第5話:三日天下(バッドエンド)は俺が書き換える(改稿版)
フッと、水面から顔を出したような奇妙な浮遊感があった。
俺の意識が、漆黒の『脳内図書館』から現実の肉体へと引き戻されたのだ。
重い瞼を開けると、視界に映るのは相変わらず薄暗く、木と土の匂いがする戦国時代の武家屋敷の天井だった。
身体は相変わらず水飴に沈められたように重く、首すら自力では動かせない。俺は依然として、おむつ代わりの布に包まれた、無力で小さな赤ん坊のままだ。
だが、数時間前まで「歴史の強制力」と「凄惨なバッドエンドの確定」に絶望し、ただ泣き叫ぶことしかできなかった俺とは、内面が劇的に変わっていた。
(……消えていない。夢じゃない)
俺の脳内には、先ほど精神空間で引き出した『気象データ』や『硝石丘の製法』、『複式簿記の仕組み』といった膨大なデータが、一字一句の欠落もなく、鮮明に「記憶」として定着していた。
俺の頭の中には、この理不尽な乱世を完全にコントロールするための【絶対記憶】という究極の兵器が、間違いなく搭載されている。
「あー、あー」
俺は、自分の喉を確かめるように小さく声を出してみた。
まだ舌足らずで、意味のある言葉にはならない。だが、その間の抜けた響きに乗っているのは、死への恐怖ではなく、煮えたぎるような闘志だった。
(よく考えろ。そもそも史実の『明智光秀』という男は、決して無能ではない)
むしろ、逆だ。
前世の俺が読み込んだ無数の史料が示す光秀の人物像は、「戦国時代における最高傑作」と呼んでも過言ではないほどのハイスペックぶりを誇っている。
己の才覚と努力だけで、一介の貧乏浪人から織田信長の筆頭家老にまで上り詰めた、まごうことなき日本史屈指の天才。
教養面では、京都の公家たちと対等に渡り合える一流の和歌や連歌の才能を持ち、茶の湯を嗜む超一流の文化人。
軍事面では、鉄砲の射撃技術において百発百中の腕前を持ち、築城術に長け、さらには戦場での部隊指揮から後方の兵站管理、占領地の行政・内政能力に至るまで、文字通り「一人で何でもできる」オールラウンダーだ。
あの極端な実力主義者であり、無能を一切許さない織田信長が、「天下の面目を施した」と絶賛して最も頼りにし、最も広大な領地を与えた男なのだ。
(その『天才・明智光秀のハードウェア(器)』に、未来の歴史データと現代科学・経済の『絶対記憶というソフトウェア』がインストールされたら……一体どうなる?)
そんなもの、チートの二乗だ。盤面をひっくり返すどころか、盤面そのものを裏から完全に支配する最強の存在になるに決まっている。
そう気づいた瞬間、俺の中で光秀に対する「敗北者」というイメージが、音を立てて崩れ去った。
(本能寺の変? 三日天下?……笑わせるな)
俺は、自分の顔の前に持ち上げたもみじのような小さな手を、ぎゅっと力強く握りしめた。
あんな悲惨なバッドエンドは、絶対に迎えない。俺の持つすべての知識を使って、あの理不尽な歴史のロードマップを粉々に粉砕してやる。
秀吉の「中国大返し」でボコボコにされる?
いいや、あいつが台頭してくる前に、俺がすべての手柄とリソースをかっ攫ってやる。
農民から成り上がる秀吉の強みは「土木工事の速さ」と「人たらしの交渉術」だ。ならば、墨俣一夜城の築城イベントでは、俺が現代の『プレハブ工法』や『コンクリートの基礎知識』を使って、あの野猿が束になっても敵わないほどの凄まじい城を瞬きする間に建ててやる。
金ヶ崎の退き口でも、秀吉に殿の功績を独占させるものか。俺が現代の兵站管理と圧倒的な火器運用で敵を蹂躙し、容赦なくマウントを取ってあいつの出世の芽を摘み取ってやる。
信長のブラック労働で過労死?
ならば、俺が信長をコントロールする側に回るまでだ。
あの男の「天下布武」という果てしない野望を叶えるには、莫大な資金と物資が必要不可欠だ。俺が複式簿記と現代の経済知識で日本の流通を支配し、「俺がいなければ織田家の経済と軍事が一日で機能不全に陥る」という状況を作り出せばいい。
破壊の魔王が暴走しないよう、俺が完璧なロジスティクスと資金を提供する「最強のスポンサー兼バディ」として君臨し、事実上の手綱を握りながら日本を裏から支配してやる。
(そのためには、まず……この「無力な赤ん坊の時期」を無駄にはできない)
俺は冷静に、今やるべき「タスク」を整理した。
俺のチートの源泉は「知識」だ。だが、どんなに素晴らしい知識を持っていようと、それを他人に正確に伝え、納得させ、動かすことができなければ、ただの妄想狂と変わらない。
肉体が育ち、自由に動けるようになるまでの数年間。俺が最優先でやるべきことは、「言語の完全習得」だ。
現代日本の言葉と、室町時代末期から戦国時代にかけての言葉は、まるで外国語のように違う。
文法、単語のニュアンス、敬語の使い分け、さらには身分による言葉遣いの違い。加えて、ここは美濃国(岐阜県)だ。現代の標準語ではなく、当時の強烈な「美濃の方言(訛り)」や独特のイントネーションが飛び交っている。
俺の脳内にある【絶対記憶】の現代データと、実際に耳で聞く彼らの生きた発音を、ミリ単位で擦り合わせてアジャストしていく必要がある。
もし俺が将来、戦国の武将たちに向かって、現代語のイントネーションや不自然な発音で「経済の仕組み」を語れば、たちまち「得体の知れない気味の悪い奴」として排斥されてしまうだろう。
誰の耳にも心地よく、そして有無を言わさぬ説得力を持つ「完璧な戦国時代の言語」を操るバイリンガルになること。それが、赤ん坊である俺の最初のミッションだ。
「よしよし、十兵衛は今日はおとなしいねぇ。お目々をぱっちり開けて、賢いこと」
乳母が俺の顔を覗き込み、ガラガラと音の鳴る木のおもちゃを揺らしている。
俺は「あうー」と愛想よく笑い返しながら、その乳母の言葉のアクセント、息遣い、舌の動きに至るまで、全神経を集中させてサンプリングし、脳内のデータベースへと蓄積していった。
(……天才であることをひた隠しにしつつ、着実に牙を研ぐ。脳内図書館で天下を獲るための設計図を引きながら、俺の肉体が育ち、出番が来る日をじっと待つんだ)
待っていろ、戦国の世。
血で血を洗う乱世を支配しているつもりになっている、古き良き武将ども。
美濃の国を乗っ取る『マムシ』斎藤道三。尾張の魔王・織田信長。そして、のちの天下人・羽柴秀吉。
お前たちが束になっても敵わないほどの、圧倒的な知略と盤面支配を、数年後にこの俺が見せつけてやる。
血生臭い槍や刀の力ではない。
未来の知識と、経済力と、科学技術の暴力で、この歴史のルールそのものを塗り替えてやるのだ。
俺がこの知識で歴史を裏から操り、三日天下どころか、永遠の覇権をこの手に握ってみせる。そして、必ず出会うはずの最愛の妻(熙子)を、世界で一番幸せな女にするのだ。
薄暗い部屋のベビー布団の中で、チート赤ん坊・明智十兵衛光秀は、誰にも気づかれないように、ニヤリと不敵で邪悪な笑みを浮かべた。
歴史オタクの青年の執念と、明智光秀の天才的頭脳が融合した、命懸けの「歴史改変」が、今ここに静かに幕を開けたのだった。
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