第3話:炎の中の単独行と、静寂の奥座敷(改稿版)
本能寺の境内は、すでにこの世の地獄絵図と化していた。
明智軍の怒涛の突入からわずか数十分。至る所に放たれた火が、乾燥した木組みの建物を舐め尽くすように燃え広がり、パチパチと爆ぜる轟音と、肌を焦がすような熱風が嵐のように吹き荒れている。
炎と黒煙が夜明け前の暗い空を完全に覆い尽くし、むせ返るような火薬の匂いと焦げた異臭が、境内に濃密に立ち込めていた。
「上様をお守りしろ! 退くな、死して盾となれ!!」
「明智の逆賊どもを一人でも多く道連れにしろォォッ!!」
信長に付き従っていた森蘭丸をはじめとする小姓衆や近習たちは、圧倒的な数の暴力と火縄銃の猛威を前にしても、誰一人として逃げ出そうとはしなかった。彼らは着の身着のまま、あるいは急いで身につけた薄い胴丸だけで、傷を負いながらも必死に刀を振るい、槍を突き出している。
だが、その勇敢な抵抗も、完全武装した一万三千の明智軍の前では多勢に無勢だった。
しかし、戦場には奇妙な現象が起きていた。
死に物狂いで抵抗する蘭丸たち中核の小姓衆に対して、致命傷となるような銃弾はただの一発も飛んできていないのである。
彼らを取り囲む明智の先鋒部隊は、光秀からの極秘の厳命を受けていた。槍の峰で打ち払い、あるいは足元への威嚇射撃を繰り返すことで、彼らの命を奪うことなく、じりじりと『本能寺の奥座敷』へと退路を誘導するように追い詰めていたのだ。
「くそっ! 敵の数があまりにも多すぎる! 皆、上様の元へ退け! 奥座敷の扉を固めるのじゃ!!」
何も知らない蘭丸は、血走った目でそう叫び、生き残った小姓たちと共に奥座敷へと後退していく。それこそが、光秀が描いた盤面通りの動きであった。
四方八方で鉄砲の破裂音が交差する中を、俺(明智光秀)はただ一人、ゆっくりと、そして一切の迷いのない足取りで本能寺の奥へと向かって歩を進めていた。
(許せ、蘭丸。お前たちには、何も知らせてやれなかった)
この謀反が、俺と信長の合意による大芝居であるということは、絶対に誰にも悟られてはならない。
もし事前に近習たちに真実を明かせば、彼らの行動に必ず「甘さ」や「不自然さ」が生じる。天下の耳目を欺くためには、彼らには本気で絶望し、本気で戦ってもらうしかなかったのだ。
(だが安心しろ。お前たちはここで死ぬ運命ではない。上様と共に新しい世界へ旅立つ、最高の供回りとして選ばれたのだから)
彼らの流す汗と悲壮な覚悟こそが、この『世界最大の茶番劇』を歴史上の真実へと昇華させるための、最も不可欠な舞台装置であった。
俺は、迫り来る火の粉を水色桔梗の陣羽織で静かに払い除けながら、信長と蘭丸たちが逃げ込んだはずの奥座敷へと真っ直ぐに向かった。
近づくにつれ、建物の奥深くに侵入していくごとに、周囲の空間が変化し始めた。
外はこれほどまでに狂乱の喧騒に包まれ、建物のあちこちが轟音を立てて崩れ落ちているというのに。奥座敷へと続く長い廊下を進むにつれ、その音が、まるで分厚い見えない壁に遮られたかのように、急速に遠のいていくのだ。
炎の爆ぜる音も、兵たちの怒号も、くぐもった遠い潮騒のようにしか聞こえなくなる。
奥座敷のふすまの向こう側だけが、この狂乱の戦場にあって、異様なほどの「静寂」に支配されていた。
まるで、そこだけが血みどろの戦国の世から完全に切り離され、何者も侵すことのできない神聖な結界に守られた、全く別の空間であるかのように。
俺は、その静まり返った奥座敷のふすまの前に立ち、深く、長く深呼吸を一つした。
トクン、トクンと、心臓の鼓動がわずかに早くなるのを感じる。
これから開けるこの扉の向こうにいるのは、日本の歴史を文字通り血と炎で塗り替えた、第六天魔王。
そして、俺が前世から持ち込んだ途方もない未来の知識をすべて面白がって受け入れ、共に時代を駆け抜け、天下を平定した最高の親友だ。
俺は、鞘走らないように手に持っていた刀を軽く払い、柄を握り直した。
「そこを退け、蘭丸。俺は上様とお話しがしたい」
ふすまの向こうで身構えていた小姓たちに静かに声をかけると、俺は音を立てずにゆっくりとふすまを開き、その神聖な空間へと足を踏み入れた。
「……上様。明智十兵衛光秀、推参いたしました」
俺の口から出たその声は、燃え盛る寺の中にいるとは思えないほど、静かで、冷たく透き通って落ち着いていた。
部屋の中には、南蛮の香木が焚かれているのか、異国の甘く濃厚な香りが微かに漂っている。
ふすまを開けた俺を迎えたのは、狂乱の魔王の姿でもなければ、無念に唇を噛みちぎりながら切腹の準備をする敗者の姿でもなかった。
部屋の中央、上等な琉球畳の上に敷かれた、緋色の毛氈の上。
そこに、織田信長が座っていた。
彼は、俺の根回しで堺の大商人・今井宗久から極秘に取り寄せたという、最高級の真紅の南蛮ビロードの服を身に纏っていた。
和の空間にはおよそ似つかわしくないその異国の艶やかな生地が、窓越しに差し込む炎の赤い光を反射して、まるで彼自身が炎を纏っているかのように、怪しく美しく輝いている。
信長は、片膝を立てて優雅に脚を組み、手にした美しい南蛮ガラスの酒杯を弄びながら、ゆっくりと俺の方へ顔を向けた。
「……遅かったではないか、十兵衛」
信長は、燃え盛る外の炎を窓越しに眺めながら、まるで退屈な宴の始まりを待っていた客人のように、薄く、獰猛な笑みを浮かべて首を傾げた。
その彫りの深い顔には、迫り来る死への恐怖も、信頼する腹心に裏切られたという怒りも、微塵も存在していなかった。
そこにあったのは、ただ「待ちわびた極上の遊び」がようやく始まることへの、純粋な歓喜だけであった。
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