第4話:玉座に降り積もる、冷たい灰(改稿版)
その日の深夜。
俺は、信長の小姓である森蘭丸からの極秘の呼び出しを受け、安土城の天主――信長の私室へと足を運んでいた。
「上様。明智様をお連れいたしました」
蘭丸が静かにふすまを開けると、そこには、異様な光景が広がっていた。
豪華絢爛な金箔の壁。床には毛足の長いペルシャ絨毯が敷かれ、部屋のあちこちには、俺が南蛮商人から取り寄せさせた精巧な機械式時計や、美しいガラス細工、そして黄金の地球儀といった、途方もない価値を持つ宝物が無造作に転がっている。
だが、その部屋の主である織田信長は、たった一つの薄暗い蝋燭の灯りだけを頼りに、部屋の中央で一人、酒杯を傾けていた。
「……入れ、十兵衛」
信長の声は、昼間の軍議で見せた激しい怒りとは打って変わり、酷く静かで、ひんやりと冷たかった。
俺が部屋に入り、静かに平伏すると、信長は無言で俺の前にヴェネツィアングラスの酒杯を置き、南蛮の赤ワインを注いだ。
「飲め。今日は、君臣の礼は抜きだ。……ただの、酒の相手をしろ」
「……はっ。お言葉に甘えさせていただきます」
俺は杯を手に取り、一口だけ喉に流し込んだ。極上のワインの味が、張り詰めた胃の腑に熱く染み渡る。
「……十兵衛。天下とは、かくも冷たく、つまらぬものか」
信長は、薄暗い天井を見上げたまま、ポツリと呟いた。
その横顔は、天下布武を成し遂げつつある絶対権力者のものではない。ただの、すべての熱を失って絶望している男の顔だった。
「俺はな、ずっと夢見ていたのだ。この腐りきった乱世を、古い権威をすべて焼き払い、俺の手で新しい国を創り上げる日を。……だが、いざお前の持ってきた知恵と兵器で、天下の形が完全に見え始めた今。……俺の心の中には、何もない」
信長は、自らの胸をドンッと叩いた。
「かつて桶狭間で、少数の兵で今川の数万の大軍に突っ込んだ時。……浅井・朝倉に包囲され、姉川で死線を彷徨った時。あの時は、確かに俺の血は沸騰し、世界は極彩色に輝いていた。一瞬の油断が死に直結するあのヒリヒリとした熱だけが、俺が『生きている』と実感できる唯一のものだったのだ」
信長の言葉が、静かな部屋に重く響く。
俺は何も言わず、ただ黙って彼の独白に耳を傾けていた。
「だが、今はどうだ。お前が完璧に整備したこの仕組みの上で、俺はただ安全な城の奥に座り、書類の数字を眺め、降伏の血判状に判を押すだけのカラクリ人形だ」
信長は、自虐的な、ひどく歪んだ笑みを浮かべた。
「敵がいない。誰も俺に逆らわない。すべてがお前の計算通りの予定調和だ。……なぁ、十兵衛。俺の腹の中には、まだ世界を丸ごと焼き尽くせるほどの凄まじい炎が、狂おしいほどに燃えたぎっているというのに。……もう、この日の本には、俺が燃やすべき『薪』がどこにもないのだ」
信長は、ギリッと奥歯を噛み締め、手にしたガラスの杯をメリメリと音を立てて握りしめた。
「平和な国を創るための天下布武だったはずだ。だが……今の俺には、玉座の上から、自分が燃やし尽くした敵の冷たい灰が、ただ静かに降り積もっていく景色しか見えない」
戦場で命を削り合っていた頃の熱だけが、彼を人間として生かしていた。
だが、俺が持ち込んだ未来の知識(合理性)が、その戦場という舞台を彼から完全に奪い取ってしまったのだ。
「……上様」
俺は、杯を置き、覚悟を決めて口を開いた。
「平和とは、そういうものです。英雄の血湧き肉躍る戦記などなく、ただ毎日が同じように繰り返され、民が安心して畑を耕せる退屈な日々。それこそが、私が上様と共に創り上げたかった世界です」
俺の言葉に、信長はゆっくりと俺を見据えた。
その目には、深い悲哀と、そして得体の知れない『狂気』が混ざり合っていた。
「分かっている。お前が正しい。……だが、俺は耐えられんのだ」
信長は、身を乗り出し、俺の顔のすぐ近くで、悪魔の囁きのように告白した。
「時々、思うのだ。……この美しく完成された安土城に、俺自身の手で火を放ち、お前たち家臣を一人残らず殺し尽くしてしまえば。再びあのヒリヒリとした熱と、極彩色の世界を取り戻せるのではないかと……」
「――ッ!!」
俺の背筋に、氷柱を叩き込まれたような強烈な悪寒が走った。
それは冗談でもなんでもない。信長という男の本能が導き出した、純粋な破壊衝動の結論だった。
彼にとって、完成したシステム(平和な日本)は、もはや自分の魂を縛り付ける息苦しい牢獄でしかないのだ。牢獄から抜け出すためには、すべてを破壊するしかない。
信長自身も、自分のその異常な思考に気づいているのだろう。
彼は、握りしめていた杯から手を離し、深く、深い溜息をついた。
「……十兵衛。俺は、このままでは、俺自身の手で、俺たちが創ったこの国をぶっ壊してしまうかもしれん」
魔王の、あまりにも悲しく、そして切実なSOSだった。
「……」
俺は、沈黙したまま、目の前で虚無に苦しむ親友の姿を見つめていた。
俺が歴史改変を始めた理由は、自分が生き残るため、そして愛する熙子を幸せにするためだ。
だが、この十数年、俺の非常識な提案をすべて受け入れ、莫大な資本を投じて実現させ、共に天下を創り上げてきたこの男を見捨てることなど、俺には絶対にできない。
(平和な日本を維持するためには、この破壊神を日本の外へ排除しなければならない。……だが、ただ殺して歴史の闇に葬るなんて、そんなつまらないバッドエンドは、俺が許さない)
俺の歴史オタクとしての知識と、一人の人間としての意地が、一つの『究極の解決策』を導き出していた。
「……上様」
俺は、信長の虚無に満ちた目を真っ直ぐに見据え、静かに、だが確かな熱を込めて言った。
「もし、この日の本に燃やすべき『薪』がもうないというのであれば。……私が、貴方様のために、誰も見たことのない、無限に広がる『新しい遊び場』をご用意いたしましょう」
「……なんだと?」
信長が、怪訝そうに眉をひそめる。
俺は、懐から折りたたまれた大きな羊皮紙を取り出し、信長の目の前の絨毯にバサリと広げた。
俺が南蛮の商人から極秘裏に買い取り、現代の記憶と擦り合わせて書き起こした『世界地図』である。
「上様のその底知れぬ炎は、この狭い島国に収めておくには大きすぎる。……ならば、この鳥籠(日本)をぶっ壊して、海の向こうへ行きませんか。世界の覇者として」
信長の目が、大きく見開かれた。
退屈という地獄に沈みかけていた魔王の心に、一筋の強烈な光が差し込んだ瞬間だった。
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