第3話:絶望の底で開かれた扉(脳内図書館)(改稿版)
自分が「戦国最大の敗北者・明智光秀」であるという絶望的な事実、そして「自分の決断のせいで、将来この優しい母親が磔にされて殺されるかもしれない」という史実の呪縛に気づいてから、数日が経過した。
俺はすっかり、生きる気力を失ったふてくされた赤ん坊になっていた。
「十兵衛は、本当によく眠る手のかからん子じゃのう。夜泣き一つ、ろくに上げん」
「ええ、本当に。仏様のように穏やかなお顔で……きっと、賢い子に育ちますよ」
乳母や大人たちは、俺の静かすぎる様子を見て安堵したようにそう言う。
だが、違う。賢いから泣かないのではない。ただ単に現実逃避のために目を固く閉じ、ひたすら外界からの情報をシャットアウトして思考を停止させているだけだ。
今の俺は、生まれたばかりの赤ん坊である。
首すら座っておらず、喋ることも、歩くことも、自分の意志で寝返りを打つことすらできない。視力は未発達で世界はぼんやりとしか見えず、できることといえば、腹が減ったら泣いて乳をもらい、排泄をし、ただ眠ることだけ。
周囲の大人たちが時折交わす会話からは、「今年の年貢の集まりがどうだ」「どこそこの国衆が小競り合いを起こした」といった、戦国時代特有の生々しい世間話が漏れ聞こえてくる。それを耳にするたびに、俺の心は重く沈んだ。
戦国の過酷な世で生き残るためには、他者を圧倒する強靭な「武力」か、国を動かし人を操る「知力」か、あるいは金と土地という「権力」が必要不可欠だ。
だが、今の俺には何一つない。
前世で蓄えた膨大な歴史の知識も、世界の真理を知り尽くした現代人の知恵も、この未発達な無力な肉体では、誰かに伝えることすらできないのだ。もし無理に口を動かして政治や戦術を語ろうとしても、喉から出るのは「あー」とか「うー」という間抜けな喃語だけである。
(……俺は、このまま歴史の巨大な波に飲まれて、悲惨な運命のレールをなぞり、あの地獄のようなバッドエンドを待つだけなのか?)
無力感という名の毒が、じわじわと心を侵食していく。
もうすぐ斎藤道三が死ぬ。一族は城を追われる。極貧の放浪生活が始まる。妻には髪を売らせる。信長にブラック労働でこき使われる。母は殺される。そして最後は、本能寺で謀反を起こし、三日天下で竹槍に突かれて死ぬ。
(嫌だ。そんな人生、絶対に嫌だ……)
ある夜のことだった。
薄暗い部屋の、冷たい風がわずかに吹き込むベビー布団の中で一人、ぼんやりと天井の木目を数えるのにも飽き、俺はふと意識を深く、深く沈めた。
現実が辛すぎるなら、せめて夢の中だけでも、前世の平和な現代日本に逃げ込みたかったのだ。
クーラーの効いた快適な六畳半のアパートの部屋。冷蔵庫にはよく冷えたコーラがあり、手元には読みかけの歴史小説や論文のコピーが山積みになっている。あの、活字と知識に埋もれた至福の空間へ。
(本を読みたい……文字の海に溺れたい……)
活字中毒者としての禁断症状に近い渇望が、俺の意識をさらに深い場所へと引きずり込んでいく。
深い水底へと沈んでいくような奇妙な浮遊感。
やがて、俺の意識を包んでいた暗闇が、ふっと薄らいだ。
『――ここは?』
目を開けると、そこは果てしなく続く巨大な空間だった。
床は磨き上げられた黒大理石のように黒く澄んでおり、壁も天井も存在しない。ただ漆黒の無重力空間のような場所に、見上げるほど巨大な――それこそ天にまで届きそうな木製の「書架」が、幾重にも、幾重にも連なってそびえ立っていた。
無数の本。古びた和紙の巻物。麻紐で束ねられた書類。現代の分厚いハードカバー。色鮮やかな学術誌。
まるで、世界中のあらゆる知識をかき集めた、神々の大図書館のようだ。埃一つないその空間は、冷たくも神秘的な静謐さに包まれており、どこからともなく淡い光が書架を照らし出している。
ふと自分の手を見ると、もみじのような赤ん坊の手ではなかった。
俺は、前世の二十歳の大学生の頃の「青年の姿(精神体)」で、その果てしない書架の前に立っていたのだ。
(ここは夢か……? それとも、死後の世界と現世の狭間にある精神空間か?)
あまりの非現実的な光景に圧倒されながらも、俺の「本を愛する本能」が、恐怖よりも好奇心を勝らせた。
おそるおそる、目の前にある本棚の一つに歩み寄り、革張りの分厚い本の背表紙に指先を触れてみる。
その瞬間――本のタイトルが、金色の文字となって俺の脳裏に直接、鮮やかに浮かび上がった。
『信長公記・巻の五』
「え……?」
織田信長の旧臣である太田牛一が記した、戦国時代の一級史料。俺が前世で、現代語訳版のみならず、原本のレプリカまで擦り切れるほど読み込んだ本だ。
心臓がトクンと鳴った。俺は急いで、隣の青い表紙の本に触れる。
『フロイス日本史・第二部』
さらに隣の、プラスチックのバインダーに挟まれた書類に触れる。
『中世日本の貨幣経済と流通機構に関する一考察(大学論文)』
「嘘……だろ……」
信じられない思いで、俺は次々と棚の本や書類、巻物に触れていった。
『戦国期の気象データに関する研究』
『現代農業の基礎と土壌改良』
『図解:誰でもわかる火薬の歴史と製法』
『世界の帆船・ガレオン船の設計図解』
『中世ヨーロッパの複式簿記の歴史』
『野外におけるサバイバル術と応急処置マニュアル』
それだけではない。
『週刊少年漫画雑誌・〇〇年〇号』
『ネット掲示板のまとめ記事:歴史上の面白エピソード集』
『異世界転生ライトノベル・第3巻』
『美味しいチャーハンの作り方(レシピサイトの印刷)』
「これ、全部……」
俺の呼吸が、次第に荒くなっていく。
ここにあるのは、見ず知らずの誰かが集めた本ではない。
すべて、俺が「前世の人生で読んだことのある本やネットの記事」だったのだ。
歴史書や専門的な論文だけではない。ネットサーフィンで暇つぶしに読んだマニアックな科学記事、趣味で調べたサバイバル術、経済の仕組み、はては料理のレシピ本や漫画に至るまで。
生前、文字通り「活字中毒」として、紙や電子媒体を問わず頭に詰め込んできたあらゆる情報が、物質化してここに完璧に収められている。
前世の俺は、歴史オタクであると同時に、異常なほどの「知識の収集狂」だった。興味を持った事柄はジャンルを問わず徹底的に調べ上げ、活字を貪るように読んでいた。
その結果が、この常軌を逸したスケールの「脳内図書館」なのだ。
「……すげえ。俺の記憶が、すべてここに保存されているのか?」
人間の記憶というのは、本来極めて曖昧なものだ。
「昔、こんな本を読んだな」「火薬を作るには硝石と硫黄と木炭が必要らしいな」と大まかに覚えていても、正確な年月日や、具体的な化学物質の配合比率、歴史的事件に関わった人物のフルネームまで、完璧に暗記している人間などいない。
だが、この空間は違う。
前世で一度でも目にした文字情報は、すべてここに一字一句違わず保存されており、いつでも完璧な精度で引き出すことができるのだ。
絶望の底でただ死の運命を待っていただけの赤ん坊に、天はとんでもない武器を与えてくれた。
戦国時代において、情報は命そのものである。
「三年後に飢饉が来るか」「敵の武将がいつ裏切るか」。
それらを事前に100%の精度で知ることができるのなら、それはもう、魔法や奇跡と同義だ。
俺は、果てしなく続く漆黒の空間の中で、分厚い本を胸に抱きしめ、歓喜の震えを噛み殺した。
(……やれる。これなら、あのふざけた人生のロードマップを、根底からぶち壊すことができる!)
この無限の知識があれば、飢えを凌ぐことができる。金を無尽蔵に生み出すことができる。戦のルールそのものを変えることができる。
明智光秀のバッドエンド? 知ったことか。
俺は、このチート知識を使って、理不尽な歴史の強制力に真っ向から喧嘩を売ってやる。
漆黒の脳内図書館の中で、俺の心に、死への恐怖を上回るどす黒くも力強い闘志の炎が、静かに、しかし確実に灯ったのだった。
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