第3話:悪魔の帳簿(複式簿記)と、商人の屈服
「今後の取引の形を変える、と仰いますと?」
今井宗久は、畳の上で居住まいを正し、俺の顔をじっと見据えた。
その丁寧な言葉遣いの裏に、堺の豪商としての強烈な『自負』と、武士を見下す『驕り』が透けて見えた。
(なるほど。この明智という若武者は、確かに異国の恐ろしい技術を知っている。美濃の国主である斎藤道三の腹心として、権力も資金力も持っているのだろう)
宗久の脳内で、凄まじい速度で算盤が弾かれているのがわかる。
(だが、所詮は武士だ。槍を振り回し、領地を奪い合うことには長けていても、複雑に絡み合う商いの機微や、銭の裏の流れまで理解できるはずがない。……技術は提供させるが、最終的な商いの主導権(マージンの決定権)は、この堺の商人が握り続けてやる)
戦国時代において、武士は商人を「銭に群がる卑しい者」と見下していたが、同時に商人たちもまた、武士を「銭の価値も知らぬ脳筋の田舎者」と内心で見下していた。
宗久は、俺の若さを見て、「技術は凄いが、上手くおだてて丸め込める相手だ」と判断したのだ。
「宗久殿。貴方が今、腹の中で何を考えているか、当ててみせようか」
「……は?」
「『技術の出所は明智だが、実際の流通や帳簿の管理はこちら(今井)が握っている。適当に数字を弄って中抜きし、生かさず殺さず飼い慣らしてやろう』……そんなところだろう?」
俺が、氷のように冷たい声で図星を突くと、宗久の肩がビクッと跳ねた。
「め、滅相もございませぬ! この宗久、明智様を裏切るような真似は決して……!」
「口では何とでも言える。商人の本心は、言葉ではなく『数字』にのみ表れるものだ。……これを出してもらおうか」
俺は懐から、一冊の分厚い和紙の束を取り出し、畳の上にドサリと置いた。
「これは……帳簿、にございますか?」
「ああ。私が、美濃からの資金の流れと、宗久殿からの銀の送金記録を、私の『独自の計算術』でまとめ直したものだ」
俺が提示したのは、当時の日本で一般的に使われていた「大福帳」や「単式簿記(いくら入って、いくら出たかだけを時系列で記すもの)」ではない。
現代の資本主義経済の根幹を成し、ルカ・パチョーリが体系化したとされる『複式簿記』の完全なフォーマットである。
「宗久殿。当時の……いや、現在の貴方たちの帳簿の付け方には、致命的な欠陥がある」
俺は帳簿のページを開き、冷徹なロジックで商人の聖域(常識)をぶち壊し始めた。
「貴方たちの帳簿は、ただ『金がどれだけ動いたか』という結果しか記録していない。だからこそ、運送中の盗難を装った損失計上や、ダミーの問屋を使った二重請求など、いくらでも誤魔化し(中抜き)ができる隙がある。……だが、私のこの計算術は違う」
俺は、帳簿の真ん中に引かれた一本の線を指差した。
「一つの取引を、必ず『原因』と『結果』の二つの側面に分け、左の『借方』と右の『貸方』に同時に記録する。銀が五千貫入ったなら、それは何によってもたらされた収益(資本)なのか。鉄砲を千丁買ったなら、それは資産の増加と現金の減少として両側に記帳する。……そして、この左と右の合計額は、最終的に一文(一円)の狂いもなく『完全に一致』しなければならない」
宗久の目が、俺の説明を聞きながら、次第に大きく見開かれていった。
彼も天才的な商人だ。俺の語る『バランスシート(貸借対照表)』と『損益計算書』の概念の恐ろしさを、直感的に、瞬時に理解し始めたのだ。
「この帳簿を使えば、金銭の出入りだけでなく、誰が、誰に、どれだけの『貸し』と『借り』を作っているのか、そして在庫(資産)がどこに消えたのかが、冷徹な数字の羅列によって一目で可視化される。……一切の誤魔化しが利かない、悪魔の書だ」
俺は、扇子の先で帳簿のある一行をトントンと叩いた。
「……ところで宗久殿。三ヶ月前、堺から美濃へ送られた銀の額と、私の帳簿の『資産』の項目に、わずか『三十貫』ほどの誤差が生じているのだが。……これは、南蛮の船長への袖の下か? それとも、貴方の懐に入ったのかな?」
「――ッ!!」
宗久の顔から、一瞬にして血の気が引き、土気色に染まった。
彼が極秘裏に、誰にも気づかれないように帳簿の隙間を縫って抜き取っていたわずかな手数料。武士には絶対に理解できないはずの「商いの機微」という名の横領。
それが、目の前の若武者によって、一文の狂いもなく完全に暴かれていたのだ。
「あ、明智様……! そ、それは……!」
宗久は、額から滝のような冷や汗を流し、畳に手をついて絶句した。
武士の分際で、商人の命である「数字と金の流れの真理」を、自分たちよりも遥かに高い次元で完全に支配している。
刀を突きつけられる恐怖とは全く違う。己の存在意義そのものを、理屈と数字の暴力によって根底からすり潰されるという、圧倒的な絶望感。
この明智光秀という若き男は、ただの技術を提供するパトロンなどではない。
世界の真理そのものを創り変えようとしている、本物の化け物だ。
「明智様……。貴方様は、我々商人にとっての『神』か、それとも『悪魔』にございますか……」
宗久は、完全にプライドをへし折られ、畳に額をこすりつけるようにして平伏した。
もはや、俺を丸め込もうなどという浅ましい野心は、彼の心から完全に消え去っていた。
「便利な方で呼んでくれて構わない。……だが、安心しろ。その三十貫の横領を咎めるつもりはない。貴方のような優秀な商人が動くための『必要経費』として、今後は正当な『報酬』の項目に計上してやる」
俺は、鞭で叩き伏せた後、極上のアメを与えることも忘れない。
「これからの今井商会と私の取引は、すべてこの『複式簿記』のフォーマットで行ってもらう。……私のルールに従い、私の描く盤面の上で完璧に踊る限り、貴方にはこの日の本で最大の富と特権を約束しよう」
「ははっ!! この今井宗久、一生をかけて明智様の描く絵図面に従いましょう。この命と商会のすべて、明智様の足元に捧げまする!」
宗久の心からの服従(忠誠)を引き出した俺は、扇子をパチンと閉じ、ニヤリと笑った。
(よし。これで、堺の経済と流通網は、完全に俺のコントロール下に入った)
「さて……誰が主人か理解してもらったところで、本題に入ろうか、宗久殿」
俺は、床の間に置かれた香炉の煙を見つめながら、これから始まる『本当の歴史改変』の青写真について、静かに口を開いた。
「銀の利益で、南蛮船から鉄砲を買い集めるだけでは足りない。……これからは、『鉄』そのものを支配するのだ」
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