第1話:クラクションの残響と、見知らぬ天井(改稿版)
「危ないっ!!」
誰かの引きつった悲鳴が、まるで分厚い水の中にいるかのようにくぐもって聞こえた。
直後、鼓膜を劈くような大型トラックのクラクションが響き渡る。タイヤがアスファルトを削り取る不快な摩擦音が、脳髄を直接引っ掻くように鳴り響いた。
そして、全身を巨大な万力で叩き潰されるような、抗うことすら許されない暴力的な衝撃――それが、俺の「前世」における最後の記憶だった。
俺の名前は……まあ、もう意味を持たないからどうでもいい。しがない、ごく普通の大学生だった。ただ一つ普通じゃなかったとすれば、俺が筋金入りの「歴史オタク」だったことくらいだ。
同年代の連中がサークル活動の飲み会や合コン、アルバイトや最新のスマホゲームに熱を上げている間、俺は暇さえあれば大学の地下にある薄暗い図書館に入り浸っていた。
カビの匂いと古い紙の匂い、そして埃っぽい空気が充満する書庫の奥深く。そこが俺にとっての何よりの安息の地だった。
俺の興味は、単なる歴史の年表を暗記することや、有名な武将の武勇伝を語ることではない。俺が知りたかったのは、中世から近世にかけての日本の「リアル」だ。
経済流通の仕組み、貨幣価値の変動、農業技術の発展プロセス、当時の人々の生活様式と死生観。さらには、気象データと飢饉の相関関係、火薬の精製法や南蛮貿易がもたらした技術的インパクトに至るまで、ありとあらゆる角度から「歴史という巨大なパズル」を解き明かすことに飢えていた。
古文書の現代語訳を読み漁るのはもちろんのこと、難解な崩し字で書かれた一次史料のコピーと辞書片手に格闘し、趣味の範疇を超えて専門的な歴史論文や農業書まで読み耽る日々。
「お前、そんなこと調べて将来なんの役に立つんだよ」と友人に呆れられたこともあったが、俺にとっては、過去の天才たちや名もなき人々が積み上げてきた知識の結晶に触れること自体が、至上の娯楽だったのだ。
あの日もそうだった。
俺は大学の図書館で、新しく入荷した『中世日本の貨幣経済と流通機構に関する一考察』という分厚い専門書と、戦国時代の公家の日記である『言継卿記』の復刻版、さらには新しく翻訳されたポルトガル宣教師の未公開書簡集の三冊を抱え、意気揚々と帰り道を歩いていた。
(宣教師の視点から見た当時の日本の衛生観念、早く読みてえ……。あと、言継卿記のあの年の米の相場の記述、絶対にあの天候不順の記録とリンクしてるはずなんだよな……)
頭の中は、これから読む本の内容への期待でいっぱいだった。
活字中毒特有の、早く続きを脳に流し込みたくてたまらない焦燥感。歩きながらでもページを開きたい衝動を抑えつつ、俺は赤信号から青に変わったばかりの横断歩道を急ぎ足で渡り始めた。
その途中で、居眠り運転のトラックが、ブレーキを踏むこともなく交差点に突っ込んできたのだ。
視界の端で、巨大な鉄の塊が迫ってくるのを捉えた。
だが、人間の身体はそんな急激な事態に反応できるようにはできていない。逃げる間も、身構える間もなく、俺の身体はトラックのフロント部分にまともに跳ね飛ばされた。
宙を舞う身体。手からすっぽ抜けて、アスファルトの上にパラパラと無惨に散らばっていく愛読書たち。
(ああ、クソ……まだ『言継卿記』の続きを読む途中だったのに……。宣教師の書簡だって、目次すら開いてないのに……!)
死への恐怖や、痛みを認識するよりも先に、俺の脳裏をよぎったのは、そんな呆れるほどオタクらしい未練と後悔だった。
地面に激突した瞬間、世界は完全にスイッチを切られたように、深い深い闇へと沈み込んでいった。
――はずだった。
絶対的な無。
光も、音も、匂いも、時間という概念すら存在しない虚無の海を、俺はどれくらい漂っていたのだろうか。
唐突に、強烈な「苦痛」が俺の意識を現実へと引き戻した。
(なんだ……? 息が……苦しい……!)
肺が焼け焦げるように熱い。気道に何かが詰まっているような、溺れかけている時のような強烈な不快感。
俺は無意識のうちに口を大きく開けた。その瞬間、堰を切ったように冷たく新鮮な空気が肺へと流れ込んでくる。
と同時に、俺の意思とは無関係に、声帯が勝手に震え、けたたましい音を外に向かって放った。
「……ぎゃあ……おぎゃあ! おぎゃあ!!」
(えっ?)
自分の口から出た音に、俺の思考は一瞬フリーズした。
意味を持った言葉ではない。極端に高く、細く、そして本能的な生存欲求だけが乗った、耳障りな鳴き声。
パニックになり、身体を起き上がらせようとする。
だが、全身が泥の沼に深く沈められたように重く、首すらまともに動かすことができない。手首や足首をバタバタと動かそうとしても、神経の伝達がうまく繋がっていないような、ひどく不器用な反応しか返ってこなかった。
(どうなってる!? 体が……全く動かない!)
必死に持ち上げた自分の手が、ぼやけた視界の端に映り込む。
それは、二十歳を過ぎた青年の骨張った手ではなかった。パンパンに張って赤みがかった、もみじのような極小の手。
指の関節すらはっきりしない、出来損ないの肉まんのようなその手を見て、俺はようやく自分の置かれている状況の「異常性」に気づき始めた。
「おお……見事な男児じゃ。でかしたぞ、お牧」
「はい、あなた様……」
視界の上方から、聞き慣れない古めかしい言葉遣いが降ってきた。
テレビの時代劇で俳優が喋るような、洗練された「作られた古語」ではない。発音の訛り、特有のイントネーション、土の匂いと生活の匂いが染み付いた、生々しい本物の「古語」だ。
俺の視界は、極度の近視のようにひどくぼやけていた。まるで分厚いスリガラス越しに世界を見ているようで、光の明暗と物の輪郭しか判別できない。
だが、嗅覚と触覚は鋭敏に状況を捉えていた。
ここは現代の病院ではない。
鼻を突くのは、無機質で清潔な消毒液の匂いではなく、白檀のような古風なお香の匂いと、わずかに血の混じった生々しい匂い、そして古い木材と土壁が放つ独特の湿った匂いだった。
俺を包み込んでいるのは、ゴワゴワとした麻のような感触の布。そして、俺を抱き上げているのは、大きく武骨な手だった。
ぼやけた視界の中で、俺を見下ろしている大柄な男の顔が徐々にピントを結んでいく。
日に焼けた厳つい顔立ち。立派な顎髭。そして、頭頂部を剃り上げ、後ろの髪を束ねて結い上げた特徴的な髪型――『髷』。
その力強い腕の中で、俺の明晰なオタク頭脳は、すべての情報を統合し、一つの信じられない結論を導き出した。
(俺は……死んで、赤ん坊に生まれ変わったのか……!?)
いわゆる、ネット小説でよくある「異世界転生」というやつだろうか。
だが、周囲の着物の造りや、建物の様式、人々の顔立ちを見る限り、ここは剣と魔法のファンタジー世界ではない。
間違いなくここは「日本」だ。それも、俺が前世で狂うほど愛し、書籍を通じて文字通り舐め回すように研究し尽くした、古い時代の日本。
(歴史オタクが、過去の日本に転生した? なんだよそれ、最高じゃないか!!)
恐怖や混乱よりも先に、俺の胸を満たしたのは爆発的な「歓喜」だった。
自分がどこの時代、どこの地域に生まれたのかはまだ分からない。だが、室町から戦国、あるいは江戸初期のいずれかだろう。
この男の堂々とした態度や、部屋の広さ(ぼやけた視界でも、粗末な農家ではないことがわかる)、そして妻を「お牧」と呼び捨てにする家父長的な振る舞いからして、階級は間違いなく『武士』だ。
(武家の子に生まれたなら、ある程度の地位と発言権は手に入るはずだ。俺の脳内に詰まっている膨大な歴史知識と、現代の科学・経済の知識があれば、この時代で大成することも夢じゃない!)
農業改革を行って領地を豊かにするか?
南蛮貿易をいち早く独占して、莫大な富を築くか?
それとも、未来の戦術を取り入れて、名将として歴史に名を残すか?
赤ん坊の小さな胸の中で、俺の野望は無限に膨らんでいった。
トラックに轢かれた不運など、もはやどうでもいい。これは神様が、歴史を愛してやまない俺にくれた、最高のボーナスステージなのだ。
(さあ、まずは情報収集だ。俺が生まれたこの家は、どこの大名に仕えているんだ? 姓はなんだ?)
俺は期待に胸を膨らませながら、男の口から紡がれる次の言葉を待った。
だが、俺のそんな呑気な希望と輝かしい野望は、男の次の一言によって粉々に打ち砕かれ、絶望のどん底へと叩き落とされることになる。
この時の俺はまだ、歴史という名の巨大な歯車が、どれほど無慈悲で残酷なものかを知らなかったのだ。
活動報告でもお伝えしましたが、1話より大幅加筆改稿をはじめました。
随時更新していきますので、お付き合いの程よろしくお願いいたします。
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