第8話:戦国時代の「死」の距離(改稿版)
「おい、大丈夫か?」
俺が声をかけると、地面にへたり込んでいた少女はビクッと肩を大きく揺らし、怯えた小動物のようにこちらを振り返った。
涙で潤んだ、こぼれ落ちそうなほど大きな黒曜石のような瞳。
土で汚れてはいるものの、あどけない顔立ちの中には、将来間違いなく周囲の目を惹きつける絶世の美女に成長するであろう、極めて整った造作の片鱗があった。
透き通るような白い肌に、真っ赤に熟した木苺のような小さな唇。身につけている上等な絹の小袖と、手入れされた艶やかで長い黒髪を見る限り、農民の子ではない。間違いなく近隣の有力な武家か、国衆の姫君だろう。
「あ、あの……転んでしまって……痛くて、立てなくて」
少女は俺が同じ年頃の子供(しかも着崩れた格好の男児)だと気づいて少しだけ警戒を解いたようだったが、恥ずかしそうに俯き、小さな両手で慌てて自分の膝を隠そうとした。
「見せてみろ。隠すな」
俺は、六歳の子供とは思えない低く落ち着いた声で言い放ち、少し強引に彼女の手をどけた。
「あっ……」という彼女の小さな声を無視して、怪我の具合を確認する。
「……ふむ。思ったより深く擦りむいたな」
彼女の白い膝小僧には、無惨な傷跡が刻まれていた。
転んだ際に鋭い石の角で肉をえぐってしまったのだろう。傷口からは赤い血がタラタラと絶え間なくにじみ出し、白い脛を伝って滴り落ちている。
だが、問題は血が出ていることではない。傷口の奥深く、めくれた皮膚の裏側に、真っ黒な泥と細かい砂粒、そして腐葉土の欠片がべったりと付着し、入り込んでいることだった。
それを見た瞬間、俺の顔が無意識のうちに険しく引き攣った。
背筋に、氷を押し当てられたようなゾッとする悪寒が走る。
現代日本であれば、「あらあら、派手に転んじゃったね。水道で洗ってマキロンでも塗って、絆創膏を貼っておこうね」で笑って済まされる、ごくありふれたただの擦り傷だ。
だが、ここは違う。
抗生物質も、消毒液も、破傷風のワクチンも存在しない、衛生環境が最悪の戦国時代なのだ。
「泥が深く入り込んだままでは、『破傷風』になる恐れがある。最悪の場合、足が腐り落ちるか、苦しみ抜いて死ぬぞ」
「はしょう……ふう? くさる……? しぬ……?」
俺が真顔で告げると、少女は恐怖よりも先に、まったく理解できない国の言葉を聞いたというように、きょとんと目を瞬かせた。
無理もない。この時代の人間にとって、破傷風菌や感染症、目に見えない細菌という概念そのものが存在しないのだから。
俺の脳内にある『絶対記憶の脳内図書館』が、目の前の傷口から予測される最悪の医療データを、容赦なく脳髄に展開してくる。
破傷風菌。
土壌中、特に動物の糞便が混じった泥の中に広く生息する嫌気性の細菌だ。こいつが酸素の少ない傷口の奥深くに侵入して増殖すると、極めて強力な神経毒を産生する。
感染すれば最後。数日の潜伏期間を経て、口がまともに開かなくなり、全身の筋肉が意志とは無関係に激しく痙攣し始める。やがて背骨が折れんばかりに反り返る『後弓反張』という地獄のような発作を起こし、最終的には呼吸筋が麻痺して、意識がはっきりしたまま窒息死する。
現代医学でさえ、発症すれば致死率の高い恐ろしい感染症だ。
(こんな土と馬の糞まみれの道で転んで、泥を傷口の奥までねじ込んだ……? ふざけるな、死神の鎌が首筋に当たっている状態じゃないか!)
当時の怪我の治療法といえば、俺のような現代の知識を持つ人間から見れば、もはや「絶望」の二文字しかなく、完全な狂気の沙汰だった。
怪我をすれば、傷口に「自分の唾」を塗りたくって良しとしたり、その辺の泥や竈の灰をすり込んだりして止血しようとする。
酷いものになると、戦場での刀傷に対して「馬の糞」や「人間の排泄物」を傷口に擦り込んで治そうとするような、自殺行為としか思えない呪術的な民間療法が、まことしやかに、そして平然とまかり通っていたのだ。
そんな処置をすればどうなるか。
傷口から瞬く間に化膿菌や破傷風菌が入り込み、敗血症を引き起こす。数日後には傷口から腐臭が漂い、四十度を超える高熱を出し、うわ言を叫びながらあっけなく命を落とすことになる。
「名のある猛将が、戦場の槍傷ではなく、かすり傷から熱を出して陣中で犬死にした」などという記録が、歴史書には腐るほど残っている。
ほんの小さな擦り傷が、数日後には確実な致命傷に変わる。
それが、この戦国時代における「死との距離感」なのだ。
現代の無菌室のような平和な日本で育った俺には、そのあまりにも軽すぎる命のやり取りが、たまらなく恐ろしく、そして忌まわしかった。
(こんな小さな傷で、この無垢な子を死なせるわけにはいかない。絶対にだ)
もし彼女が、俺と同じように現代の医療知識を持たない当時の人間に助けられていたら。「おや、可哀想に」と言って、汚れた手ぬぐいで傷口を適当に拭われ、唾でも塗られて終わりだっただろう。そして数日後には、痙攣して死ぬ運命だ。
俺は脳内図書館の奥から、【現代医学・応急処置マニュアル】と【野外におけるサバイバルサニタリー(衛生管理)】の本を瞬時に引き出しながら、即座に行動を開始した。
「おい、少し冷たいかもしれないが、絶対に我慢しろよ。いいか、絶対に動くな」
俺は少女を見据え、言い含めるように低く告げた。
その瞳には、六歳の子供のそれではあり得ない、長年戦場を生き抜いてきた修羅のような絶対的な威圧感と、医師のような冷徹な理知の光が宿っていたのだろう。
「ひっ……!」
少女は、俺の放つ異様な空気に完全に圧倒され、恐怖で声も出ないまま、ただコクンと小さく頷いた。
その瞳からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちるが、俺はそれに構っている暇はない。時間との勝負だ。菌が組織の奥深くまで定着する前に、物理的に全てを洗い流さなければならない。
俺は腰から下げていた竹筒に手をかけ、コルク代わりの木栓を勢いよく引き抜いた。
歴史オタクの俺が、この地獄のような時代で一人の少女の命を救うための、最初の「医療行為」が始まろうとしていた。
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