第9話:金ヶ崎の塹壕戦と、家康の参戦(改稿版)
「……よし。上様(信長)の本隊と、荷駄隊は完全に峠を越えたな」
俺は、若狭へと続く山道の入り口である金ヶ崎の隘路(あいろ:狭く険しい道)に立ち、振り返って小さく息を吐いた。
俺が一年以上前から極秘裏に舗装工事を済ませ、三十箇所の補給拠点を設けた『安全な撤退ルート』。その道を、織田軍の数万の将兵たちは、パニックを起こすこともなく、ただの急ぎ足の遠足のように整然と進んでいった。
後方の安全は、これで完全に確保された。
だが、当然のことながら、追撃してくる敵――数万の朝倉軍と浅井軍をそのまま通すわけにはいかない。背後から追いつかれれば、いかに道が良くとも被害は免れないからだ。
「さあ、ここからは俺たち『殿』の仕事だ。……皆の者、配置につけ!」
俺が軍扇を振り下ろすと、俺の直轄部隊である三千の鉄砲隊が、一糸乱れぬ動きで各自の持ち場へと散っていった。
俺が殿軍の舞台として選んだこの場所は、右を見ても左を見ても切り立った険しい崖に挟まれた、すり鉢状の極端に狭い一本道である。どれほど敵が数万の大軍を擁していようと、この狭い道では横に広がることができず、せいぜい数十人ずつしか前に進めない。
古代ギリシャのスパルタ軍が、テルモピュライの戦いでペルシアの大軍を食い止めたのと同じ、遅滞戦闘(足止め)における絶対のセオリーである。
だが、地形の有利だけでは数万の軍勢は止められない。
俺は、この日のために用意していた『現代の野戦築城術』を、この戦国時代に持ち込んでいた。
「よし、土嚢の積み上げに隙間はないな。火縄の火を絶やすなよ」
山道の両脇には、俺の指示によって深く掘られた溝――第一次世界大戦などで用いられた現代戦術の基本である**『塹壕』**が、幾重にもジグザグに構築されていた。
兵士たちはその大人の胸の高さまである深い塹壕の中にすっぽりと身を隠し、堀の縁に並べられた土嚢の隙間から、火縄銃の銃口だけをズラリと前方へ向けている。
当時の戦国時代における鉄砲の撃ち方は、平地に立ったまま、あるいは簡単な竹束を盾にして撃つのが主流だった。だが、それでは敵の弓矢や突撃の的になりやすい。
塹壕戦の恐ろしさは、敵からはこちらの姿が土に隠れてまったく見えないにもかかわらず、こちらは地面スレスレの極めて低い位置から、一方的に『十字砲火』を浴びせることができる点にある。
まさに、完璧な防衛陣地――いや、敵を一方的に屠るための『キルゾーン(殺傷地帯)』の完成である。
「明智殿!」
俺が塹壕の中で兵たちの配置の最終確認をしていると、背後から複数の馬の蹄の音が、けたたましく響いてきた。
振り返ると、そこには、織田家の強固な同盟国である三河国(愛知県東部)の若き当主――徳川家康が、馬から飛び降りてこちらへ駆け寄ってくるところだった。
彼の背後には、「徳川四天王」として後世に名を馳せる本多忠勝や榊原康政といった、三河が誇る少数精鋭の猛将たちが、血走った目で槍を握り締め、ピタリと控えている。
「徳川殿。なぜここに? 貴方様も上様と共に、早く若狭ルートでお逃げください。ここは殿軍が残る、最も危険な場所です」
俺がわざと驚いたように声をかけると、家康は首を強く横に振った。
「いや、明智殿一人にこの危険な役目を任せるわけにはいかん! 浅井の裏切りという絶体絶命の急場において、我ら徳川家も同盟国として命を張るのが筋というもの! 微力ながら、この家康と三河武士たちも、明智殿と共にお供いたす!」
家康の顔には、死地を共にする悲壮な決意が浮かんでいた。その後ろの忠勝たちも、「我ら三河武士の意地、朝倉の軟弱者どもに見せつけてやろうぞ!」と気炎を上げている。
(……やはり、義理堅い男だ)
俺は内心で深く感心し、目を細めた。
史実においても、家康はこの金ヶ崎の退き口で、秀吉(藤吉郎)が率いる殿軍に協力し、共に死線を潜り抜けている。信長が先に逃げた後でも、決して同盟を裏切らず、自らの命を危険に晒してまで殿軍の援護をしたのだ。
彼のこの「同盟相手への恩義を忘れない」という誠実さと、家臣たちからの強烈な信頼感こそが、彼に人が集まり、のちに天下を治める器たる所以である。
だが、彼をここで危険な目に遭わせるわけにはいかない。
家康は、のちの俺の計画――大日本帝国という近代国家を建国するにあたり、『内閣副総理』として国を共に運営する重要な共同経営者なのだから。
ここで彼に恩を売り、俺という男の底知れぬ実力を見せつけ、強固な信頼関係を築き上げておく必要がある。
「徳川殿、その熱きお気持ちと、三河武士の皆様の勇気だけで、私は百人力の心地にございます。……ですが、どうかご心配なく」
俺は扇子を広げ、口元を隠して優雅に微笑んだ。
「ここは死地などではありませんよ。むしろ、朝倉の兵どもが自ら飛び込んでくる『屠殺場』に過ぎません。……徳川殿は、あちらの安全な高台から、私の戦いを見物していてください」
「み、見物だと? 明智殿、何を申される! 相手は数万の大軍ぞ。いくら隘路とはいえ、三千の鉄砲隊だけで押し留められるはずが……!」
家康が青ざめて反論しようとした、その時だった。
「……ご覧ください。来ました」
俺が扇子で前方へ視線を向けると、家康もハッとして山道の下方を見た。
夕闇が迫る薄暗い谷底から、まるで赤い大蛇のようにうねる『無数の松明の光』が、怒涛の波のように押し寄せてきた。
朝倉軍の追撃部隊である。
その数、ざっと一万以上。「織田の主力はすでに逃げ出した」「残っているのは怯えた少数の負け犬の殿軍だけだ」と思い込んでいる彼らは、陣形も隊列も組まず、ただ弱った獲物を狩る野犬のように、無防備に喚きながら突っ込んできている。
「織田の負け犬どもを逃すなァ!! 首を根こそぎ刈り取れェ!!」
「大将の首を挙げた者は千貫の恩賞だァ!! かかれェェッ!!」
朝倉の足軽たちの狂気じみた歓喜の怒号が、夕暮れの山谷にビリビリと反響し、すぐそこまで迫ってきた。
「な、なんと凄まじい数……! 敵は完全に勢いづいておる!」
家康が、額に冷や汗を浮かべて叫んだ。
「明智殿、我らの鉄砲隊はわずか三千! いかに鉄砲があろうと、あの数が一気に押し寄せては防ぎきれませぬぞ! 鉄砲は一度撃てば、次の弾を込めるまでに隙ができる! その隙に雪崩れ込まれれば、一貫の終わりだ!」
家康の指摘は、当時の軍事常識としては完全に正しい。
火縄銃は、一発撃つごとに筒の中を掃除し、火薬を詰め、鉛の弾を込め、火縄をセットするという長い時間(装填時間)がかかる。三千発を撃ち尽くした直後の「弾込めの隙」に、敵が怒涛の勢いで突撃してくれば、白兵戦に弱い鉄砲隊は瞬く間に蹂躙されてしまう。
だが。
俺の率いる三千の鉄砲隊は、ただの鉄砲隊ではない。俺の厳しい指導によって、現代の軍隊にも通じる絶対的な統率力と、ある『特殊な訓練』を完璧に叩き込まれた、近代兵器のプロフェッショナルなのだ。
「徳川殿。……古い常識は、今日この場で捨ててください。私の鉄砲隊に、『弾込めの隙』など存在しません」
「な……?」
家康が言葉を失う中、俺は冷徹な目で、敵の先陣が俺の計算した「キルゾーン(殺傷地帯)」に入り込むのを、じっと無言で待った。
「距離、三百……二百五十……」
俺の傍らに立つ側近の斎藤利三が、冷や汗一つかかずに敵との距離を読み上げる。
朝倉軍の先頭を走る兵士たちの、血走った目と歪んだ口元が、はっきりと肉眼で見える距離まで迫った。
「距離、二百」
「よし」
俺は、高く掲げていた扇子を、鋭く振り下ろした。
そして、腹の底から、全軍に響き渡る声で号令をかけた。
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