第10話:妻木熙子(ひろこ)と、俺の戦う理由
ひろこ。
その名を聞いた瞬間、俺の心臓がドクンと大きく跳ね、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。
妻木熙子。
歴史オタクである俺が、その名を知らないはずがない。
史実において、明智光秀が一生涯ただ一人愛し抜き、側室を一切持たなかったと言われる最愛の正室。
光秀が越前で貧困にあえいでいた放浪時代、彼女は自分の美しい黒髪を売って夫の出世の資金を作ったという、戦国屈指の純愛と献身のエピソードを持つ女性だ。
(……この子が、あの熙子)
未来の妻となる少女。
史実の光秀は、彼女の献身的な愛に支えられながらも、彼女に数え切れないほどの苦労と貧困を強いた。そして、過酷な放浪生活が祟ったのか、彼女は光秀が天下の大舞台に立つ前に、病でこの世を去ってしまう。
最愛の妻を失った光秀の心に空いた巨大な穴が、のちの「本能寺の変」の狂気へと繋がったと推測する歴史学者もいるほどだ。
「十兵衛、様……? どうかなさいましたか?」
俺が言葉を失って立ち尽くしていると、熙子が不安そうに首を傾げた。
「……いや。なんでもない」
俺は、熙子の顔を真っ直ぐに見つめた。
あどけない笑顔。俺を信じ切っている、純粋な瞳。
(俺は、絶対に史実は繰り返さない)
前世の記憶を思い出し、自分の運命を知った時、俺はただ「自分が死にたくない」「過労死したくない」という保身のために歴史を変えようとしていた。
だが、今は違う。
俺はこの子を、絶対に幸せにする。
髪を売らせるような貧め寂しい思いなど、一秒たりともさせない。
病で命を落とさせるような、不衛生で危険な生活など絶対にさせない。
そのためなら、マムシだろうが、魔王だろうが、猿だろうが、俺の知識のすべてを使って盤面から排除し、利用し尽くしてやる。
「妻木殿の姫君だったか。熙子、泣き顔より笑った顔の方がずっと似合っているぞ」
「っ……! はい……!」
俺が優しく微笑みかけると、熙子の頬がポッと林檎のように赤く染まった。
彼女は恥ずかしそうに俯きながらも、俺の顔をチラチラと盗み見ては、嬉しそうに口元を綻ばせている。
幼いながらも、強烈なフラグが立った音が聞こえた気がするが、俺にとっては望むところだ。
「さあ、日が暮れる前に家まで送ろう。立てるか?」
「はいっ、十兵衛様!」
俺は小さな熙子の手を取り、ゆっくりと歩き出した。
空を見上げると、美濃の空はどこまでも高く、澄み切っていた。
戦う理由は、今、完全に定まった。
天才・明智光秀の知略と、現代人のチート知識。
二つの武器を手に、俺は最愛の妻を守るための、そして戦国の裏側を制圧するための第一歩を、力強く踏み出したのだった。
『新・第6話〜第10話』をお読みいただきありがとうございます!
ヒロイン・熙子との出会いを深掘りしました。戦国時代の劣悪な医療事情を現代知識で打破するシーンと、彼女の正体を知った光秀が「絶対にこの子を幸せにする」と誓う、熱い動機付けの展開です。
次回は、成長した光秀がいよいよ行動を開始。**元の第3話・第4話(斎藤道三へのプレゼン、石見銀山と硝石丘)**を深掘りし、『新・第11話〜第15話』としてお届けする予定です。お楽しみに!




