第2話:炎上する本能寺と、水色桔梗の反逆(改稿版)
天正10年6月2日、未明。
京の都は、まだ深い眠りの底に沈んでいた。
梅雨特有の湿った重い空気が町全体を覆い、狭い路地にひしめき合う町屋の戸は固く閉ざされている。町衆たちは、数刻後に迫り来る歴史の転換点に気づくこともなく、静かな寝息を立てていた。
その完璧な静寂を破るように、幾重にも連なる松明の炎が、京の通りを赤い川のように埋め尽くしていった。
明智の軍勢は、驚異的な速度で、かつ無駄な足音を立てることなく京の町を抜け、織田信長が滞在する本能寺へと到達した。
本能寺の周囲は、高い土塀と水を湛えた深い堀で囲まれた、ちょっとした城塞のような造りの寺院である。だが、信長が現在連れている供回りは、森蘭丸をはじめとする小姓衆を中心とした、わずか百数十名に過ぎない。
対するこちらは、俺の最新の近代戦術を叩き込まれ、完全武装した一万三千の大軍だ。
「各隊、配置につけ! アリ一匹逃がすな! 堀の周囲を完全に包囲しろ!」
秀満や斎藤利三といった将校たちの的確かつ迅速な指示により、本能寺の四方はあっという間に明智の軍勢によって多重に包囲された。
近代的な軍事教練を受けた兵たちは、恐怖に足がすくむことも、無駄口を叩くこともない。機械のように正確な動作で鉄砲の火縄に点火し、無慈悲な黒い銃口を、寺の表門や裏門、そして高い土塀に向けて一斉に突きつける。
絶対的な『死の檻』が完成した。
俺は本陣となる少し離れた高台から、その完璧な包囲網を確認し、軍扇を静かに振り下ろした。
「放て!!」
俺の号令を合図に、明智の鉄砲隊が、本能寺の堅牢な表門に向けて一斉に火縄銃を放った。
タァン! タァン! タァン! ズドォォォンッ!!
静まり返っていた京の夜空を劈くような、連続した轟音。
何百発もの鉛玉が分厚い木門を容赦なく穿ち、木片が派手に吹き飛ぶ。それを合図に、待機していた槍部隊が怒涛の鬨の声を上げ、破壊された門を踏み越えて境内へと雪崩れ込んでいった。
「うおおおおっ! 敵は本能寺にあり!!」
「上様の首を獲れェェッ!!」
突如として始まった襲撃に、本能寺の内部は一瞬にしてパニックに陥った。
「な、何事だ!?」
「敵襲! 敵襲ぞ!! どこから敵が湧いた!?」
「謀反だ! 旗を見ろ……水色桔梗の旗、明智日向守の軍勢だ!!」
寝込みを襲われた織田の近習たちが、着の身着のまま飛び出し、混乱の中で刀を抜いて必死に応戦する。だが、圧倒的な数の差と火力の前に、彼らは次々と血飛沫を上げて倒れ伏していく。
「明智様が……明智様が謀反だと!? ば、馬鹿な! なぜ明智様が!?」
血まみれになって槍を振るう森蘭丸をはじめとする小姓たちは、迫り来る水色桔梗の旗印を見て、信じられないものを見るように絶望に顔を歪めた。
天下で最も信長が信頼し、織田家の屋台骨を支えていたはずの男が、完全な殺意を持って大軍を差し向けてきたのだから。彼らの思考が追いつくはずもない。
「ええい、退け! 門を固めろ! 何としても上様をお守りしろ!」
蘭丸の悲痛な叫び声が境内に響くが、その声もすぐに鉄砲の轟音にかき消されていく。
外から見れば、まごうことなき「天下の謀反」の光景である。
明智の兵たち自身も、本気で「自分たちは天下の魔王を討ち取るのだ」と信じ込んで、血眼になって槍を振るっている。誰一人として、これが茶番劇だとは知らない。
寺の各所から火の手が上がり、赤い炎が夜明け前の暗い空を焦がし始め、黒煙がもうもうと立ち上っていく。
「明智殿! 寺の周囲は完全に塞ぎました! 裏門も幾重にも固め、ネズミ一匹逃げられませぬ!」
俺が本陣から馬を進め、燃え盛る本能寺の表門の前に到着すると、重臣の斎藤利三が、顔に敵の返り血を浴びながら、興奮と悲壮感の入り混じった面持ちで俺の元へ駆け寄ってきた。
彼の目には、己の主君が天下人となる瞬間に立ち会っているという強烈な忠義と、絶対的権力者に歯向かったことへの微かな恐怖が入り混じっている。
「ご苦労だった、利三。見事な采配だ。……これより先は、私一人が行く。お前たちはここに残り、何人たりとも中へ入れるな。私が戻るまで、一切の手出しは無用だ」
俺が馬を降り、陣羽織を翻して本能寺の燃え盛る境内へ向けて歩き出そうとすると、利三が血相を変えて慌てて立ち塞がった。
「なっ、お待ちくだされ! 危険にございます! 上様は自ら槍を振るい、弓を射る天下無双の猛将。たとえ追い詰めたとはいえ、殿が単身で奥へ向かわれれば、狂乱した上様からどのような反撃を受けるか分かりませぬ! どうか、我らをお供に!!」
利三の言葉は、忠臣としての心からの懸念だ。主君を危険に晒すわけにはいかないという必死の制止である。
だが、俺は歩みを止めず、立ち塞がる利三の肩をポンと静かに叩いた。
「よい。上様の最期は、他の誰でもない、この私の手で直接引導を渡さねばならんのだ。それが、これまであの方と共に天下を切り拓いてきた私の、最後の務めだ」
俺は利三の目を真っ直ぐに見据えた。
「……これは、私と上様、二人だけの戦いだ。邪魔立ては許さん」
俺の放つ圧倒的なオーラと、決して揺るがない決意の目を前に、利三はそれ以上言葉を続けることができず、ただ深く、無念そうに頭を下げて道を譲った。
「……御武運を」
「ああ」
俺は血塗られた戦場に相応しくないほど落ち着いた足取りで、燃え上がり始めた本能寺の境内へと、悠然と足を踏み入れた。
火の粉が舞い散り、悲鳴と轟音が交錯する中、俺の視線はただ一点、信長が待つ奥座敷へと向けられていた。
歴史上最大のミステリーの空白の数時間が、俺と信長だけが知る真実の物語として、今まさに幕を開けようとしていた。
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