第18話:底を見透かす眼差し(改稿版)
「俺を利用しようなどという安い考えは、今この瞬間に捨て去れ。さもなくば、火傷どころでは済まないぞ」
明智十兵衛光秀の、氷の刃のように冷たく、そして一切の感情を排した声が、清須城の薄暗い廊下に響いた。
その言葉を真正面から浴びた木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は、まるで全身を透明な鎖で縛り上げられたかのように、指先一つ動かすことができなくなっていた。
彼の顔から、トレードマークである「愛嬌たっぷりの猿の笑顔」は完全に剥がれ落ち、代わりに土気色に染まった皮膚と、限界まで見開かれた両目だけが残されていた。
(な、なんじゃ、この男は……!?)
藤吉郎の脳内で、けたたましい警鐘が鳴り響いている。
これまで彼が対峙してきた相手――誇り高い武将や、強欲な商人、あるいは狡猾な国人領主たち。彼らは皆、藤吉郎が泥にまみれてへりくだり、自尊心をくすぐってやれば、必ずどこかに『隙』を見せた。人間である以上、見栄があり、欲があり、油断が生じるからだ。
だが、目の前に立つ明智光秀という男には、その『人間らしい隙』が一切存在しない。
藤吉郎が「相手の懐に入り込んで利用してやろう」というドス黒い野心を抱いたその瞬間に、光秀は上空からその思考を完全に読み取り、先回りして、藤吉郎の足元に巨大な落とし穴を掘ってみせたのだ。
(カマをかけられておるのか? いや、違う。この男の目は……わしの腹の底で渦巻くドロドロとした感情まで、文字通り『すべて見透かして』おる!)
藤吉郎は、背筋に冷たい汗が伝うのを感じた。
しかし、彼はただの臆病者ではない。農民から足軽組頭にまで這い上がってきた彼には、どんな絶望的な状況でも決して諦めない、ゴキブリのように強靭な生命力と執念があった。
(ここで怯めば、わしは一生この男の下働きで終わる。なんとしてでも、この場を誤魔化し、もう一度食い下がらねば……!)
藤吉郎は、引き攣る頬の筋肉を必死に動かし、再び「無害で忠実な猿」の仮面を顔面に貼り付けようと試みた。
「あ、あ、明智殿……! ま、誠に恐ろしい冗談を仰られる。わ、わしのような卑しい者が、明智殿のような雲の上の御方を利用しようなどと、大それたことを考えるはずがござりませぬ! わしはただ、純粋に明智殿のその神のごときお知恵に心酔し、お側に仕えたいと……」
「清洲城の土塀修繕。台所の薪の消費量の削減。清洲町における針の行商での立ち回り」
俺は、必死に取り繕おうとする藤吉郎の言葉を、再びピシャリと遮った。
そして、彼が織田家に入ってから今日に至るまでに積み上げてきた「彼だけの手柄」を、一つ一つ、淡々と読み上げていった。
「お前は、柴田殿や丹羽殿といった譜代の重臣たちが嫌がるような、泥臭い下働きや兵站の管理を喜んで引き受けてきた。大工を酒で競わせて労働意欲を爆発させ、役人の不正を見抜いてコストを削減する。……武力を持たないお前が、この弱肉強食の織田家で生き残るために選んだ、唯一にして最強の生存戦略だ」
「……っ!」
藤吉郎の口が、完全に塞がった。
彼が長年、誰にも教えずに、己の頭脳だけを頼りに構築してきた『実務による成り上がり』というアイデンティティ。それを、今日初めて会ったばかりの美濃の浪人に、まるで彼自身の人生の記録帳を読み上げているかのように正確に解剖されたのだ。
「俺は、お前のその実務能力と、誰よりも早く物事の効率化を導き出す計算高い頭脳を、この織田家の中で最も高く評価している。……お前のその『兵站を回す才能』は、間違いなく天才のそれだ」
俺は扇子を畳み、藤吉郎の目を真っ直ぐに見据えた。
史実を知る歴史オタクとして、秀吉という男の実務能力の高さは心底認めている。天下を統一するための兵站管理において、彼以上の適任者は日本中を探してもどこにもいない。
だが。
「だからこそ、お前は今、猛烈に『焦って』いるな?」
俺の言葉の温度が、再びスッと下がった。
「え……?」
「お前は実務で出世し、信長様からの信頼を得た。だが、どれだけ薪を節約しようが、どれだけ土塀を早く直そうが、戦国の世において『最高の栄誉』とされるのは、結局のところ【戦場で敵の首を獲り、城を落とすこと】だ」
俺は、藤吉郎の心の最も柔らかく、最も痛い部分――彼が抱え続けている武将としての『劣等感』に、容赦なくメスを入れた。
「柴田勝家や佐久間信盛といった、戦場で血を流して武功を立てる武将たち。お前は彼らから、常に『ただの便利な裏方』として見下されている。それが悔しくて、悔しくてたまらないはずだ。……だからお前は、誰もが度肝を抜くような『戦場での一発逆転の大手柄』を渇望している」
「…………!!」
藤吉郎の目が、限界まで見開かれた。
彼の胸の奥底で、誰にも見せまいと必死に隠してきた『コンプレックス』と『巨大な野心』。それを、まるで白日の下に晒されるように、一つ残らず言語化されていく。
「お前は常に考えているはずだ。『自分が誰よりも賢い。自分なら、あの力押ししか知らない脳筋の武将どもを、鮮やかな奇策で出し抜けるはずだ』と」
俺は一歩、藤吉郎に近づいた。
藤吉郎は、圧倒的な恐怖に足がすくみ、後ずさりすることすらできずにその場に縫い止められていた。
「だが、今日。お前は俺のプレゼンを聞いて、気づいてしまった。……お前が必死に知恵を絞って編み出そうとしている小手先の奇策や調略など、俺の提示した『経済制裁による国家封鎖』の前では、まるで子供のお遊びのようにちっぽけなものだということに」
「あ……ぁ……」
藤吉郎の口から、掠れたような、絶望の吐息が漏れた。
彼は、完全に心をへし折られていた。自分の才能、野心、そして未来の展望。それらすべてが、この明智光秀という巨大すぎる壁の前に、完璧に包囲され、逃げ場を失っていたのだ。
「明智、殿……。お主は……お主は、いったい何者なんじゃ……」
藤吉郎は、もはや敬語すら忘れ、震える声で俺に問いかけた。
その目には、畏怖、恐怖、そして理解の及ばない怪物に対する絶対的な絶望が浮かんでいた。
俺は、その問いには答えなかった。
ただ、彼の絶望をさらに深い底なし沼へと突き落とし、二度と俺に逆らおうなどという考えを起こさせないための、最後の一撃を放つ準備を整えた。
「俺が何者かは、どうでもいいことだ。藤吉郎。……それよりも、お前が今、己の出世のすべてを懸けて密かに温めている『最高の秘策』について、語り合おうじゃないか」
俺は、藤吉郎の耳元まで顔を寄せ、極めて静かに、しかし死刑宣告のように冷酷な声で囁いた。
「お前は今、上様の美濃攻めの足がかりとして、木曽川と長良川の合流地点……『墨俣』に、一夜にして砦を築く計画を、密かに進めているな?」
「なっ――――!!?」
藤吉郎の全身が、落雷に打たれたように激しく跳ね上がった。
心臓が破裂せんばかりに脈打ち、彼の顔から、ついに最後の一滴の血の気までが完全に引き退いた。
歴史オタクの俺が、のちの天下人からすべてを奪い取る、残酷なまでの「未来予測」の時間が、いよいよ始まる。
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