第5話:破壊神への処方箋(改稿版)
「……海の向こうへ、だと」
信長は、押し殺したような低い声で呟きながら、目の前に広げられた世界地図を指先でなぞった。
極東に浮かぶ、芥子粒のように小さな島国・日本。そこから指を滑らせ、巨大な明国(中国)を越え、天竺を抜け、はるか西の果てにある南蛮の列強諸国へと視線を移していく。
「十兵衛。お前は、この俺に……己の創り上げた天下を捨て、未知の異国へ行って、あの白人どもの王と殺し合いをしてこいと言うのか」
「ええ。上様は、平和な世で退屈な政務をこなすような器ではない。貴方様の魂は、常に強大な敵を破壊し、新たな常識を創造する最前線にこそふさわしいのです」
俺は、信長の目を真っ直ぐに見据えて断言した。
「現在の南蛮諸国は、強力な艦隊と火器を持ち、世界中の海を制覇しつつあります。……ですが、私の未来の知識と、堺で密かに建造させている『漆黒の箱舟』があれば。上様は、連中の常識を遥かに凌駕する暴力をもって、世界の海を蹂躙することができる」
「くっ……ふはははは!」
信長の喉の奥から、乾いた笑い声が漏れた。それはやがて、部屋の空気を震わせるほどの豪快な哄笑へと変わっていった。
「傑作だ! まさか、この俺の『退屈』という不治の病に対する処方箋が、世界征服への切符だとはな! 確かにお前の言う通りだ、十兵衛。……日の本は、俺が暴れ回るにはあまりにも狭すぎた!」
信長は地図をガシッと掴み上げ、狂喜に満ちた目でそれを睨みつけた。
史実において、信長というシステムは、天下統一という目的を失った瞬間に暴走し、自壊する運命にあった。
その『歴史のバグ』を解消するための唯一にして究極の方法。それは、信長という強すぎるソフトウェアを、日本という枠組みから物理的にアンインストールし、より巨大な外部サーバー(世界)へと移すことだったのだ。
信長はひとしきり笑い声を上げた後、ふと冷静な目に戻り、俺を見た。
「……だが、十兵衛よ。俺がただ『世界へ行く』と宣言して海を渡れば、後に残されたこの国はどうなる? 野心を持て余した家臣どもが、すぐに次の覇権を争って血みどろの大乱世に逆戻りするぞ。お前が創りたかった『平和なシステム』とやらも、水泡に帰すのではないか?」
信長の指摘は極めて鋭い。彼が生きている限り、あるいは彼が明確な後継者を残さずに姿を消せば、織田家の重臣たちは確実に権力闘争(内戦)を引き起こす。
それを防ぐためには、ただ彼が姿を消すだけでは駄目なのだ。
「その心配は無用にございます。……なぜなら、上様はただ海を渡るのではないからです」
俺は、一呼吸置き、この歴史上最も狂った計画の「核心」を口にした。
「織田信長は、この日の本で『死んだこと』にしなければならない」
「……何?」
信長の眉がピクリと動く。
「私が大軍を率いて、上様が滞在する京の宿所に火を放ち、謀反を起こします。上様には、あらかじめ掘っておいた秘密の抜け道から無事に脱出していただき、用意した身代わりの死体を炎で焼き尽くし、歴史の真実を完全に隠蔽するのです」
俺は、淡々と、しかし恐ろしいほどの熱量を込めて、自分の描いた完璧なシナリオ(本能寺の変)を語った。
「私が『主君殺しの逆賊』としてすべての泥と怨嗟を被り、天下の注目とヘイトを私一人に集めます。その間に、上様は誰にも知られることなく、堺から出航していただく」
「……待て、十兵衛。それではお前が、俺の仇として全方位から狙われることになるぞ。秀吉も、柴田も、徳川も、こぞって『逆賊・明智』を討つために大軍を率いて殺到してくるはずだ」
信長がもっともな懸念を口にするが、俺は扇子をパチンと開き、冷徹な悪魔の笑みを浮かべた。
「いいえ、上様。私を『逆賊』として討つために狂喜して殺到してくるのは……ただ一人の男、『羽柴秀吉』だけです」
「どういうことだ?」
「これから私が謀反を起こすまでの間。私は、柴田勝家殿や丹羽長秀殿、そして同盟国の徳川家康殿に至るまで、すべての有力武将たちに完璧な『根回し』を行います」
俺の未来の知識と、これまで築き上げた圧倒的な経済力、そして彼らの領地の兵站を握っているという事実。それらを最大限に活用し、俺は彼らと密約を結ぶのだ。
「新しい天下布武と莫大な利益を提示し、あるいは私が彼らの首根っこを握っているという合理的な恐怖をもって、彼らを完全に私の『味方』に引き入れます。……上様が消えた後の天下において、私に逆らうことがいかに無謀であるか、彼らの骨の髄まで理解させます」
「……なるほど。他の重臣どもは、すべて事前に取り込むというわけか。だが、なぜ秀吉だけを外す? あいつも取り込めば、無血で済むだろうが」
「秀吉だけは、駄目なのです」
俺の声が、一段と低く、重くなった。
「あいつだけは、史実の……本来歩むべきだった成功のレールを私がすべて奪い去ったことで、歴史の法則が一切通用しない『予測不能の怪物』へと進化してしまいました。どんなに完璧なシステムで押さえつけようとも、あいつの泥臭い生存本能と野心は、必ずその隙間を食い破ってきます。……秀吉を野放しにすれば、必ずこの国に致命的な内乱の火種を残すことになる」
だからこそ、俺は『本能寺の変』という極上の舞台を利用するのだ。
「私は秀吉にだけは何も伝えず、私が『完全に孤立した愚かな逆賊である』という偽の盤面を信じ込ませます。……天下を獲る野心に燃えるあの男は、これを千載一遇の好機と狂喜し、周囲が見えなくなり、全軍を率いて京へとすっ飛んでくるでしょう。自分だけが天下人になれると信じて」
俺は、広げた世界地図の上に置かれていた一つの木彫りの駒を、指ではじき飛ばした。
「ですが、彼が息を切らして辿り着いた先……山崎の地で彼を待っているのは、孤立した明智軍などではありません。私が手塩にかけて構築した近代要塞と、彼以外のすべての織田家重臣たちが私の味方として立ちはだかる、『完全なる絶望の大包囲網』です」
秀吉が「自分は英雄だ」と信じて扉を開けた瞬間。
そこに待っているのは、味方だと思っていた同僚たち全員が、冷ややかな目で自分に銃口を向けているという、この世で最も残酷な現実だ。
「秀吉という怪物を、物理的に、そして精神的に完膚なきまでに叩き潰す。……二度と私のシステムに逆らおうという気が起きないほどに、その野心を根底からへし折り、完全に調教するのです。そうして初めて、私はこの国を真の平和へと導くことができる」
静寂が、部屋を重く包み込んだ。
信長は、俺の顔をじっと見つめ……やがて、その口元が歪み、再び肩を震わせて笑い始めた。
「……くっ、ふはははは! お前、本当に狂っているな、十兵衛! 天下を平定した魔王を逃がし、野心家の猿を完全に孤立させて、味方全員で袋叩きにする大芝居だと!? 神仏すら腰を抜かすような、前代未聞の謀略ではないか!!」
信長は、歓喜に顔を歪ませながら、立ち上がった。
「いいだろう! その話、乗ってやる! 俺の命も、この天下も、すべてお前のその狂った脚本に預けてやろうではないか!!」
信長は、俺の前に力強く右手を差し出した。
「お前は俺を退屈という地獄から救ってくれた。俺もお前のために、極上の『死に様』を演じてやろう。……さあ、急げ十兵衛! 俺の乗る『箱舟』の建造を急がせろ! 一日でも早く、俺をこの鳥籠から出してくれ!!」
俺は、信長の差し出したその大きく武骨な手を、力強く握り返した。
「はっ。必ずや、上様にご満足いただける最高の舞台をご用意いたしましょう」
二人の間に交わされた、熱く、そして歴史上最も恐ろしい『共犯関係』の成立。
それは、主君と家臣という枠組みを完全に超えた、二人の天才による魂の密約だった。
(これで……信長様を救い、秀吉という最大のバグを処理するための盤面が定まった)
俺は、安土城を退出する道すがら、夜風に当たりながら深く息を吐いた。
史実の本能寺の変は、光秀の突発的な怨恨か、追い詰められた末のクーデターだったと言われている。
だが、俺が起こす本能寺の変は違う。信長本人と結託し、彼を「歴史のバグ」から解放しつつ、最大の脅威である秀吉を合法的に罠に嵌めるための、緻密で壮大な大芝居だ。
俺の脳裏に、西国で毛利と対峙しながら、虎視眈々と野心を燃やしているであろう『羽柴秀吉』の顔が浮かんだ。
(……お前の出番だ、秀吉)
俺が「逆賊」として汚名を被った時、真っ先に俺の首を狙って喰いついてくるであろう、最大の標的。
俺は残された時間で、家康や柴田たちへの根回しを完璧に済ませ、秀吉のための『極上の落とし穴』を掘り進めなければならない。
夜明け前の暗い空の下。
歴史オタクによる、世界最大の歴史改変プロデュースの「(本能寺の変)」へ向けた歯車が、猛烈な速度で回り始めたのだった。
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