第12話:深夜の古寺と、家康の警戒
天正10年(1582年)5月下旬。
夜の帳が完全に下りた和泉国・堺の町は、昼間の熱狂的な喧騒が嘘のように静まり返っていた。ここは日本最大の自治都市であり、莫大な富が集まる黄金の町だ。夜風に乗って、潮の香りと共に、どこからか漂う南蛮渡来の香辛料や伽羅の匂いが入り混じり、この街特有の異国情緒あふれる空気を醸し出している。
そんな絢爛豪華な街の中心から遠く離れた郊外に、ひっそりと佇む古寺があった。
虫の音すら遠慮がちに響くその薄暗い境内に、一人の男が息を潜めるようにして座していた。
のちに二百六十年続く泰平の世を築き上げ、「神君」として祀られることになる男――徳川家康である。
織田信長の強い勧めにより、家康は長年にわたる武田攻めの労いとして、少数の供回りだけを連れて堺の町を遊覧していた。表向きは同盟国としての最高の歓待である。事実、日中は豪商たちによる豪奢な茶会や、珍しい南蛮品の買い付けなど、至れり尽くせりの手厚いもてなしを受けていた。
だが、豪奢な客間に一人戻るたび、家康の胸中には冷たい泥水のような不安が拭い去れずに渦巻いていた。
戦国の世において、本国・三河から遠く離れた畿内のど真ん中に、わずかな手勢のみで滞在するという事実。それは、もし織田家がほんの気まぐれで牙を剥けば、赤子の首を捻るように容易く殺されるという「完全な無防備」を意味しているのだ。同盟国とはいえ、相手はあの気まぐれで残酷な魔王・信長である。いつ「家康をここで始末しろ」という命令が下ってもおかしくはない。
俺の脳内にある【絶対記憶】が、史実のデータを残酷に弾き出す。
史実において、この直後に京で『本能寺の変』が勃発する。信長の死を知った家康は、自らも明智軍や信長残党に狙われると思い込み、絶体絶命の危機に陥る。そして、明智の軍勢や落ち武者狩りの農民たちから逃れるため、供の者たちと共に険しい山道を死に物狂いで駆け抜ける『神君伊賀越え』という悲惨な逃避行を強いられるのだ。
それはまさに地獄だった。道中で多くの優秀な忠臣を失い、家康自身も幾度も刀を抜いて自刃を覚悟したという。のちの天下人に、一生消えないほどの深刻なトラウマを植え付けた歴史的大事件である。
だが、俺は彼にそんな惨めな泥水を啜らせるつもりは毛頭なかった。
彼がのちに作り上げる江戸幕府のシステムは、平和を維持し、官僚機構を育てるための極めて優れた統治機構だ。家康は、俺がこれから作る新しい日本「近代国家体制」において、絶対に欠かすことのできない最も重要な共同経営者でなければならないのだ。
「……明智殿。お入りになられよ」
古寺の縁側に足を踏み入れた俺の耳に、低く、警戒心に満ちた声が届いた。
薄暗い堂内の奥。俺が護衛の数すら連れず、たった一人で本堂に足を踏み入れると、そこにはすでに異様な空気が張り詰めていた。
外の闇の中には、本多忠勝ら屈強な徳川の猛将たちが、息を殺して潜んでいる気配がビンビンと伝わってくる。そして堂内の中央に一人で座していた家康は、わずかな蝋燭の揺らめく灯りに照らされながら、俺を射殺さんばかりの鋭い視線を向けてきた。
「このような夜更けに、人払いをしてまで何のお話で? それも、天下の明智十兵衛殿が、たった一人でこんな古寺に足を運ばれるとは」
家康の低い声が、静寂の古寺に不気味なほど響き渡った。その顔には、連日の遊覧で溜まった隠しきれない疲労と、それ以上の凄まじい警戒心が浮かんでいる。
金ヶ崎の退き口での圧倒的なプレハブ兵站や、比叡山・本願寺の資金源を完全に干上がらせた冷徹な経済制裁。俺が這い上がってくる過程で見せた常軌を逸した知略の数々を、家康は同盟軍として誰よりも間近で見てきている。
「あの底知れぬ明智十兵衛が、わざわざ夜中に極秘裏に呼び出してきた。ただの世間話や、茶の湯の誘いで終わるはずがない」と、彼の中に眠る戦国武将としての野生の勘が、けたたましい警鐘を鳴らして危険を知らせているのだ。
「突然の無礼な呼び出しに応じていただき、心より感謝いたします、徳川殿。それと、外の闇に控えておられる平八郎(本多忠勝)殿たちにも、どうかお気を楽にし、刀から手を離すようお伝えください。ご覧の通り、私は丸腰にございます」
俺は家康の対面に静かに正座し、深く一礼した。腰に刀はない。
家康は答えず、ただじっと俺の目の中にある『真意』を、その狸のような眼光で探ろうとしている。
「腹の探り合いは無用と存じます。単刀直入に切り出しましょう。徳川殿」
俺はゆっくりと顔を上げ、日本の歴史の針を、本来のレールから大きく狂わせる最初の一言を放った。
「――私は近い将来、上様(信長)を討ちます」
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