第1話:桂川の反転と、歴史改変の幕開け(改稿版)
天正10年(1582年)6月1日、深夜。
漆黒の闇に包まれた山陰道を、一万三千に及ぶ明智の軍勢が、不気味なほど静かに、そして恐るべき速度で西へと行軍していた。
通常、一万を超える大軍が夜通し山道を歩けば、隊列は間延びし、足軽たちは疲労と睡魔で足を引きずり、士気は底辺まで落ち込むのが戦国時代の常識だ。
だが、この明智軍に疲労の影はほとんど見られない。
それもそのはずである。俺は出陣の数日前から、彼らに十分な睡眠をとらせ、現代の『スポーツ栄養学』のロジックに基づいて開発した高カロリーな携帯食――砂糖をふんだんに使った羊羹や、南蛮由来のビスケット(乾パン)を惜しみなく支給していた。
さらに、行軍中も「「半刻ほど歩いて小休止」という近代軍隊の合理的なタイムスケジュールを徹底させている。彼らの肉体にはまだ十分なエネルギーが充満し、士気は極限まで高まっていた。
やがて、深夜の深い静寂の中。
軍の先頭を進んでいた俺の視界に、一つの大きな川が姿を現した。
『桂川』である。
梅雨の長雨による増水で、濁った水面がごうごうと低い咆哮を立てて流れている。厚い雲の切れ間から覗く青白い月明かりが、その水面を妖しく照らし出していた。
ここが、日本の歴史における最大の分岐点だ。
この道を真っ直ぐ西へ進み、川に沿って歩を進めれば、予定通り備中国(岡山県)で毛利軍と対峙している羽柴秀吉の陣へと向かうことになる。「秀吉の援軍に向かえ」という、織田信長からの表向きの命令通りに。
だが。ここで川を渡り、進路を『東』へ折れれば……。
そこは、魔王・織田信長が、わずか百名程度の供回りだけを連れて、完全に無防備な状態で滞在している京の都・本能寺だ。
「殿。これより、いかになさいますか。このまま夜を徹して、西へ進軍を続けますか?」
先頭を進んでいた明智の重臣であり、俺の腹心・明智秀満(左馬之助)が、馬首を寄せて俺に指示を仰いできた。
彼の顔には、まだ何の疑念もない。ただ純粋に、俺の次なる采配を待っている。
夜風が吹き抜け、俺が纏っている『水色桔梗』の陣羽織を大きく揺らした。
松明の炎がパチパチと爆ぜる音と、馬の荒い鼻息だけが、不気味なほど鮮明に耳に届く。
俺はゆっくりと愛馬の首を撫でながら、目を閉じた。
俺の脳裏に、数日前に安土城の天主で交わした、あの破壊の魔王との密談の記憶が鮮明に蘇ってくる。
『俺の心の中は、まるで燃え尽きた灰のようだ』
金箔と南蛮の絨毯で飾られた豪華絢爛な安土城の最上階。
天下布武の完成を目前に控えた織田信長は、俺が持ち込んだ極上の南蛮ワインを煽りながら、底なしの虚無を湛えた瞳でそう吐き捨てた。
『昔は、今川や斎藤といった強敵をどうやって捻り潰すか、そればかりを考えて血を滾らせていたというのに。……今の俺は、ただ書類に判を押し、些細な小競り合いを起こした家臣を処罰するだけの、退屈な老人だ』
信長という男は、破壊と創造の過程においてのみ、その天才的なカリスマを発揮する戦の化け物だ。
だが、ひとたび国が平定され、法と議会による安定した統治(平和)が必要なフェーズに入れば、彼のその絶対的な独裁権力と破壊衝動は、必ず国を内部から自壊させる劇薬となる。
それは、史実の歴史データを知り尽くした俺の目にも明らかだったし、何より、信長自身が己の異常性に気づき、絶望していたのだ。
『上様の破壊衝動と野心をぶつけるのに、これほど相応しい広大な盤面はございません。上様には、この狭い島国を捨てて……『世界の覇者』となっていただきます』
俺がそう提案した時の、信長の顔。
驚き、疑念、そして次の瞬間には、少年のように目を輝かせて俺の計画を聞き入っていた、あの歓喜に満ちた笑顔。
『あっははははは!! 面白い! 天下人を死んだことにして海へ逃がすだと!? 傑作だ、十兵衛!! やってみせろ!!』
信長の言葉が、耳の奥でこだまする。
(上様。貴方は、戦国の世を終わらせるための最強の破壊神だった。……だが、これからの平和な新しい時代には、魔王の存在は大きすぎる)
俺には、約束がある。
あの見目定めの病(天然痘)から救い出し、どんな手段を使ってでも世界で一番幸せな女にすると誓った、最愛の妻・熙子との約束が。
彼女が、そして俺たちの子供たちが、二度と戦火に怯えることなく、誰もが豊かに笑って暮らせる、永遠の法治国家を創り上げる。
そのためには、信長という強烈なカリスマを歴史の表舞台から『完全退場』させ、俺がすべての権力と泥を被って、新しい国のシステムを構築しなければならない。
俺は、静かに目を開いた。
その瞳には、かつて歴史の強制力に怯えていた青年の姿はない。歴史の歯車を自らの手で回し、世界の運命をプロデュースする、冷徹にして完璧な知将の光が宿っていた。
俺は手綱を強く引き、馬首をゆっくりと、しかし確固たる意志を持って『東』へと反転させた。
「……えっ?」
「東……? 殿、そちらは京の都の方角でございますが……」
秀満が絶句した。
背後に続く一万三千の兵たちが、俺の不自然な行動の意味を測りかねて、一斉に歩みを止める。
何が起きたのか。道を間違えたのか。ザワザワとしたどよめきと戸惑いが、夜の闇の底で波紋のように広がり始めた。
俺は、腰に差していた軍扇を静かに抜き放った。
そして、夜空に浮かぶ青白い月に向かって、それを天高く振り上げた。
「……皆の者、聞け」
俺の声は、決して声を張り上げたわけではない。不思議なほど静かに、だが確かな熱と絶対的なカリスマを帯びて、水を打ったように静まり返る全軍の耳の奥まで、はっきりと届いた。
これから始まるのは、突発的な怨恨による暴走でも、天下への野心から来る安っぽい謀反でもない。
俺と信長が仕掛ける、日本中を……いや、のちの世界の歴史学者たちを完全に騙し切るための、最高にエキサイティングで壮大な『茶番劇』だ。
それを完璧に成し遂げるためには、俺の軍に一糸の乱れも、一瞬の躊躇いもあってはならない。
「我らの進む道は、西ではない」
俺は、天に掲げていた軍扇を鋭く振り下ろし、桂川の向こう……闇の先にある運命の場所を、真っ直ぐに指し示した。
「――敵は、本能寺にあり!!」
その言葉が、夜空に雷鳴のように響き渡った瞬間。
俺の軍勢に、史実の記録にあるような「天下人・織田信長に刃を向けることへの恐怖」や「主君殺しという大罪に対する迷い」は、一切、微塵も起きなかった。
一瞬の静寂。
そして次の瞬間、爆発するような熱狂が、一万三千の全軍を包み込んだのだ。
「殿がそう仰るなら、間違いない!!」
「殿に従えば、我らは常に勝ってきた! 天下の魔王とて恐るるに足らず!!」
「我らの正義は、明智水色桔梗にあり!! 殿に続けぇぇっ!!」
この十五年間。俺は彼らに、近代兵器と圧倒的な経済力を与え、一度の敗北も許さず、常に腹一杯の飯を食わせてきた。
彼らにとって、俺の言葉は神仏の託宣にも等しい絶対の真理だ。俺が「右が白だ」と言えば、それがどんなに黒く見えようとも白だと信じて疑わない、完璧に調教された狂信的な軍隊なのだ。
「全軍、進路を東へ! 京の都を完全封鎖せよ!!」
将校たちの怒号が飛び交い、兵たちは一切の躊躇なく、狂熱の歓声を上げながら東へと進路を変えた。誰一人として逃亡する者はいない。
歴史上最大のミステリーとされる『本能寺の変』。
悲劇の裏切りとして、野望の末の破滅として語り継がれるはずだったその事件は今、歴史オタクの手による「究極の歴史改変プロデュース」の最終章へと昇華された。
(さあ、魔王の卒業式を始めよう)
俺は馬の腹を蹴り、燃え上がるような高揚感とともに、京の都へ向けて疾走を開始した。
俺の生み出した火薬の匂いと、夜明け前の冷たい風が頬を打つ。
歴史の針が、今、完全に振り切れた。
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