い野心と、天下を己の物のみせんとする狂気じみた欲望の炎が、ギラギラと、チリチリと音を立てて燃え盛っていたのだ。
(いける……! 天下が……天下が、ついにこのわしに転がり込んできたぞ!!)
秀吉の脳内は、悲しみとは無縁の、恐ろしいほどの超高速回転で状況を演算し始めていた。
これまで彼は、明智光秀という未来を見通すようなチート頭脳の前に、幾度となく地獄の苦汁を舐めさせられてきた。
己の一世一代の出世作となるはずだった墨俣での「川から木を流す」という策は、光秀のプレハブ建築の前に完全な下位互換として粉砕された。
金ヶ崎の退き口では、命を懸けた殿軍の舞台を「遠足」に変えられ、比叡山でも本願寺でも、戦う機会すら与えられずに経済の力で完封された。
出番をすべて横取りされ、中央の政治から外され、過酷な西国の泥沼へと左遷された。光秀の異次元の恐ろしさを誰よりも肌で感じ、幾度となく「あの男には一生勝てない」という絶望を味わわされてきた。
だが、この歴史的な緊急事態において、秀吉の『野生の勘』は一つの強烈な確信を抱いていた。
(明智の奴め、ついに己の才に溺れて狂いおったか! 天下人である上様を殺せば、自分がその後どのような窮地に立たされるか分からん男ではなかったはずだが、天下の魔力に血迷ったとしか思えん!)
秀吉は泥に顔を伏せたまま、ニチャァ……と口端を吊り上げた。
(今頃奴は、京の都で大パニックに陥っている朝廷や公家への必死の根回し、治安維持、そして何より「主君殺し」という汚名に対する味方への言い訳や工作に追われて、完全に身動きが取れんはずだ!
いくら明智と縁戚にある細川藤孝や筒井順慶とて、主君殺しの逆賊にホイホイと無条件で味方するはずがない! 畿内の大名たちは必ず日和見を決め込み、明智は孤立する!)
対する自分の手元には、毛利という大国との過酷な戦線で何年も実戦を重ね、極限まで鍛え上げられた三万の精鋭部隊がいる。
この絶好の機を逃せば、自分は一生あの得体の知れない化け物の下で、飼い殺しにされるだけの人生だ。
(今しかない。今、この瞬間しかない! 上様の仇討ちというこれ以上ない『絶対の大義名分』を掲げ、逆賊・明智光秀の首を獲る! そうすれば、織田家の家臣たちも、天下の覇権も、すべてがこのわしの手に入る!!)
秀吉は、己の人生最大の勝負所が今まさに到来したことを完全に理解した。
「……官兵衛!!」
秀吉は、涙でぐしゃぐしゃになった顔をガバッと上げ、目を真っ赤に血走らせて、軍師・黒田官兵衛を怒鳴るように呼んだ。その声には、先ほどまでの悲嘆の響きは消え失せ、冷徹な指揮官としての凄まじい気迫が満ちていた。
「は、ははっ!」
「毛利と、即座に和睦を結べ! 外交僧の安国寺恵瓊を直ちに呼び出せ! 城主・清水宗治の切腹をもって、城兵すべての命は助けると伝えよ! 一刻の猶予もならん、強気で押し切れ!」
「しかし殿! 毛利の本隊数万が背後に迫っておるこの状況で、先方が素直に条件を飲むとは……!」
「飲ませるのじゃ!! わしらが上様の死を知ったことを、絶対に悟らせるな! 上様の大軍勢がまもなくこの備中に到着し、毛利を根絶やしにすると脅しつけよ! 急げ!!」
「は、ははっ! 直ちに手配いたします!」
官兵衛は、主君のただならぬ、そして狂気すら孕んだ異常な気迫に気圧されながらも、己の軍師としての本能を叩き起こし、即座に陣幕を飛び出していった。
秀吉は再び泥の地面を見つめ、ギリッと強く奥歯を噛み締めた。
天下を懸けた、明智光秀との最後の騙し合いが、ついに幕を開けたのだ。
【第1章・大幅改稿完了のお知らせ】
いつも応援ありがとうございます。
本日、第1章(第1話〜第27話)の全面的な改稿作業が完了いたしました!
1話あたりのボリュームをこれまでの1,500文字前後から3,000文字前後へと倍増させ、描写やキャラクターの心理をより濃密に、より鮮明に描き出しています。
ストーリーの大きな流れは変わりませんが、倍近い文字数で書き直したことで、光秀たちの歩みがより重厚に感じられる内容に仕上がりました。
すでに最新話までお読みいただいた方も、ぜひこの機会に、生まれ変わった「第1章」を読み直していただけると嬉しいです。
『歴史改変録』を、これからもよろしくお願いいたします!




