第2話:「明智十兵衛光秀」という絶望(改稿版)
「おお……本当に、元気な子じゃ。見ろ、この力強い泣き声を。我が明智の血を、立派に継いでもらわねばな」
日に焼けた厳つい顔立ちの男が、目を細めて俺を見下ろし、立派な顎髭を満足げに撫でながらうんうんと頷いていた。
薄暗く、木と土の匂いがする和室。俺は温かい麻の布に包まれ、大柄な男の腕の中に抱かれている。
(よしよし、どうやら「武士の跡取り息子」というポジションは確定らしいぞ)
俺は心の中でガッツポーズをした。
農民として生まれ、重税と飢餓に苦しみながら一生を終えるでもなく、足軽として戦場の最前線で使い捨てにされるわけでもない。武将の家に生まれたのなら、幼少期から読み書きや教養を身につけることができ、俺の脳内に詰まった「歴史知識」や「現代の科学・経済知識」というチートを存分に発揮できる土壌がある。
どんな大名に仕えているのかは分からないが、俺の知識をもってすれば、没落を防ぎ、時代を上手く立ち回って安泰な人生を送ることくらい容易いだろう。
俺は未来への希望に胸を膨らませながら、この父親が次に発する言葉を待った。
「うむ。この子の幼名は『十兵衛』としよう」
――は?
俺の思考が、ピタリと停止した。
今、この髭のオッサン、なんと言った?
『明智』の血を継ぐ、『十兵衛』?
オタク特有の、無駄に発達した脳内データベースが、その二つの単語をキーにして凄まじい速度で検索を開始する。
室町から戦国時代にかけての美濃国(現在の岐阜県)に存在した、清和源氏土岐氏の支流である明智氏。その一族で、『十兵衛』という通称を持った男。
あけち、じゅうべえ。
後の、明智十兵衛光秀?
「お、おぎゃあああああ!!(ふざけんなあああああ!!)」
俺は、先ほどまでの何倍もの大声で、ありったけの肺活量を振り絞って泣き叫んだ。いや、泣き叫ばずにはいられなかった。
父親――明智光綱だろう――は、「おお、さらに元気な泣き声になったわ! さすがは我が息子、生まれながらにして武将の素質がある!」などと呑気に高笑いしているが、こっちはそれどころではない。冗談ではない!
明智光秀。
俺が重度の歴史オタクだから過剰に反応しているわけではない。現代日本に生きる人間なら、小学生でも歴史の授業で必ず習う、あまりにも有名すぎる歴史上の超ビッグネームだ。
主君である「魔王」織田信長を本能寺で裏切り、燃え盛る炎の中で討ち取った「日本史上最大の謀反人」。
そして、その直後に『中国大返し』という歴史の常識を覆す神速の進軍で戻ってきた羽柴(豊臣)秀吉に、山崎の戦いで完膚なきまでにボコボコにされ、逃走中に落ち武者狩りの農民に竹槍で突かれて無惨に死ぬ男。
天下を握ったのは、わずか数日。後世からは「三日天下」と嘲笑され、裏切り者の代名詞として不名誉な名を何百年にもわたって歴史に刻み続ける、究極の悲劇の敗北者だ。
(詰んだ……! いきなり人生ハードモードすぎるだろ……!!)
ただでさえ戦国時代というだけで、現代人からすれば信じられないほどのクソゲー環境なのだ。
抗生物質もワクチンもないこの時代、ちょっとした風邪や擦り傷からの感染症で人はあっさりと死ぬ。少し天候が崩れれば不作になり、村ごと飢餓に陥る。さらに、隣国の大名が気まぐれに攻めてくれば、昨日まで笑っていた家族が容赦なく皆殺しにされる。まさに死と隣り合わせの地獄である。
それに加えて、俺はよりによって「明智光秀」なのだ。
俺の脳内にある膨大な史実の知識が、これからの俺が歩むべき人生プラン(絶望のロードマップ)を、容赦なく高解像度で提示してくる。
まず、もうすぐ美濃の国で絶対的な権力者である斎藤道三が、実の息子である義龍との争い(長良川の戦い)で敗死する。道三寄りだった明智一族は義龍の標的となり、居城である明智城を攻め落とされ、一族郎党散り散りになる。
そこから俺は、生き残ったわずかな身内を連れて、食うや食わずの貧乏浪人として諸国を這いずるように放浪することになるのだ。
後世では美談として語られる、妻・熙子の「黒髪伝説」。光秀が連歌会を催す資金すらなく困窮していた時、熙子が自らの美しい黒髪を切り落として売り払い、金を工面したというエピソード。
歴史小説などで読めば「夫婦の美しい純愛」かもしれないが、当事者からすれば「愛する妻に自分の髪を売らせるほどの極限の貧困状態」という地獄でしかない。
そんな血を吐くような極貧生活の末、やっとの思いで越前の朝倉義景に仕えるが、この主君が致命的なまでに決断力のない暗愚な男で、俺の才能を全く評価してくれず、塩対応されて数年間を無駄にする。
そしてその後、ついに「あの男」と出会ってしまうのだ。
戦国最狂のブラック上司、織田信長。
信長の下での光秀の出世スピードは異常だったが、それは裏を返せば「異常なまでの労働量」を意味している。
信長の要求水準は常軌を逸しており、軍事においては最前線で常に勝利を求められ、内政においては京都の行政管理や朝廷との外交交渉まで丸投げされる。文字通り、寝る間も惜しんで働きまくる過労死寸前のデスマーチだ。
さらに、丹波攻略という地獄のように難易度の高いミッションを押し付けられ、数年がかりでようやく平定したと思えば、今度は四国の長宗我部氏との外交交渉を任される。だが、信長は突如として方針を転換し、光秀の顔に泥を塗る形で武力討伐を決定してしまう。
蓄積する理不尽なパワハラ、領地没収の危機、そして精神的な重圧。
最後は、限界を超えたストレスと絶望に耐えかねて本能寺で狂気を爆発させ、日本の歴史を変える大事件を起こすものの、その後のビジョンを描ききれず、野猿(秀吉)に美味しいところを全て奪われて破滅するのだ。
(なんだこの罰ゲームみたいな人生のロードマップは! 無理だ、絶対に無理だ!)
心の中で絶叫しながら、俺は小さな手足をバタバタと暴れさせた。
俺はただの歴史オタクであって、鋼のメンタルを持ったサイコパス武将ではないのだ。
もっと安全な後方の農村の庄屋とか、せめて争いとは無縁の平和な江戸時代の商人に転生したかった! なぜ、日本史上で最も過酷で、最もプレッシャーのかかるポジションに配置されなければならないのだ。
現代の知識や未来の歴史を知っているからといって、この「明智光秀」という巨大すぎるバッドエンドフラグの塊を、素人の俺が一人でへし折ることなどできるのか?
信長の狂気を御しきれるのか? 秀吉の異常な人たらしと軍事的才能を上回れるのか?
絶望と恐怖で、呼吸が荒くなる。
大人の精神が抱え込んだ巨大なパニックに、生まれたばかりの赤ん坊の未発達な心肺機能は到底耐えきれなかった。小さな心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、体温を調節する機能が暴走し、俺の小さな体はみるみるうちに異常な熱を持ち始めた。
「どうした、十兵衛? なぜ急に息を荒げている。顔がひどく赤いぞ! お牧、早く乳をやれ!」
「はい……よしよし、十兵衛や。母はここにおりますよ。怖くないですよ」
慌てた光綱の声に応え、母親らしき女性――お牧の方が、俺を柔らかく温かい胸に抱き寄せた。
優しく背中をトントンと叩かれ、子守唄を口ずさむような穏やかな声が耳元に降ってくる。
だが、その母親の温もりすらも、俺の心にある呪いをさらに深める劇薬でしかなかった。
(お牧の方……明智光秀の母親……)
またしても、脳内の無慈悲な知識が、一つの残酷な「伝承」を引っ張り出してくる。
史実――あるいは軍記物における有名なエピソードとして、光秀が丹波の八上城を攻めた際、敵将である波多野兄弟を降伏させるための「人質」として、自らの母親(お牧の方)を城へ入れたという話がある。
しかし、信長が降伏した波多野兄弟を容赦なく処刑してしまったため、激怒した八上城の残党によって、光秀の母は報復として見せしめの磔にされ、無惨に殺されてしまったというのだ。
この温かく、必死に俺をあやしてくれている優しい母親が、俺の(光秀の)決断と信長の冷酷さのせいで、将来、磔にされて惨殺される運命にあるかもしれないのだ。
「あー……うー……」
もはや泣き叫ぶ気力すら失せ、俺の喉からは掠れたような声しか出なかった。
母親の柔らかい胸に抱かれながら、俺の心は氷のように冷え切っていた。
俺の愛した歴史の知識が、今度は俺自身の首と、俺を愛してくれる家族の首を真綿で絞める呪いとなって、重く、重くのしかかってくる。
運命という名の、巨大で無慈悲な歯車。
それが、俺というイレギュラーな存在を歴史の定位置に押し込め、そしてすり潰すために、ゆっくりと、しかし確実に回り始めている重低音を、俺は確かに聞いたのだった。
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