第11話:魔王の怒りと、驕る霊峰(改稿版)
元亀元年(1570年)、秋。
京の都にほど近い、織田軍の本陣。血と泥、そして硝煙の臭いがまだ微かに残る陣幕の中は、物理的な質量すら伴っているかのような「重苦しい沈黙」に支配されていた。
この年の春、越前(福井県)の朝倉義景を討伐すべく進軍していた織田軍は、同盟国であり信長の義弟でもあった浅井長政の突然の裏切りに遭った。
前門の朝倉、後門の浅井。完全に退路を断たれた絶体絶命の危機――後世に語り継がれる『金ヶ崎の退き口』である。
だが、俺(明智光秀)の脳内にインストールされた【絶対記憶】による未来知識と、事前の兵站の準備……プレハブ式の簡易砦の構築や、高カロリーな携帯食料(兵糧丸の改良版)の配備により、織田軍は史実のような悲惨な壊滅状態を免れ、驚異的な速度で京への撤退を完了させていた。
損害は軽微。しかし、「身内から裏切られた」という事実は、織田軍の将兵たちに暗い影を落としている。
そして何より、陣幕の空気を凍りつかせているのは、上座に座る一人の男から放たれる凄まじい怒気だった。
「……ええい、忌々しい生臭坊主どもめ!!」
ドガンッ! と、織田信長の拳が床几の肘掛けを激しく叩き据えた。
その一撃に、柴田勝家や丹羽長秀といった歴戦の猛将たちでさえ、ビクンと肩を震わせて息を飲んだ。陣幕の隅では、末席に控える木下藤吉郎秀吉が、猿のような顔を蒼白にして平伏している。
信長の双眸は、底知れぬ怒りによってどす黒く濁り、静かに燃え盛っていた。
その怒りの矛先は、裏切った浅井・朝倉そのものだけではない。京の都の鬼門、北東にそびえ立つ仏教界の最高権威――比叡山延暦寺。彼らに対してであった。
浅井・朝倉の残党軍は、織田軍の追撃を逃れるため、あろうことか比叡山へと逃げ込み、その山内に立て籠もったのだ。
信長はこれまで再三にわたり、比叡山に対して使者を送り、理を尽くして説得を試みていた。
『織田に味方せよ。それが叶わぬのであれば、せめて中立を保ち、浅井・朝倉の兵を山から追放せよ』と。
もし応じれば、比叡山の所領を安堵し、手厚い保護を約束するという破格の条件まで提示した。
だが、比叡山からの返答は「完全な黙殺」だった。
数百年もの間、日本の宗教界の頂点に君臨し、朝廷や幕府ですら手を出せなかった「聖域」。彼らは自らの権威を過信しきっていた。
『たかが尾張の田舎大名が、仏の罰を恐れて我々に手など出せるはずがない』
高位の僧侶たちは山の上で酒を酌み交わし、信長からの書状を鼻で笑って燃やしたという報告すら上がってきている。
「仏の道を説き、衆生の救済を謳う者らが……俗世の権力争いに首を突っ込み、武装して我らに弓を引くというのか」
信長の声は、怒鳴り声から一転して、地を這うような低い声音に変わった。それが逆に、周囲の者たちの恐怖を煽る。
「我が温情を袖にし、敵を匿う。ならば……もはや奴らは仏に仕える者ではない。ただの欲に塗れた俗物だ。俗物であるならば、仏罰など下らん」
信長の目に、あの「魔王」の炎が宿るのを、俺は静かに見つめていた。
それは、古い権威や常識を容赦なく破壊し、新たな秩序を強引に築き上げようとする、冷酷無比な覇王が覚醒する瞬間だった。
「十兵衛!」
突如、俺の名が呼ばれた。
「はっ」
「全軍を動かせ。あの山を完全に包囲し、根元から火を放て!」
陣幕の空気が、完全に凍りついた。
山に火を放つ。それはすなわち、比叡山延暦寺という日本仏教の母山を灰燼に帰すということを意味する。
「う、上様、お待ちくだされ! いくらなんでも比叡山を焼くなど……!」
たまらず柴田勝家が声を上げたが、信長の鋭い眼光に射すくめられ、途端に言葉を失った。
「僧侶も、女子供も関係ない。仏を騙る偽善者どもだ。山にいる者、一人残らず焼き殺してくれるわ!!」
(……来たか。史実において『比叡山焼き討ち』へと繋がる号令だ)
俺の脳内にインストールされた【絶対記憶】のデータベースが、瞬時に**この包囲戦の歴史的意義と、その後の影響を弾き出す。
史実では翌年の元亀2年9月に行われることになるこの大虐殺は、**信長の合理性と残虐性を天下に知らしめた象徴的な事件だ。確かに、これによって宗教勢力の軍事介入に対する強烈な抑止力にはなった。
しかし、同時に払った代償もあまりに大きすぎたのだ。
「仏敵・織田信長」。
この強烈なレッテルは、武田信玄や本願寺顕如といった強敵たちに、「信長討伐」という強力な大義名分を与えてしまった。結果として信長包囲網はより強固になり、泥沼の戦いが何年も続くことになる。
そして何より――この終わりの見えない血みどろの戦いの連鎖が、最終的に信長の心をすり減らし、人間性を奪い、孤独な魔王へと変貌させ……数年後、俺(明智光秀)が引き起こす羽目になる『本能寺の変』の遠因となっていくのだ。
(そんなバッドエンドルート、絶対に叩き潰してやる)
俺は心の中で静かに誓った。
俺がこの時代に赤ん坊から逆行転生し、歴史オタクとしての知識をフル活用している目的はただ一つ。
最愛の妻である熙子を、安全で豊かな世界で幸せにすること。そして、そのためにこの不器用で破壊的な相棒(信長)を、地獄の魔王として暴走させず、「世界の覇者」として正しくプロデュースし、「永遠の覇権」を築き上げることだ。
ここで信長に「仏敵」の汚名を被らせるわけにはいかない。
無駄な血を流し、無駄なヘイト(悪評)を稼ぐなど、現代のロジスティクスと経済観念からすれば、下策中の下策である。
「十兵衛。聞いておるのか。出陣の準備をせい。俺が陣頭指揮を執る」
信長が苛立たしげに俺を急かす。
陣幕の隅では、秀吉が(ここだ! ここで俺が一番槍を名乗り出れば、明智の野郎を出し抜ける!)とばかりに「自分にやらせてくだせえ!」と名乗り出ようと身を乗り出しかけていた。
パチン、と。
俺は手にした扇子を静かに開き、一つ鳴らした。
凍りついた陣幕の中で、その乾いた音はひどく響いた。
「お待ちください、上様」
俺は立ち上がり、信長の真正面へと歩み出た。
周囲の武将たちが「正気か、明智殿!?」と顔を引き攣らせる中、俺は涼しい顔で信長を見据えた。
歴史の特異点。俺の知識チートが、魔王の暴走を食い止める最初の関門だ。




