第7話:暗闇の救世主と「地獄の沙汰も金次第」(改稿版)
大和国、興福寺・一乗院。
深夜の寝所で、覚慶(のちの足利義昭)は、豪華な絹の掛け布団を頭からすっぽりと被り、ガタガタと全身を激しく震わせていた。
(……怖い。恐ろしい。次は、私の番だ。必ず殺される……!)
兄である十三代将軍・足利義輝が、三好三人衆の軍勢に襲撃され、二条御所で凄惨な最期を遂げたという凶報が届いてからというもの。覚慶の心は完全に壊れかけていた。
彼が幽閉されているこの一乗院の周囲には、すでに松永・三好方に与する兵たちが何重にも包囲網を敷いている。昼夜を問わず、甲冑が擦れ合う鈍い音や、兵士たちの粗野な怒声が壁の向こうから聞こえてくる。
その音を耳にするたびに、覚慶の脳裏には、血まみれになって槍で突かれる自分の無惨な姿がフラッシュバックした。
自分は幼い頃から仏門に入り、ただ静かに経を読んで生きてきただけの男だ。人を斬ったこともなければ、戦場に出たこともない。なぜ、血筋が足利の将軍家であるというだけで、こんな地獄のような恐怖を味わわねばならないのか。
(誰か……誰か、私を助けてくれ! 忠義の武士はおらんのか!)
心の中で何度叫んでも、助けが来る気配はない。
史実通りであれば、細川藤孝や一色藤長といった数少ない幕臣たちが、命懸けで彼を救出するための策を練っている最中である。だが、暗殺の恐怖に完全に押し潰されている覚慶に、彼らを信じて待つだけの精神的な余裕など残されてはいなかった。
カサッ……。
その時、寝室のふすまの向こうで、わずかな衣擦れの音がした。
「……ひぃっ!!」
覚慶の心臓が、恐怖で爆発しそうに跳ね上がった。
ついに来た。三好の刺客だ。あの無骨な槍で、布団ごと私を串刺しにする気だ!
スッ……。
音もなくふすまが開き、一筋の冷たい月光が寝室に差し込んだ。
「だ、誰かおらんか! 来るな、来るでない! 命だけは、命だけはお助けを……! 私は将軍になどなりとうない!!」
覚慶は布団を蹴り飛ばし、部屋の隅へと這いずって後ずさりしながら、情けない悲鳴を上げて床にへたり込んだ。
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、両手を前に突き出して必死に命乞いをする。高貴な足利の血筋とは思えない、惨めで無様な姿だった。
だが。
月光に照らされて部屋に浮かび上がった『黒いシルエット』は、槍も刀も抜いてはいなかった。
それどころか、血に飢えた刺客の殺気など微塵も感じさせない、極めて静かで、澄み切った空気を纏っていた。
「……ご安心ください、覚慶様。私は三好の刺客ではございません」
黒装束をまとったその男は、床に静かに片膝をつき、淀みない動作で恭しく、そして深く頭を下げた。
洗練された武家の礼法。その所作には、一切の隙も無駄もなかった。
「貴方様をお救いし、再び天下の将軍として京の都へお迎えするために参った者。……名を、明智十兵衛光秀と申します」
低く、落ち着いたバリトンの声。
その声には、覚慶のパニックを強制的に鎮めるような、不思議な安心感と絶対的な自信が満ちていた。
「あ、明智……? 土岐の、あの明智か……? わ、私を、救出するだと……?」
覚慶は震えを必死に抑えながら、信じられないものを見るように目を丸くした。
幕臣でもなければ、これまで面識もない美濃の浪人が、たった一人で自分を助けに来たというのか。
「馬鹿なことを申すな! お前は狂っておるのか!? 外には三好の兵がうようよと囲んでおるではないか! アリの這い出る隙間もないほどの厳重な警護だぞ!」
覚慶は首を激しく横に振り、絶望的な現実を叫んだ。
「お前一人で、どうやって突破するというのだ。私を連れ出そうとして外に出れば、たちまち蜂の巣にされて殺されるわ!」
当然の反応だ。
刀一本で数百人の完全武装した兵士を切り伏せて脱出するなど、軍記物の講談か、安い夢物語の中でしか起こり得ない。史実の細川藤孝たちですら、酒宴を開いて警備兵を酔い潰させたり、忍びの術を使って壁を越えたりと、血の滲むような偽装と死の危険を冒してようやく脱出したのだ。
だが。
俺は平伏したまま、顔を上げてフッと涼しい笑みを浮かべた。
「ご案じには及びません、覚慶様。……外の包囲網は、すでに『完全制圧済み』です。一滴の血も流しておりませんので、どうぞご安心を」
「……は?」
覚慶が、間の抜けた声を出した。
完全制圧? 一滴の血も流さずに? たった一人で、数百人の兵をどうやって?
彼の常識ではまったく理解できず、完全に思考がフリーズしている。
俺はゆっくりと立ち上がり、覚慶に背を向けて、庭に面したふすまへと歩み寄った。
そして、そのふすまを、躊躇うことなく両手で大きく左右に開け放った。
「――見張りの者たちよ。覚慶様がお出ましだ」
俺がよく通る声で、庭に向かって呼びかけた。
次の瞬間。覚慶は自分の目を疑った。
「ハッ! どうぞお通り下され!」
「お足元が暗うございます! 火をお近づけいたしまするゆえ、お気をつけて!」
庭に松明を持って立っていた数十人の三好方の警備兵たちが、誰一人として槍を構えることなく、一斉に左右に分かれて『花道』を作ったのだ。
そして、彼らは俺と覚慶に向かって、揉み手をしながら深々と、それはもう見事なほどに愛想よく頭を下げたのである。
「な、ななな……なんじゃお前たちは!? お前たちは、私を監視しに来た三好の兵であろう!?」
覚慶は腰を抜かしたまま、震える指で兵士たちを指差した。
「いやぁ、それがしの田舎の親戚に、急病人が出ましてなぁ。今すぐ国に帰らねばならんのですわ」
小隊長らしき一人の男が、下品な笑みを浮かべながら、懐に入れた『ずっしりと重い皮袋』をポンポンと叩いた。チャリッ、と鈍い銀の音が響く。
「この明智様から、『手厚いお見舞い金』をいただきましてな。いやあ、今夜は月が雲に隠れて、我々の目には何も見えませぬわい! ……おいお前ら、今日はもう店仕舞いだ! 邪魔にならんよう、さっさと道を開けろ!」
「へへっ、明智様、毎度あり! 次の将軍様も、どうぞ道中お気をつけて!」
三好の兵士たちが、口々にヘラヘラと笑いながら道を譲っていく。
その異様で、あまりにもシュールな光景に、覚慶の顎が外れんばかりに落ちた。
そう、武力で血路を開く必要など、最初からどこにもなかったのだ。
戦国時代において、足軽や傭兵たちの忠誠心などというものは、恐ろしいほどに安くて軽い。
彼らは「三好家への絶対的な忠誠」で動いているわけではない。明日死ぬかもしれない戦場で、スズメの涙ほどの給金をもらって雇われているだけの、言わば非正規の労働者だ。
そこに、俺が堺の今井宗久と結託して用意した『莫大な工作資金』のほんの一部……彼らが一生遊んで暮らしても使い切れないほどの【極上の灰吹銀】を目の前に積まれたらどうなるか。
「命を懸けて将軍の弟を見張り、安い給金をもらう」か。
「見て見ぬフリをして、一生遊んで暮らせる純銀を懐に入れる」か。
天秤にかけるまでもない。忠誠心などという脆弱な鎖は、資本主義の圧倒的な暴力(札束ビンタ)の前に、瞬時に消し飛ぶのだ。
「ま、待て。いくら金を積んだとはいえ、全員が全員、寝返るはずが……中には、三好に忠義を誓う強硬な者もいたはずだぞ!?」
覚慶が、混乱した頭で必死に食い下がる。
「ええ、おっしゃる通りです。どうしても買収に応じない、頭の固い強硬派の小隊長や目付たちも数名おりました」
俺は振り返り、悪魔のように優しく微笑んだ。
「彼らには、私が大金で雇い入れた『伊賀のトップクラスの忍びたち』に命じて……音もなく、永遠の眠りについていただきました。誰も悲鳴一つ上げておりませんので、覚慶様の安眠を妨げることはなかったはずです」
ヒッ……! と、覚慶の喉が鳴った。
金で動く者は金で買い、金で動かない者は、金で雇ったプロフェッショナル(暗殺者)に物理的に排除させる。
情も、武士の誇りも、泥臭い熱血も一切存在しない。ただひたすらに、冷徹な『金と情報のロジック』だけで、この絶対的な包囲網は完全に無力化されていたのだ。
「まさに、地獄の沙汰も金次第、というやつですな」
俺が涼しい顔で扇子を広げると、覚慶はただただ口をパクパクとさせるしかなかった。
彼の中で、目の前に立つ『明智光秀』という男が、三好三人衆よりも、松永久秀よりも遥かに得体が知れず、恐ろしい存在として刻み込まれた瞬間だった。
「さあ、覚慶様。いつまでもこのような冷たい床に座っていては、お体に障ります。外に『極上の駕籠』をご用意しております。これより、安全な越前国へと向かいましょう」
俺は、腰を抜かしている覚慶の手を優しく、だが力強く引いて立ち上がらせた。
そして、彼を庇うようにして悠々と、警備兵たちが花道を作る一乗院の庭を歩き出した。
史実において、細川藤孝たちが刃を交え、血と汗と泥に塗れ、ボロボロの衣服を着て震えながら行った決死の脱出劇。
それを俺は、圧倒的な資金力による買収工作で、安全かつ確実な、誰一人として傷つかない『夜の遠足』へと変えてしまったのだ。
「こ、これは……なんという豪奢な……」
寺の門を抜け出した覚慶を待っていたのは、夜逃げに使われるような粗末な籠や、農民の荷車などではなかった。
外装に美しい漆が塗られ、中は最高級の絹の座布団と南蛮渡来の柔らかなビロードのクッションが敷き詰められた、大名クラスが乗る『極上の駕籠』。
さらにその周囲には、俺が破格の報酬で雇い入れた百戦錬磨の傭兵たちと、闇に紛れて索敵を行う伊賀忍たちが数十名規模で付き従っている。野盗や三好の追手など、近づくことすら不可能な鉄壁の布陣だ。
「次期将軍たるお方が、ご自身の足で土を踏むなどあってはなりません。さあ、夜風が冷えます。中へお乗りください」
俺が恭しく幕を上げると、覚慶はまだ夢でも見ているかのような呆然とした顔で、ふかふかの駕籠の中へと吸い込まれていった。
(よし。まずは第一段階クリアだ。……ここから越前までの道中、俺が徹底的にこの男を『甘やかし』て、コンプレックスを抱く隙間もないほどの金ピカの神輿に改造してやる)
俺は懐の工作資金の重みを確認し、自らも愛馬に跨った。
歴史のバッドエンドを完全にへし折るための、前代未聞の「超VIP待遇の逃避行」が、闇夜の静寂の中で幕を開けた。
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