第10話:次なる標的は、尾張の魔王(改稿版)
「朝倉は、金を受け取るだけで重い腰を上げません。武田や上杉は領国が遠すぎますし、背後に敵を抱えていて身動きが取れません。我々が頼るべきは……」
俺(明智光秀)は立ち上がり、京の都を越えたさらに南東の空――東海の方角を鋭く見据えた。
「――尾張国の、織田信長です」
「お、おだ……のぶなが? あの、桶狭間で今川義元を討ち取ったという、尾張のうつけか?」
足利義昭が、怪訝そうに眉をひそめた。
当時の日本において、織田信長の世間的な評価は決して「天下を狙う覇王」などというものではなかった。
確かに、海道一の弓取りと謳われた巨大勢力の今川義元を討ち取ったことで、その名はいちやく全国に轟いた。だが、多くの武将や公家たちは、あの勝利を「たまたま天候(豪雨)に恵まれ、まぐれ当たりで敵の本陣に突っ込めただけの、運の良い野蛮な奇襲」だと低く見なしていたのだ。
それに加えて、信長の若い頃からの「大うつけ(大馬鹿者)」という悪評が、畿内にまで広く知れ渡っていた。
髪を茶筅髷に結い、着物の袖を外し、腰には瓢箪や火打ち袋をジャラジャラとぶら下げて、町中で立ったまま瓜や餅を下品に食い歩く。身分をわきまえずに町の悪童たちと川で水遊びに興じ、親の葬儀では仏前に抹香を投げつけるという、狂人としか思えない奇行の数々。
「十兵衛よ。確かに桶狭間のまぐれ勝ちは凄いが、あのような常識の通じぬ狂人に、私の高貴な神輿を担がせるというのか? 途中で放り出されるか、何をされるか分かったものではないぞ」
義昭が、不安げに金塊の山を撫でながら尋ねる。
「うつけではありません。あれはすべて、彼が仕組んだ完璧な『擬態』です」
俺は扇子をパチンと鳴らし、義昭の不安を根底から否定した。
「擬態……? 虫や獣が、敵から身を隠すようにか?」
「その通りです。織田家もまた、内部に多くの敵を抱えていました。古い権威に縛られた家臣たちや、跡目争いを狙う優秀な弟、そして隣国の間者たち。……信長は、あえて馬鹿を演じることで彼らに『あいつは頭が空っぽのうつけだから、今すぐ殺さなくても脅威ではない』と油断させ、己の命を守りながら、同時に『誰が本物の忠臣で、誰が裏切り者か』を、その冷徹な目でじっくりと観察していたのです」
「……あえて馬鹿を演じて、敵を泳がせていたと言うのか?」
義昭の目が驚きに見開かれる。
「そして、彼が町で遊び歩いていたのにも、明確な理由があります」
俺は言葉を続ける。
「町中で立ったまま瓜や餅を買い食いしていたのは、彼が『身分にこだわらず、領内の経済状況や物の値段の推移、商人や民の生の声』を、自らの肌と舌で直接視察していたからです。さらに、川で水遊びをしていたのは、いざ他国と戦になった時のための『地形や水深、川の流れの速さ、地盤の固さ』を、自分の足で測量していたに過ぎません」
信長は、机の上でふんぞり返って、家臣からの都合の良い報告書だけを読んでいる古い武将たちとは、見ている世界が根本から違う。
彼は「現場百回」を地で行く、究極のリアリストなのだ。
「桶狭間の戦いも、決してまぐれではありません。彼は常日頃から領内の商人や農民を金で手懐け、圧倒的な『情報網(諜報ネットワーク)』を築き上げていました。だからこそ、今川義元の本陣の正確な位置をピンポイントで特定できたのです。……無駄な血を流さず、情報と兵站を支配して、一撃で敵の頭だけを叩き潰す。彼は古い常識を破壊し、合理性のみを追求する、底知れぬ巨大な器を持った天才です」
俺の熱を帯びた言葉に、義昭は完全に言葉を失い、喉を鳴らした。
温室育ちの義昭にとって、信長という男の底知れぬスケール感と冷徹な合理性は、想像するだけでも恐ろしい怪物のように思えたのだろう。
「な、なるほど……。十兵衛がそこまで言うのなら、確かに恐ろしい男なのだろう。……だが、十兵衛よ」
義昭は不安そうに俺の顔を見上げた。
「そんな合理的な怪物が、果たして私のような『力のない神輿』を、素直に担いでくれるのだろうか? 利用するだけ利用して、用済みになればあっさりと切り捨てられるのではないか?」
義昭の懸念は、もっともだった。
史実において、信長は義昭を利用して上洛を果たした後、義昭の権力を次々と制限し、最終的には彼を京から追放して室町幕府を完全に滅亡させている。
信長にとって将軍という権威は、天下を獲るための「便利な通行証」に過ぎず、邪魔になればいつでも破り捨てるものなのだ。
だが、俺は涼しい顔で、フッと余裕の笑みを浮かべた。
「ご安心ください。信長が上様(義昭)をないがしろにできないよう、私はすでに『最強の首輪』を、織田家の心臓部に仕込んでありますから」
「最強のパイプ……? それは、いったい誰なのだ?」
義昭が身を乗り出す。
俺の脳裏に、かつて美濃の国で俺が徹底的にプロデュースし、尾張へ正室として嫁がせた義妹・帰蝶(濃姫)の、凛とした美しい顔が浮かんだ。
「織田信長の正室……『帰蝶』です。美濃の斎藤道三の娘であり、私の義理の妹でもあります」
「なんと! あのマムシの娘が、お前の身内であり、織田の正室に収まっておるのか!」
史実の帰蝶(濃姫)は、信長に嫁いだという記録を最後に、歴史の表舞台からぷっつりと姿を消してしまう「謎に包まれた女性」だ。
だが、俺が彼女を「ただ歴史の闇に消えるだけの、使い捨ての政略の駒」にしておくはずがない。
俺は彼女が尾張へ嫁ぐ前の数ヶ月間、俺の持つ【現代の諜報技術】や【経済・心理学の知識】のエッセンスを、彼女の優秀な頭脳に徹底的に叩き込んでおいたのだ。
現代の「ヴィジュネル暗号」の原理を応用した、当事者同士しか知らない鍵を持つ多表式暗号。
「微表情学」を基にし、口元や眉間のピクつきから、相手が真実を語っているか、殺意を隠しているかを瞬時に見抜くプロファイリング技術。
さらに、毒殺を回避するための初歩的な化学反応の知識から、複式簿記による裏帳簿の解読法まで。
「彼女はただの奥方ではありません。私が育て上げた、最高のエージェント(工作員)です。……古い常識にとらわれない信長は、必ず織田家内部の古い重臣たちと対立し、命を狙われる孤独な時期を経験します。その時、彼女だけが信長の理解者となり、背中を守るように指示しておきました」
俺は、扇子で手のひらを軽く叩きながら、自信に満ちた声で語った。
「彼女は今頃、信長にとって『絶対に手放せない唯一無二の理解者』として、織田家内部で強固な発言権と地位を確立しているはずです。……その彼女を通じて、私は長年、信長と水面下で情報のやり取りを行い、彼に『明智光秀という男の底知れぬ価値』を刷り込み続けてきました」
「なんと……。お前は、私が幽閉されて泣いている間から、すでに尾張の魔王を手懐けるための布石を打っていたというのか……!」
義昭は、もはや俺を忠臣というより、人間の形をした神か悪魔を見るような目で仰ぎ見ていた。
「最高の神輿である『義昭様の大義名分』。堺の今井宗久から引き出した『莫大な資金力』。そして、織田家の心臓部に食い込んだ『帰蝶というパイプ』。……すべての人形(手札)は、私の掌の上に揃いました」
俺はゆっくりと立ち上がり、義昭の前に積み上げられた金塊の山を見下ろした。
「さあ、義昭様。これより我々は、美濃国へと向かいます。信長は現在、我々を迎えるために、美濃の立政寺に本陣を構えて待っております」
「い、いよいよか……! この私が、京の都へ帰るのだな!」
義昭が、金塊を握りしめながら感極まったように叫ぶ。
「ええ。貴方様はただ、金ピカの神輿として、堂々と鷹揚に微笑んでいればよいのです。……尾張の魔王との交渉、そして天下を根底からひっくり返すための『歴史最大のプレゼンテーション』は、すべてこの私にお任せください」
俺の胸の奥で、重度の歴史オタクとしての血が、ドクン、ドクンと激しく沸き立つのを感じた。
未来の知識をインストールされた俺の頭脳が、ついに戦国最大の怪物・織田信長と、歴史の表舞台で直接交わる時が来たのだ。
最強の経済力と未来知識を持った明智光秀と、破壊の天才・織田信長。
のちに世界を震撼させることになる最狂の「バディ」が結成される、運命の立政寺での邂逅。
二人の運命の歯車が、いま、激しい音を立てて噛み合おうとしていた。
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