第6話:小豆の袋と、予言の成就(改稿版)
元亀元年(1570年)4月。
遅い春の訪れとともに、雪解け水をたっぷりと含んだ越前国(福井県)の山々は、鮮やかな新緑の息吹に包まれていた。
だが、そののどかな大自然の風景を切り裂くように、数万の大軍勢が地鳴りを立てて進軍していた。織田信長が率いる、織田・徳川連合軍である。
目標は、越前を支配する名門・朝倉義景の討伐。
俺(明智光秀)が完璧に神輿としてプロデュースした将軍・足利義昭を奉じて上洛を果たした信長が、再三の上洛命令を無視し、幕府の権威を蔑ろにし続ける朝倉に対して下した、天下の覇権をかけた大戦であった。
進軍の速度は、まさに破竹の勢いだった。
越前への入り口に位置する軍事拠点・天筒山城や金ヶ崎城は、織田軍の圧倒的な火器と物量、そして怒涛の突撃の前に、わずか数日で呆気なく陥落した。
「はっははは! 朝倉の腑抜けめ! 山の上の城に立て籠もればどうにかなると思っていたのだろうが、我らの鉄砲隊の前に木端微塵よ!」
「このまま一乗谷(朝倉の本拠地)まで、一気に踏み潰してくれるわ!」
金ヶ崎城に張られた豪奢な陣幕の中では、連日の大勝利を祝う宴が開かれていた。
上座で機嫌よく酒杯を煽る信長に合わせ、「鬼柴田」こと柴田勝家や佐久間信盛ら歴戦の猛将たちも、顔を朱に染めて高笑いしている。陣幕内には、すでに「この戦は勝ったも同然だ」という戦勝ムード、すなわち『油断』が蔓延していた。
だが、その熱狂の輪から少し離れた陣幕の片隅。
俺は一人、床几に腰を下ろして冷たい茶を啜りながら、じっと『その時』が来るのを待っていた。
(……そろそろだな。史実通りなら、まもなくあの『奇妙な陣中見舞い』が届くはずだ)
俺の脳内にインストールされた【絶対記憶】が、歴史の特異点へのカウントダウンを正確に告げている。
『金ヶ崎の退き口』。
それは、織田信長の生涯において最も絶望的で、最も死に近づいたとされる大撤退戦の引き金となる事件である。
同じ頃、俺の斜め向かいの末席では、木下藤吉郎秀吉が所在なさげに酒をちびちびと舐めていた。
墨俣一夜城での完敗以来、藤吉郎は俺に対して異常なほどの恐怖と劣等感を抱いている。彼の野生の勘が、「明智光秀には絶対に勝てない」と警鐘を鳴らし続けているからだ。
だが、同時に彼の心の底には、成り上がりへの執念がマグマのように煮えたぎっていた。
(くそっ……。このままでは終わらんぞ。何か、何かでかい手柄を立てて、あの上からの目線を引きずり下ろしてやる……!)
そんな藤吉郎の内心の焦燥を他所に、陣幕の外から慌ただしい足音が近づいてきた。
「申し上げます!!」
泥にまみれた伝令が、息を切らして陣幕に転がり込んできた。
「北近江の浅井家へ輿入れされた、お市様からの使者が到着いたしました! 陣中見舞いの品をお持ちとのことです!」
その報告に、陣幕の重苦しい空気が少し和らいだ。
「おお、市からか。我が愛しき妹よ、わざわざ使者を送ってくるとは感心なことだ。通せ」
信長が目尻を下げ、使者を招き入れるよう命じる。
お市の方は、信長の実の妹であり、絶世の美女と謳われる女性だ。彼女は現在、北近江(滋賀県北部)を治める浅井長政の正室として嫁いでいる。
浅井家は織田家と固い政略結婚の同盟関係にあり、今回も越前へ進軍する織田軍の「背後の守り(近江ルートの安全確保)」を固めてくれている、はずだった。
だが、使者が恭しく差し出した「陣中見舞い」を見た瞬間、信長をはじめとする諸将は皆、怪訝な顔をした。
豪華な反物でも、兵糧の足しになる高価な酒や干物でもない。
それは、あまりにも質素な、一つの小さな『布袋』だった。
しかも、その布袋は奇妙なことに、両端を太い紐でガチガチに硬く縛られている。中には何かゴツゴツとした小さな丸い粒……小豆がぎっしりと詰まっているようだった。
「なんだこれは? 小豆……? なぜ両端が縛ってあるのだ?」
信長が眉をひそめ、袋を手に取って訝しげに眺めた。
勝家や佐久間も、「はて、北近江の武運長久のまじないでしょうか?」「陣中の兵糧の足しにしては少なすぎますな。お市様も随分と可愛らしいものを送ってこられる」と首を傾げるばかりだ。
誰もが、その袋の意味する「致命的な暗号」に気づいていない。
「……前と後ろを完全に塞がれた『袋の鼠』。それが、お市様からの、決死の暗号にございます」
凍りついた静寂を破るように、俺が立ち上がり、冷徹な声で告げた。
その言葉の意味を理解した瞬間、陣幕の空気が一瞬にして絶対零度まで冷え込んだ。
「袋の……鼠、だと……十兵衛、それはどういう意味だ」
信長が、酒杯を床に置き、鋭い眼光を俺に向けた。
俺は信長の正面に進み出ると、広げられた越前と近江の地図の上で、扇子の先を二箇所にドン、と置いた。
「文字通りの意味です。我々の前方には、今まさに戦っている越前の朝倉軍。そして……我々の背後、帰るべき道である近江国を、同盟国であったはずの『浅井軍』が完全に封鎖し、我々を挟み撃ちにすべく進軍を開始したということです」
「なっ……!?」
柴田勝家が、ガタッと床几を蹴立てて立ち上がった。
「あ、浅井が裏切りおっただと!? 馬鹿なことを申すな明智殿! 浅井はお市様が嫁がれている、強固な同盟国だぞ! それに、我らが朝倉を攻めている最中に背後を突くなど、武士としてあまりに卑劣な……!」
パニックになりかける諸将。だが、信長だけは冷静だった。
いや、冷静というよりは、あまりにも巨大な裏切りを前に、怒りを超えた冷酷な「魔王」の顔になっていた。
信長はスッと目を細め、俺の方をじっと見つめた。
「……十兵衛。貴様が俺に仕官した初対面の時、立政寺で渡してきた『裏切り者リスト』。……まったくその通りになったな」
「ええ」
俺は涼しい顔で頷いた。
「浅井長政殿は、お市様を愛してはいても、家としての情は我らよりも『朝倉家との旧交』を優先しました。私がリストに記した通り、100パーセントの確率で裏切ることは、一年も前からわかっていた『確定事項』です。……ですから、何も驚くことはございません」
「おのれ長政……! この俺を謀りおったか……!!」
信長の顔に、ドス黒い怒りの炎が宿った。
愛する妹の想いを踏みにじり、己の背中に刃を突き立てた義弟への凄まじい殺意。信長はギリッと奥歯を噛み締め、腰の刀の柄を力強く握りしめた。
完全なる挟み撃ち。
前方には数万の朝倉軍、後方には数万の浅井軍。
織田軍は今、逃げ場のない最悪の死地に立たされているのだ。陣幕の武将たちは、あまりの絶望的な状況に顔面を蒼白にさせ、言葉を失っていた。
だが、この圧倒的な絶望の空間で。
一人だけ、狂気じみた喜びで目をギラつかせている男がいた。
木下藤吉郎秀吉である。
(ここだ……! これほどの絶体絶命の危機ならば、いくら明智様でも『魔法』で解決することなどできまい!)
藤吉郎は、己の命を代償にしてでも掴み取らねばならない「最大の見せ場」に向け、平伏したまま全身の筋肉をバネのように弾かせる準備を整えていた。
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