第9話:未来からの応急処置(改稿版)
俺は腰から下げていた竹筒に手をかけ、木栓を勢いよく引き抜いた。
中に入っているのは、ただの川の水や井戸水ではない。俺が日頃から自分の飲み水として携帯している「一度完全に沸騰させ、その後冷ました『湯冷まし』」だ。
戦国時代において、その辺の生水を飲むことは文字通りロシアンルーレットである。
この時代、農作物の肥料として大量の「人間の糞尿」が使われている。雨が降れば、その糞尿が溶け出した土壌から川や地下水脈へと流れ込み、井戸水であっても大腸菌や赤痢菌、コレラ菌、さらには恐ろしい寄生虫の卵がうようよと混入している可能性が極めて高いのだ。
俺の脳内にある『絶対記憶』の医療データが、生水を飲んで寄生虫に内臓を食い破られたり、激しい下痢による脱水症状で命を落とした当時の人々の凄惨な記録を、嫌というほど突きつけてくる。
だからこそ、俺は物心がついてからというもの、自分が口にする水は「必ず厨房の竈でグラグラと煮沸させ、完全に殺菌してから冷ましたもの」に徹底させているのだ。周囲には「十兵衛様は胃腸が弱いから」と誤魔化してあるが、これは俺がこの地獄の時代を生き抜くための、最低限にして最強の自衛手段だった。
「少し冷たいかもしれないが、我慢しろよ。いいか、絶対に動くな」
「ひゃっ……!」
俺は竹筒を傾け、その煮沸消毒済みの清潔な水を惜しげもなく使い、少女の膝の傷口に勢いよく流しかけた。
「あっ、だ、駄目です! 水をかけたら……血が、血が止まらなくなってしまいます!」
少女が悲鳴を上げ、反射的に足を引っ込めようとする。
当時の常識からすれば、彼女の反応は極めて正しい。「血の出ている傷口を、大量の水で洗う」など、出血を助長させる狂気の沙汰だと思われていたからだ。
当時の人々は、血を止めるために傷口を乾燥させようとし、泥や灰をすり込み、不潔な布で縛って蓋をしようとした。結果として、傷口に閉じ込められた細菌が爆発的に増殖し、命を落とすのだ。
「動くなと言っただろ。すぐに終わるから、俺を信じろ」
俺は少女の細い足首を片手でしっかりと掴み、有無を言わさぬ力で固定した。
六歳の子供とは思えない、その静かで威圧感のある声と頼もしい手に、少女はハッと息を呑み、怯えながらも抵抗をやめた。
俺は竹筒の水をジャバジャバと傷口にかけ流しながら、もう片方の手の「指の腹」を使って、傷口の奥に入り込んだ真っ黒な泥や砂粒、腐葉土の欠片を徹底的に、しかし肉を傷つけないように優しく丁寧に洗い流していく。
現代医学において、「傷口を大量の清潔な水で洗い流し、細菌や異物を完全に除去すること」。これこそが、感染症予防の絶対の基本にして最善の手である。
消毒液すら不要。細胞を傷つける強い消毒液よりも、まずは「物理的な異物の排除」が最優先なのだ。
「痛いか?」
「……い、いいえ。少し沁みますけれど……大丈夫、です」
少女はギュッと目を閉じ、小さな両手で着物の裾を握りしめながら、必死に痛みに耐えている。その健気な姿に、俺は少しだけ口元を綻ばせた。
「偉いぞ。もう泥は全部落ちた」
水洗いを終え、傷口から泥が完全に消え去り、奥から綺麗な赤い血だけがジワジワとにじんでくるのを確認した。細菌の温床となる異物は、これで完全に除去された。
俺はホッと息をつくと、今度は懐から真っ白な「手ぬぐい」を取り出した。
これもただの布ではない。
当時の人々が使っている手ぬぐいや着物の切れ端などは、洗ってあっても雑菌だらけだ。そんなものを傷口に当てれば、やはり化膿の原因になる。
だから俺は、自分専用の手ぬぐいをこっそりと熱湯で煮沸消毒し、さらに太陽の光の下で長時間「天日干し」にすることで、紫外線による強力な殺菌処理を施している。これを清潔な紙に包んで、常に懐に忍ばせているのだ。現代の救急箱に入っている滅菌ガーゼの代用品である。
「少し強めに縛る。これで血はすぐに止まるからな」
俺は清潔な手ぬぐいを折りたたみ、傷口に直接当てると、その上から圧迫するようにして膝にしっかりと巻き付け、きつめに結び目を作った。
異物の完全除去。清潔な環境の保持。そして、現代の救急救命における止血の基本である「直接圧迫止血法」。
薬品も医療器具もないこの戦国時代において、俺の知識が導き出せる、最善かつ完璧な処置だった。
「……あ」
処置を終えて俺が手を離すと、少女が不思議そうに目を丸くして瞬きをした。
手ぬぐいで適度に圧迫されたことで、ズキズキとした脈打つような痛みがスッと和らいだのだ。さらに、冷たい水で冷やされたことで炎症も抑えられている。
「痛くない、です。……さっきまで、あんなにズキズキして痛かったのに」
彼女の大きな黒曜石のような瞳から、恐怖の色が完全に消え去っていた。
俺の迷いのない鮮やかな手付きと、痛みを瞬時に消し去ったその処置が、当時の彼女の目には、まるで神仏が使う「魔法」や「奇跡」のように見えたのかもしれない。
涙で濡れていた彼女の顔が、パァッと花が咲いたように輝き始めた。
「綺麗に洗って塞いでおいたから、傷が化膿して熱が出ることは絶対にない。安心しろ。……だが、血が完全に止まるまでは走っちゃ駄目だぞ。数日すれば、かさぶたになって、また元通りの綺麗な足に治るからな」
俺が竹筒に木栓をして腰に戻し、立ち上がりながらそう告げると、少女は弾かれたように顔を上げ、俺を真っ直ぐに見つめた。
「あの、本当に魔法みたいでした! 痛いの、どこかへ飛んでいってしまいました!」
「大げさだな。ただ泥を落として、清潔な布で縛っただけだ」
俺が苦笑して答えると、少女は尊敬と好意、そして強烈な憧憬の入り混じった熱い眼差しで俺を見上げてきた。
「ありがとうございます……! あなた様がいらっしゃらなければ、私、ずっと泣いているところでした。あの……あなた様は、どこのお方なのですか?」
少女が、緊張した面持ちで尋ねてくる。
俺は彼女の目線に合わせてしゃがみ込み、ふっと優しく微笑んだ。
「俺は明智十兵衛。明智光綱の息子だ」
俺が名乗った瞬間。
少女は、まるで雷に打たれたように目を大きく見開き、信じられないものを見るように俺の顔を見つめた。
そして次の瞬間、先ほどまでの怯えが嘘のように、ひときわ嬉しそうな、満開の桜のような極上の笑顔を咲かせたのだった。
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