第27話:第一章完結 ~空白の十数年間へ~(改稿版)
数日後。春のうららかな陽射しの中。
俺が現代の諜報技術と心理学をすべて叩き込んだ『最強のエージェント』である帰蝶は、美濃の国境を越え、嫁ぎ先である尾張国へと旅立っていった。
彼女の輿入れの行列は、見物する民衆が度肝を抜かれるほど豪華絢爛なものだった。
道三が用意した通常の何倍もの莫大な持参金や豪華な着物の数々。だが、真の狙いはそこにはない。俺が堺の南蛮商人ルートを使い、石見銀山から得た裏金を惜しげもなく注ぎ込んで取り寄せた「極秘の献上品」が、長持ちの中に厳重に梱包され、積まれていた。
それは、燃えるような紅蓮に染められた『ビロードの外套』。
そして、複雑な歯車が寸分の狂いもなく時を刻み、鐘の音を鳴らす『南蛮の機械式時計』といった、当時の日本にはほぼ存在しない、オーパーツにも等しい珍しい品々である。
これらは単なる貢物ではない。俺が未来の知識(歴史データ)から逆算して用意した、織田信長という男の興味を初手から強烈に惹きつけ、完全に篭絡するための「完璧な仕掛け(トラップ)」だ。
のちの歴史において、信長は茶器集め(名物狩り)に熱中するが、それはあくまで家臣を統制するための「権力誇示のツール」として利用したに過ぎない。彼自身の本質は、古い権威や伝統的な茶の湯の精神よりも、「実用性」と「未知の合理性」を何よりも愛する極端なリアリストだ。
太陽の位置など関係なく、金属の歯車とぜんまいの力だけで規則正しく時を刻む機械式時計。それを見せ、「一日を等しい時間に分割し、正確に管理・支配する」という近代的な概念を提示する。
古い迷信を嫌う信長は、この目に見えない「時間」の法則を物理的に支配する道具を目の当たりにして、間違いなく知的好奇心を爆発させるだろう。
そして、それをもたらした帰蝶の並外れた知性と、その背後にいる「得体の知れない美濃のパトロン(俺)」の存在を、強烈に意識せざるを得なくなるはずだ。
これで、ただの政略結婚から始まる二人の初対面は、間違いなく最良の「ビジネスパートナーの締結」へと昇華される。尾張における俺の強力なパイプは、完全に構築されたのだ。
「……さて。これで美濃の地盤も完全に固まった」
見送りを終えた俺は、稲葉山城の天守の欄干に寄りかかり、眼下に広がる広大な濃尾平野を静かに見下ろした。
心地よい春の風が、俺の結い上げた髪を揺らす。
俺が赤ん坊としてこの戦国時代に転生し、『絶対記憶』のチート能力に覚醒してから十五年。
俺の掲げた「歴史改変」の第一段階は、控えめに言っても100点満点、いや、120点のパーフェクトで達成されたと言っていい。
史実における美濃崩壊と道三死亡の直接の原因であった長男・斎藤義龍の謀反。それは俺の『現代金融の罠(債権の買収と兵站の掌握)』によって一滴の血を流すこともなく粉砕され、彼は今も一切の権力を奪われたまま山深い寺に幽閉されている。
俺の最大のスポンサーとなったマムシの道三は、俺が提供した『灰吹法』と『硝石丘』によって、他国とは桁違いの武力と富を握り、盤石なチート国家の主として君臨し続けている。
そして何より――俺の最愛の妻・熙子の命は、見目定めの病(天然痘)の恐怖から完全に守り抜かれ、彼女との平穏で幸福な生活基盤は、絶対安全圏に確保されたのだ。
そうして美濃の繁栄を裏から管理し続け、さらに数年の時が流れようとしていた頃。
「道三様。私はしばらく、身分を隠して諸国漫遊の旅に出ようと思います」
城の奥座敷。
二人きりの茶席で俺が唐突にそう告げると、茶碗を傾けていた道三は怪訝そうに極太の眉をひそめた。
「ん? なぜだ、我が右腕よ。義龍の脅威も去り、尾張のうつけとも同盟が結ばれておる。今やこの美濃は日の本で最も豊かな国じゃ。お前はすでに明智家の当主として、わしに次ぐ権力と莫大な富を持っておる。何も危険な外の世界へ出ずとも、この豊かな美濃で、愛する妻とわしと共に政を回し、存分に贅沢をしていればよかろう」
道三の言うことはもっともだ。普通の人間なら、これだけの成功を収めれば、あとは安全な領地で左うちわの隠居生活を楽しむだろう。
だが、俺は静かに、しかし断固として首を横に振った。
「いいえ。美濃一国で満足していては、いずれ外からの巨大な波に飲まれます」
史実を見れば明らかだ。武田信玄、上杉謙信、毛利元就。周囲には、まだまだ化け物のような大国がひしめいている。
そして何より、いずれ魔王・織田信長が天下を獲る過程で、俺が外の基盤を持っていなければ、彼を完全にコントロールすることはできなくなる。
「次の時代を裏から支配するためには、日の本全土を覆う『経済と情報のネットワーク』が絶対に必要になるのです。……私はこれから、まず越前国(福井県)、そして和泉国の『堺』に向かいます」
前世の歴史オタクであった俺の脳内データによれば、史実における明智光秀の前半生は「完全な謎」に包まれている。彼が織田信長の前に姿を現すまでの約十年間、どこで何をしていたのか。諸説あるが、最も有力なのは「美濃を追われ、越前の朝倉氏に仕官を求めて極貧の放浪生活をしていた」という説だ。
だが、今の俺は、史実のように食うや食わずで這いずるような浪人生活をするわけではない。
美濃という強大な国家予算を後ろ盾に持ちながら、自らの意思で表舞台から姿を消し、この歴史書に記述がない「空白の十数年間」を、天下を裏から支配するための『最強の準備・視察期間』として最大限に利用するつもりだった。
「越前と、堺だと? 一体そこで何をする気だ?」
道三が、興味深そうに身を乗り出す。
「まず、越前の朝倉家です。彼らは北陸で強大な勢力を誇る名門。いずれ遠からず、京の都で政変が起き、室町幕府の将軍家(足利義昭)が追放され、越前へと逃れてくることになります。将軍という存在は、天下に号令をかけるための『最強の神輿』としては絶対に必要なカードです。私は、朝倉家がその神輿を担いで天下を動かすに足る器かどうか、その内情を直接私の目で見極めておきたいのです」
もし朝倉家が史実通りの「決断力のない泥舟」であれば、さっさと見限って次へ向かう。俺の貴重な時間を無駄にするつもりはなかった。
「そして、もう一つが『堺』です。日の本の経済の心臓部。私は、すでに灰吹法の件で繋がりのある豪商『今井宗久』らと直接手を結びます。彼らを私の資本下に置き、鉄砲の流通ルートと、全国の金の流れ(為替)を完全に掌握する。……天下布武という果てしない戦争には、日本中の金と物資を吸い上げる巨大なシステムが必要不可欠だからです」
俺の壮大すぎて常軌を逸した野望の全貌を悟り、道三は呆れたように、そして心の底から頼もしそうに大きなため息をついた。
「……ふはっ、お前という男は。この美濃の国主であるわしですら、お前が裏で描いている巨大な絵図面の、ほんの一部に過ぎんというわけか」
道三は、立ち上がって自身の千両箱を開け、俺の前に凄まじい量の黄金の束をドンッと置いた。
「よかろう、十兵衛! 好きに使え。そして外の世界を見て、さらに化けてこい! その代わり、必ずこのマムシに、誰も見たことのない極上の天下の景色を見せてみせよ!」
「ええ。ご期待ください、道三(義父)様」
俺は道三に深く、恭しく一礼した。
そして数日後。旅立ちの朝。
俺は明智の屋敷で、愛する妻・熙子と向かい合っていた。
「十兵衛様……。どうしても、行かなければならないのですね」
熙子は寂しそうに目を伏せた。
戦国時代の常識からすれば、武将が諸国を巡る旅や戦に出る際、妻は婚家でおとなしく留守を守るのが当たり前だ。長旅は危険であり、女は足手まといになると考えられているからだ。
彼女もまた、自分が美濃に残り、俺の無事を神仏に祈りながら何年も待ち続けるしかないのだと、そう覚悟を決めているようだった。
「どうか、お怪我だけはなさいませぬよう……私、美濃でずっと、十兵衛様のお帰りを――」
「何を言っているんだ?」
俺は、彼女の言葉を遮り、その柔らかな両手を俺の大きな手でしっかりと包み込んだ。
そして、きょとんとする彼女の目を真っ直ぐに見据え、当然のことのように告げた。
「お前も一緒に来るんだぞ、熙子。急いで支度をしなさい」
「え……? わたしが、ですか?」
熙子は信じられないものを見るように目を瞬かせた。
「で、でも……女の身で長旅など、十兵衛様の足手まといになってしまいます! ましてや、他国へ出向くような重要なお役目なのに……」
「足手まといになんてなるものか。俺の知識と力は、すべてお前を守るためにあるんだからな」
俺は彼女の手を優しく、だが絶対に離さないという強さで握りしめた。
「俺は、何年もお前と離れ離れになるなんて絶対に御免だ。俺がこの戦国時代で天下の裏側を支配するなら、その一番の特等席には、常に俺の妻であるお前が座っていなければ意味がないんだよ」
過保護、あるいは狂気的なまでの愛情の独占欲。
だが、熙子はその俺のまっすぐな我儘を聞いて、ポロポロと嬉し涙をこぼし始めた。
「それに、勘違いするなよ。今回の旅は、みすぼらしい兵法者の浪人旅なんかじゃないからな」
俺は不敵に笑って、屋敷の外を指差した。
そこには、俺が自ら厳選した十数名の『少数精鋭』の護衛たちと、一台の駕籠が控えていた。
「大名行列のように大仰な数のお供を連れて歩けば、かえって野盗や他国の間者に『金持ちが通ります』と宣伝しているようなものだ。だから、お供はあえて必要最低限の人数に絞った。だが、その一人一人が俺の古武術のデータで鍛え上げた一騎当千の精鋭であり、いざとなれば短筒も使いこなす恐るべき護衛部隊だ」
俺は、その一台の駕籠の扉を開けてみせた。
「そして、お前が乗るこの特注の駕籠だ。……外見こそ目立たないように質素な木造りにしているが、中は違うぞ」
それは、俺の現代知識を注ぎ込んだ、言わば戦国時代の『ステルス・キャンピングカー』だった。
外観は普通の乗り物だが、内部には南蛮の馬車から着想を得た「板バネ(サスペンション機構)」が密かに仕込まれており、道中の激しい振動を完全に吸収する。さらに、内側には最高級の絹が張り巡らされ、水鳥の羽毛を詰めた柔らかいクッションが敷き詰められていた。
どれだけ悪路を走ろうとも、長旅の疲労を一切感じさせない、走る高級宿屋である。
史実において、明智光秀と熙子の越前への旅は、明智家没落による「極貧の逃避行」だった。
その日の飯にも困り、ついに熙子が自らの美しい黒髪を切り落として売り払い、連歌会の資金を工面するという、血を吐くような地獄の放浪生活。
だが、俺がそんな史実をなぞるはずがない。
今回の旅は、美濃の莫大な国家予算を背後に持ち、俺のチート知識で徹底的にリスクを排除した、日本最高峰の安全と贅沢を極めた『視察旅行(新婚旅行)』なのだ。
「お前に黒髪を売らせるような真似は、天地がひっくり返っても絶対にさせない。安全で快適な旅路で美味しいものを食べ、美しい景色を見て、日の本の広さを共に知ろう。そして、俺がお前のためにどんな巨大な世界を作り上げるのか、その目で見届けてくれ」
「はい……っ! どこまでも、十兵衛様についてまいります!」
熙子は涙を拭い、満面の、太陽のように輝く笑顔で俺の胸に飛び込んできた。俺は彼女の華奢な体をしっかりと抱きとめ、その温もりを胸に刻み込んだ。
俺は熙子を特注の乗物に乗せ、自らも愛馬に跨り、美濃の国境を越えた。
俺の脳内にある『絶対記憶』という無限の知識と、懐で唸りを上げる莫大な工作資金。そして、隣で微笑む最愛の妻の存在。
それらを武器に、チート知識を持った歴史オタク・明智十兵衛光秀の、戦国日本を裏から完全に支配するための壮大な旅が、いよいよ本格的に幕を開けたのだった。
三日天下の敗北者? 笑わせるな。
俺が掴み取るのは、愛する妻と共に歩む、永遠の覇権だ。
(第1章:幼年・美濃編 完 ―― 第2章:青年・雌伏編へ続く)
これにて第1章「幼年・美濃編」が完結となります。
次回からはいよいよ 第2章「青年・雌伏編」がスタート!
舞台は越前・堺へと移り、「足利義昭のプロデュース」や、のちのライバル木下藤吉郎(秀吉)との初遭遇(冷や汗・ざまぁ展開)が待っています。お楽しみに!
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