第7話:標的は『マムシ』(改稿版)
ある春の穏やかな午後。
俺は、子供特有の「集中力が切れて遊びたがっているフリ」をして退屈な木刀の素振りを早々に切り上げ、美濃国・明智荘の領内を流れる小川のほとりを一人で散策していた。
「お母様のために、綺麗なお花をいっぱい摘んでくる! 一人で探したいから、ついてきちゃ駄目だよ!」
俺が無邪気な満面の笑みでそう宣言すると、護衛の武士たちは「なんと親思いの若君か」と勝手に感動して目を細め、少し離れた場所で待機してくれた。ちょろいものである。
俺は常に周囲の目を欺き、「神童だが怪しくはない子供」を演じ続けることに、少なからず精神的な疲労を感じていた。だから時折こうして護衛を撒き、完全に一人でじっくりと思考を練るための、静かな時間と空間を必要としていたのだ。
さらさらと流れる小川のせせらぎ。土と青草の匂い、そして遠くで鳴く野鳥の声を胸いっぱいに吸い込みながら、俺は川辺の大きな岩に腰を下ろし、静かに目を閉じた。
そして、深い意識の底に広がる『漆黒の大図書館』へとアクセスする。
(さて……俺の肉体が本格的に成長し、歴史の表舞台に立てる年齢になるまでの間に、美濃の現状と今後のタイムスケジュールを正確に把握しておくか)
頭の中で検索クエリを投げ込むと、美濃国の歴史データが空中にホログラムのように展開される。
現在、この美濃国は、表向きは守護大名である土岐氏が治めていることになっている。だが、実態は全く違う。一人の得体の知れない怪物の手によって、すでに裏から実質的に支配されつつあるのだ。
その男の名は、長井新九郎規秀。のちに名を改め、一介の油売りから美濃の国主にまで登り詰め、下克上の代名詞として戦国史にその悪名を刻む男――『マムシ』こと、斎藤道三(利政)である。
(史実通りなら、道三はまもなく主君である土岐氏を完全に追放し、力技で美濃一国を乗っ取る。そして織田信長の父・信秀と激しい抗争を繰り広げた後、信長に娘の帰蝶を嫁がせて和睦する。だが……最終的には長男の義龍と対立し、長良川の戦いで実の息子に討ち死にさせられる運命にある)
俺の当面の目標にして、最初の巨大なハードルは、この斎藤道三に接触し、俺の『パトロン(絶対的なスポンサー兼、防波堤)』に仕立て上げることだ。
俺の脳内には、現代の科学技術や経済知識というチートがある。だが、それを「現実の圧倒的な力」に変換するには、莫大な初期投資の資金と、インフラ、そしてそれを他国や強欲な武将たちから横取りされないように保護する『強大な権力』が絶対に不可欠なのだ。
例えば、火薬を量産するための『硝石丘』。あれはタダ同然の排泄物から作れるとはいえ、大規模に稼働させるには広大な土地と、匂いや衛生面を管理する大勢の人手が必要になる。
さらに、莫大な富を生み出す『灰吹法(銀の精錬技術)』。これも、抽出に大量の「鉛」が必要であり、それを調達するための商人とのパイプが要る。
明智家という、美濃の一介の国衆(地方領主)程度の力でそれをこっそり始めたところで、あっという間に道三や他国の大名に目をつけられ、「その技術を寄越せ」と軍勢を差し向けられて蹂躙されるのがオチだ。個人でチート技術を開発しても、大企業の資本力と暴力にすり潰される。それは現代社会でも戦国時代でも同じことである。
だからこそ、俺は美濃で最大の権力を持つ怪物・マムシの懐に飛び込み、彼にその技術を「提供」する代わりに、彼の持つ資本力と軍事力を俺の手足として利用するのだ。
(だが……あの疑り深く、他人を一切信用しない冷酷なマムシが、明智の若造の言葉に簡単に耳を貸すはずがない)
どうやってあの怪物にアプローチし、どうやってマムシの毒牙を抜き、俺の掌の上で手懐けるか。
ただ技術を献上するだけでは、都合よく利用され、用済みになれば口封じに殺される。
彼と対等の、あるいはそれ以上の立ち位置で交渉のテーブルにつくためには、圧倒的な「命の貸し」か、彼が絶対に逆らえなくなるほどの「底知れぬ恐怖にも似た価値」を突きつける必要がある。
俺の価値を最も高く売り込めるタイミングと、カードの切り方。
道三の性格プロファイルから、どの手段が最適か。
脳内で無数のシミュレーションを重ね、情報の海を泳いでいた、まさにその時だった。
「……ぐすっ、ひっく……ううっ」
ふと、現実の聴覚が異音を捉えた。
俺は思考をピタリと中断し、目を開けた。
小川のせせらぎや風の音に混じって、茂みの向こうから、幼い子供のしゃくり上げるような泣き声が微かに聞こえてきたのだ。
(こんな人気の少ない川辺で、子供の泣き声……?)
俺は警戒して身を屈め、そっと足音を忍ばせた。
この時代、山や川辺には野犬や狼、あるいは人さらいの野盗が潜んでいることも珍しくない。不用意に近づけば、六歳の俺など一瞬で獲物になる。
だが、聞こえてくるのは間違いなく幼い少女の怯えた声だった。
俺は腰に差していた護身用の短い小刀に手をかけながら、声のする茂みの方へと慎重に足を踏み入れた。
草葉をそっと掻き分けた先。
そこには、俺と同い年くらいの可愛らしい少女が、地面に座り込んで両手で膝を押さえていた。
着物の裾がまくれ上がり、真っ白な膝小僧が露わになっている。どうやら石につまずくか、斜面を滑り落ちて、派手に転んでしまったらしい。
彼女は、土で汚れた手で必死に涙を拭いながら、痛みに耐えるように小さく震えていた。
その姿を見た瞬間、俺の脳裏に真っ先に浮かんだのは、「迷子か?」という疑問よりも、「この子の身分」に対する推測だった。
彼女が身につけている着物は、農民の娘が着るような麻のボロ布ではない。美しく染められた上等な絹の小袖だ。そして、手入れの行き届いた艶やかで長い黒髪。
間違いなく、近隣の有力な武家か、身分の高い国衆の姫君である。
(なぜ、こんな上流階級の娘が、供も連れずに一人でこんなところで泣いているんだ?)
「あ、あの……痛い……」
少女が、自分の膝を見てさらに涙を溢れさせる。
俺は小刀から手を離し、警戒を解いて茂みから姿を現した。
これからの歴史の波乱を思えば、こんな名もなき少女の怪我など、些細な出来事に過ぎない。
だが、この時の俺はまだ知る由もなかったのだ。
この土にまみれて泣いている小さな少女こそが、俺の「明智光秀としての運命」を決定づけ、俺の歴史改変の最大の『戦う理由』となる、かけがえのない存在だということを。
「おい、大丈夫か?」
俺が声をかけると、少女はビクッと肩を揺らし、怯えた小動物のように大きな瞳でこちらを振り返った。
そこから、俺と彼女の、歴史を塗り替える長い純愛の物語が始まったのである。
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