第20話:天才の絶望と、超速天下布武の幕開け(改稿版)
カツ、カツ、カツ……。
明智十兵衛光秀の、一切の迷いがない静かな足音が、清須城の廊下の奥へと遠ざかっていく。
取り残された木下藤吉郎は、無人の廊下の真ん中で、まるで強力な呪縛をかけられた石像のように硬直していた。
(な……なんだ、あのお方は……?)
藤吉郎は無意識のうちに、自身の両腕を強く抱きしめ、自分の体を支えようとしていた。だが、膝の震えが止まらない。
全身の毛穴から、滝のような冷や汗が噴き出し、着物の下着をぐっしょりと濡らしている。武者震いなどではない。自分の命運が、魂の底まで完全に握られているという、根源的な「恐怖」の震えだった。
自分の過去の足跡も、現在進行形の極秘計画も、そして腹の中の黒い野心すらも、すべて見透かされているような絶対的な恐怖。
先ほどの明智光秀の瞳は、自分と同じ「野心を持った武将」の目ではなかった。
まるで、将棋の盤面の上で必死に踊る駒たちの運命を、天の上の遥か高い場所から、冷徹に、そして残酷に見下ろしている……神か、悪魔のような眼差しだったのだ。
(『墨俣』の策が、完全にバレておった……? いや、誰かに漏れたのではない)
藤吉郎は、混乱する頭を必死に回転させた。
川並衆の蜂須賀小六たちが裏切って情報を流したのか? いや、それはない。あの荒くれ者たちは義理堅く、秘密をペラペラと喋るような真似は絶対にしない。
さらに言えば、光秀は「お前が次に何を狙っているか、俺はすべて知っている」と断言した。あの口ぶりは、単なる密偵の報告を受けた者のそれではない。「そうなることが、最初から完全に決まっていた」かのように、確定した未来の事実として語っていたのだ。
藤吉郎はこれまで、どんな逆境に立たされても、どんな身分が上の相手でも、「知恵」と「愛嬌」という最強の武器で出し抜いてきた。相手が人間である以上、必ず欲があり、隙がある。そこを突けば必ず勝てた。
信長という魔王ですら、その実力主義の思考を読み解き、期待以上の実務をこなすことで懐に入り込むことができたのだ。
だが、今回ばかりは違った。
自分の手の内がすべて相手に知られているなら、どうやって勝負を仕掛ければいい? 相手には「未知」がなく、自分には相手の底がまったく見えない。立ち向かうための糸口すら、まったく掴めないのだ。
「……勝てん」
藤吉郎は、無人の廊下でへたり込み、無意識のうちに力なく呟いていた。
喉がカラカラに渇き、声がひどく掠れている。
「あのお方には……どう足掻いても、絶対に、勝てんかもしれぬ……っ」
天才・木下藤吉郎が、己の人生で初めて「絶望」と「圧倒的な格の違い」を味わわされた瞬間だった。
ここから先、彼が必死に練り上げる軍略や出世のチャンスは、光秀のチート知識と圧倒的な財力によってことごとく奪われ、上書きされていく。史実で光秀が秀吉に味わわされた焦燥と絶望を、今度は秀吉が幾度となく味わうことになるのだ。
だが。
「……ふざけるな。冗談ではないわ」
へたり込んでいた藤吉郎は、ギリッと奥歯を強く噛み締め、床に手をついてゆっくりと立ち上がった。
その瞳の奥には、絶望のさらに奥底から湧き上がる、泥水のような執念の炎が灯っていた。
「勝てぬからといって、ここで腹を出して降参するような安い命なら、とうの昔に尾張の泥田で野垂れ死にしておるわい……!」
彼は農民の出だ。失うものなど何一つない。
相手が未来を見通す悪魔であろうが、金と権力を持つ怪物であろうが関係ない。自分が生き残り、天下という最高の極彩色の夢を掴むためには、どんな屈辱に耐えてでも、どんな無様な姿を晒してでも、その足元に食らいついていくしかないのだ。
「ええい、上等じゃ! お主がわしの手柄をすべて先回りして奪うというなら、わしはあえて、お主の『一番下働き』として潜り込んでやるわ! どんな汚れ仕事でも引き受けて、お主が手放せなくなるほどに使い倒されてやる! そうして、いつか必ず……その神のような首を、このわしが掻き切ってくれるわい……!!」
藤吉郎は、誰もいない廊下に向かって、音のない咆哮を上げた。
のちの天下人となる男の、決して折れることのないゴキブリのような生命力と執念が、光秀という巨大すぎる壁を前にして、さらにドス黒く鍛え上げられた瞬間だった。
かくして。
チート知識を持つ歴史オタク・明智光秀と、破壊の天才・織田信長という最狂のバディによる『超速天下布武』の歯車が、いま激しい音を立てて回り始めた。
武力ではなく、圧倒的な「知識」と「経済」、そして「未来への先回り」で天下を蹂躙する歴史改変の物語が、ここに幕を開けたのである。
(第2章:青年・雌伏編 完 ―― 第3章:天下布武・完全攻略編 へ続く)
これにて第2章「青年・雌伏編」が完結です!
次回からはいよいよ**第3章天下布武・完全攻略編 ~先回りされる秀吉~**がスタート!
秀吉の出世イベントをことごとく先回りして奪う、光秀の痛快な無双劇が本格的に始まります。お楽しみに!
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