第17話:人たらしの接近(改稿版)
「お、お待ちくだされ! 明智様! いや、明智殿!」
清洲城の長い廊下。魔王・織田信長との極限の交渉という大一番を終え、悠然とした足取りで歩いていた俺(明智光秀)は、背後から響いた甲高い声に静かに足を止めた。
鼓膜にへばりつくような、ひどく人懐っこい、だが計算し尽くされた独特の響きを持つ声。
振り返ると、小柄で極端に痩せこけた、まるで猿のような顔立ちをした男が、両手を揉み合わせるようにして、すり足でこちらへすり寄ってくるところだった。
木下藤吉郎。のちの豊臣秀吉。
歴史オタクである俺の脳内データベースが、即座にこの男の生涯と、その恐るべき才能の全貌を弾き出す。
「これはこれは、先ほどの上様との御前での立ち振る舞い、そしてあの大風呂敷の見事なこと! いやはや、痛快無比! わしのような下賤な者にも、明智殿の底知れぬお知恵の深さがビシビシと伝わってまいりましたぞ!」
藤吉郎は、初対面とは思えないほど屈託のない、愛嬌たっぷりの満面の笑みを浮かべ、俺の顔を下から見上げてきた。
「わしは木下藤吉郎と申しまする! わしも明智殿と同じく、しがない身分の出でありながら、上様に拾われた田舎侍の端くれにございます。ぜひ明智殿のような立派なお方の爪の垢を煎じて飲ませていただきたく、斯様に出過ぎた真似をば……!」
ペコペコと、首がもげるのではないかと思うほど何度も頭を下げる藤吉郎。
俺は無表情のまま、その姿を冷徹に観察した。
見事だ。実に見事な「人たらし」のテクニックである。
歴史を知らない普通の武将であれば、この大げさな称賛と愛嬌のある笑顔に、少なからず自尊心をくすぐられるだろう。
『自分と同じ苦労人です』と身分を極端に低く見せ、あえて泥臭さを強調することで、相手の警戒心や敵対心を瞬時に解除させる。
『あなたの知恵に感動しました』と相手の承認欲求をピンポイントで満たし、『爪の垢を煎じて飲ませてほしい』と教えを乞う姿勢を見せることで、相手に「こいつは俺に害をなす敵ではなく、従順で便利な子分になり得る」と完全に錯覚させる。
これこそが、剣の腕も後ろ盾もない農民上がりの藤吉郎が、気位の高い戦国武将たちの懐に潜り込み、情報を吸い上げ、最終的に彼らを出し抜いて天下人へと登り詰めた「心理操作」の極意だ。
あの短気でプライドの高い猛将・柴田勝家ですら、最初は彼をただの草履取りだと見下して足蹴にしていたが、最終的には彼の手のひらで踊らされ、賤ヶ岳の戦いで完膚なきまでに滅ぼされたのだから。
だが。
残念だったな、藤吉郎。
俺は未来から来た、お前の生涯の記録を文字通り舐め回すように読み漁った重度の歴史オタクだ。
史実において、明智光秀の「三日天下」を終わらせた最大の宿敵。
本能寺の変の直後、備中高松城の水攻めを毛利との即席の和睦で強引に切り上げ、京まで数万の軍勢を異常な速度で引き返させた『中国大返し』。
その神速の機動力と、周辺大名への完璧な政治的根回し(手紙による味方工作)によって、光秀は完全に孤立させられ、山崎の地で無惨な敗北を喫した。
農民の出でありながら、天下を掠め取るために誰よりも合理的に、誰よりも冷酷に動き、親兄弟すら平気で政略の駒として使い潰す野心家。
そんなお前の正体と、その腹の底で渦巻くドス黒い野心を、俺は【史実】として骨の髄まで知っている。
こんな見え透いた猿芝居で、俺の懐に入り込めるなどと、ゆめゆめ思うな。
「……木下殿か。ご丁寧な挨拶、痛み入る」
俺は立ち止まり、藤吉郎を静かに見下ろして、完璧な貴族的な微笑みを浮かべた。
相手が「人たらしの天才」なら、こちらは未来の知識という絶対的な「神の視点」で迎え撃ち、その心を根底からへし折ってやるまでだ。
「さ、さすがは明智殿! お言葉の端々にまで、気品と知性が溢れておられまする! わしのような無学な泥侍とは、まるで住む世界が違うお方じゃ!」
藤吉郎は俺の返答に食い下がるようにして、さらに揉み手をしながら一歩近づいてきた。
その瞳は、あくまで無邪気な後輩を装いながらも、俺の表情の僅かな変化、呼吸のペース、声のトーンを、凄まじい精度でスキャンしている。
(怖い男だ。一見するとただの調子の良い猿だが、その内側には、相手の感情の隙間を見つけ出すための、針のように鋭いセンサーが備わっている)
「明智殿、わしは先ほどの上様への御前でのご説明を聞き、目から鱗が落ちる思いでございました! 経済封鎖じゃの、物流の支配じゃの……わしら尾張の武骨者には、到底思いもつかぬ神算鬼謀! どうか、この藤吉郎めに、その後学の片鱗なりともお教え願えませぬでしょうか!? わしは明智殿の草履でも温める覚悟にございまする!」
藤吉郎は、文字通り床に額を擦りつける勢いで平身低頭した。
俺は扇子を閉じ、軽く右の掌に打ち当てた。
パチン、という乾いた音が、立政寺の静寂な廊下に響く。
「……藤吉郎殿」
俺は、温度を一切感じさせない、凪いだ水面のような声で呼びかけた。
「は、ははっ!」
藤吉郎が顔を上げ、媚びるような笑みを浮かべたまま返事をする。
「お前のその『へりくだり』は、確かに見事だ。並の武将であれば、お前のその熱意と愛嬌にほだされ、自尊心を満たされ、快くお前を配下に加えるだろう」
「……え?」
藤吉郎の顔の筋肉が、わずかに硬直した。
「だが、俺の前では無駄なことだ。お前が俺に近づいてきた本当の理由が、『教えを乞うため』などという殊勝なものではないことくらい、最初から分かっている」
「あ、明智殿……? な、何を仰られますやら、わしは本当に……」
藤吉郎が慌てて取り繕おうとするが、俺はそれを冷たい視線で遮った。
「お前は先ほどの広間で、俺の語った『経済制裁による国家封鎖』の真の恐ろしさを、あの場にいた誰よりも……柴田殿や丹羽殿よりも正確に理解したはずだ。そして同時に、俺という存在が、お前の出世の道を根こそぎ奪いかねない『最大の障害』になるという危機感を抱いた。違うか?」
藤吉郎の口が、半開きになったまま固まった。
彼の最大の武器である「相手の感情を読み取る能力」が、今、完全に逆に作用している。
自分が相手を観察し、操ろうとしていたはずが、相手はさらにその上空から、自分自身の深層心理と隠された野心すらも完璧に見透かしているのだ。
「俺の懐に入り込み、俺の思考や手口を盗み、あわよくば俺を利用して自分の出世の足がかりにする。……それが、お前の腹の底にある本当の目論見だろう?」
俺の言葉が、鋭い刃となって藤吉郎の胸元を正確に抉った。
彼の顔から、いつもの愛嬌のある猿の笑顔が、音を立てて剥がれ落ちていく。
「……」
藤吉郎は、何も答えられなかった。
いや、答える言葉が見つからなかったのだ。これまでの人生で、己の心をここまで完璧に、残酷なまでに解剖された経験など、彼には一度もなかったからだ。
「俺は、お前のような野心家を嫌いではないよ、藤吉郎殿」
俺は、一歩だけ彼に近づき、その肩を扇子の先で軽く叩いた。
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