第4話:極上の南蛮ワインと、魔王の卒業式(改稿版)
「申し訳ありません、上様。途中で血の気の多い野次馬たちの整理に手間取りまして」
俺は、腰の刀をカチャリと音を立てて鞘に完全に納め、張り詰めた空気を解きほぐすように、わざとらしく苦笑してみせた。
背後で槍を構え、俺に飛びかかろうとしていた蘭丸たち小姓衆は、信長が楽しげに笑い、俺が刀を収めたことで、完全に毒気を抜かれ、呆然と立ち尽くしていた。
「下がっておれ、蘭丸。こいつは俺の客だ」
信長の命令に、蘭丸たちは訳が分からないまま、恐る恐る部屋の隅へと後退した。
俺はふすまを静かに閉めると、懐から「コルク栓の瓶」と「二つのガラスの杯」を取り出し、信長の前に進み出た。
「さあ、上様。今宵の主役のための、極上の美酒をお持ちいたしました。……魔王の『卒業祝い』にございます」
俺が取り出したのは、堺の今井宗久から、この日のためだけに極秘で仕入れさせた、年代物の最高級の南蛮赤ワインだ。
俺がトクトクと、血のように真紅の液体を杯に注ぎ、一つを信長に差し出すと、彼はそれを受け取り、香りを楽しむように軽くグラスを揺らし、満足げに鼻を鳴らした。
「ふん。天下を完全に平定し、用済みとなった魔王を、自らの筆頭家老が軍勢を率いて『謀殺』する。……貴様らしい、悪辣で、最高に美しく劇的な筋書きだ。のちの世の歴史書にはさぞかし、俺の無念と貴様のどす黒い野心が、面白おかしく書かれることだろうな」
「ええ。学者たちは何百年も、私の謀反の動機について頭を悩ませることでしょう」
俺は自分の杯を持ち、胡座をかく信長と真正面から向き合って見据えた。
「天下を統べるには、血の匂いが染み付いた魔王のカリスマではなく、法と議会、そして経済による安定した統治が必要です。戦を終わらせるための暴力は、平和な世においてはただの猛毒に過ぎない。……上様がこのまま日本の玉座に座り続ければ、行き場を失った破壊衝動によっていずれ無意味な大粛清が始まり、国は自壊する。だからこそ、ここで『織田信長』という強大すぎるシステムを強制終了させねばならなかった」
俺はグラスを掲げ、信長のグラスとカチンと澄んだ音を立てて乾杯した。
「……ですが。上様のその比類なき才能と、常識を破壊する力をこの狭い日本で持て余し、ただ狂って腐らせていくのは、世界にとってあまりにも大きな損失だ。だからこそ、私が大悪人となって、上様をこの窮屈な鳥籠から解き放ちます」
俺は、ワインを一口含み、深く頭を下げた。
「上様。日本の魔王としての役目は、今日で終わりました。これより先は、海の向こう……『世界の覇者』となってください」
俺がそう告げると、信長はグラスの赤ワインを、喉を鳴らして一気に飲み干した。
「ぷはっ……! 違いねえ。血の味よりも、こちらのほうが遥かに美味いわ」
信長はグラスを放り投げると、懐から、俺が数日前に安土城で手渡した『分厚い羊皮紙の束』を取り出し、緋色の毛氈の上にバサリと広げた。
それは、堺の今井宗久に数年がかりで極秘に建造させていた、蒸気機関と鋼鉄の装甲を持つ超大型ガレオン船『NOBU号』の詳細な設計図。
そして、これから信長が向かう……明国(中国)、天竺、そして白人列強が支配する南蛮の国々が精緻に描かれた『世界航海図』だ。
信長は、その羊皮紙の表面を愛おしそうに撫でながら、肩を震わせ、やがて腹の底から湧き上がるような、豪快な笑い声を上げた。
「あっははははは!! 傑作だ! まさか俺の人生の最後に、こんな極上の悪ふざけが待っていたとはな!! 天下人を死んだことにして、鉄の化け物のような船に乗せ、見知らぬ異国の王どもを力でねじ伏せてこいと申すか!」
信長は立ち上がり、俺の肩をガシッと力強く、骨が軋むほど強く掴んだ。
その瞳には、かつて安土城で見たような虚無の影は一切ない。広大な世界という、己のすべてをぶつけるに足る新しい「遊び場」を与えられた、純粋な歓喜と暴力的なまでの野心が燃え盛っていた。
「十兵衛! やはり俺が、あの美濃の立政寺で、足利義昭の金ピカの神輿の後ろに隠れていた貴様を『最高値で買った』のは、俺の生涯における大正解だったぞ!!」
信長は、俺の肩を揺さぶりながら、顔を近づけて笑った。
「お前の底知れぬ未来の頭脳は、この俺の想像すら遥かに超えてみせた! お前がいなければ、俺はとっくにどこかの戦場で野垂れ死にするか、狂って自害するしかなかっただろう!」
炎に包まれた本能寺の奥深く。
日本の歴史の頂点に立った二人の男の、誰にも見られることのない、笑い声とワインの香りに満ちた極上の「卒業式」の時間は、静かに過ぎていった。




