第22話:血を流さない戦い(現代金融の罠)(改稿版)
義龍たちが薄暗い密室で、古い武士の常識に則った愚かな謀議に花を咲かせていた、まさに同じ頃。
俺は稲葉山城の中でも最も陽当たりが良く、美しい枯山水の庭園を見渡せる見晴らしの良い奥座敷で、美濃の国主・斎藤道三と二人きりで、極めて優雅に茶を飲んでいた。
春のうららかな陽射しが縁側を照らし、庭の鹿威し(ししおどし)が、コォンと心地よい乾いた音を響かせている。
「……というわけで。義龍様がごく親しい者たちを集め、謀反の準備を本格的に進めております。標的は私への暗殺と、道三様の強制的な隠居(追放)にございます」
俺が上質な抹茶の入った茶碗を音を立てずに置き、まるで「今日の夕方は雨が降るそうですよ」と天気を告げるかのような、極めて淡々とした口調で報告すると。
道三は、手に持っていた茶碗を口に運ぶ動作をピタリと止めた。
以前の彼――俺と出会う前の、情を持たず、裏切りには血で報いる冷酷無比なマムシであれば。
「愚息め。ならば奴らが牙を剥く前に、寝首を掻いて一族もろとも皆殺しにしてくれるわ!」と激高し、即座に自慢の軍勢を動かして城内に血の雨を降らせていただろう。
だが、今の道三は違った。
彼は茶碗をゆっくりと畳の上に置き、俺の顔をチラリと見て、どこか面白そうに、そして底意地の悪い笑みを浮かべて口角を吊り上げたのだ。
「馬鹿息子めが。ついに我慢しきれず、このわしに牙を剥いたか。……で? 十兵衛」
道三は、蛇のような目で俺を見据えた。
「お主のことだ。わざわざこうして、事が起きる前にわしへ報告に来たということは……この謀反の状況を利用して、すでに『恐ろしい手』は打ってあるのだろうな?」
「もちろんでございます。道三様のお手を煩わせるまでもありません」
俺は懐から、分厚く重い和紙の束――何冊もの帳簿を取り出し、道三の前の畳にドサリと置いた。
「なんだ、これは。数字ばかりが並んでおるが……」
「私が導入した『複式簿記』という、南蛮の商人たちが使う計算術を用いて作成した、美濃の裏帳簿です」
当時の日本の帳簿といえば、「いくら入って、いくら出た」という単式簿記(お小遣い帳レベル)のどんぶり勘定が当たり前だった。
だが、この複式簿記は違う。一つの取引を「原因」と「結果」の二つの側面から記録し、「借方」と「貸方」という概念を用いて、資産、負債、純資産、収益、費用のすべてを1円(一文)の狂いもなく可視化する。
金銭の出入りだけでなく、誰が、誰に、どれだけの「貸し」と「借り」を作っているかが、冷徹な数字の羅列によって一目で把握できる『悪魔の書』だ。
「義龍様は現在、美濃の軍事力の要である『西美濃三人衆(稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全)』を味方につけようとして、熱心に密使を送っています。彼らが動けば、美濃の軍勢は二分され、凄惨な大戦になりかねません」
「うむ。奴らは武骨な国衆だ。義龍が『新しい国作り』などと耳障りの良い甘言を吐けば、古い武士の誇りに付け込まれ、乗るやもしれんぞ」
道三が眉をひそめるが、俺は涼しい顔で首を振った。
「無駄です。彼らは絶対に、義龍様にはつきません。……いえ、心情としては付きたくても、『物理的』に付くことができない状態にしてあります」
「ほう。なぜそこまで言い切れる?」
「過去三年間。私は石見銀山で得た莫大な裏金を使って、三人衆が長年の戦費や見栄で抱え込んでいた『天文学的な借金』を、堺や京の商人を経由して密かに、すべて『肩代わり(債権買収)』してやりました」
俺は帳簿のページを開き、三人衆の名前が書かれた『貸方(負債)』の欄を指でトントンと叩いた。
「帳簿のこの数字をご覧ください。彼らは今、各々が数万貫というとんでもない額の借金を抱えています。彼らの借用書の束は、すでに巡り巡って、すべて私の手元にあります。……つまり、彼らの家名と命運は、実質的に最大の債権者である私が、完全に首根っこを握り潰せる状態なのです」
道三が帳簿をパラパラとめくり、その精緻な数字の羅列と、三人衆の「絶望的な負債額の真実」を知り、驚愕に目を丸くした。
武芸に秀でて誇り高いあの三人衆が、実は首が回らないほどの多重債務者であり、その生殺与奪の権を目の前の若造が握っているという事実に。
「さらに、それだけではありません。首輪はもう一つ用意してあります」
俺は言葉を重ねる。
「彼らの領内で毎年のように頻発し、農地を荒らしていた長良川水系の氾濫。これを防ぐための大規模な堤防工事や治水工事にも、私は『匿名の大商人』を装い、無償で莫大な資金援助と、南蛮の建築技術を提供し続けています。おまけに、彼らの領地の農民が使う農具や肥料の流通経路まで、私が裏で支援して安く卸しているのです」
「……インフラの依存、というやつか」
道三が、以前俺が教えた現代の言葉を呟く。
「その通りです。つまり、三人衆は今、我々に逆らって義龍様につけば……私から『借金の一括返済』を即座に迫られて一瞬で財政破綻します。さらに、治水工事の資金援助は打ち切られ、肥料や農具の流通もストップする。彼らの領地は数ヶ月でインフラが崩壊し、飢えた農民たちが一斉に蜂起して、他国と戦う前に自滅するでしょう」
武力による脅しや、妻子を人質に取るといった、戦国時代の古いやり方ではない。
完全なる『経済的支配(与信管理とサプライチェーンの掌握)』である。
現代の悪徳金融や、巨大企業が下請けを完全にコントロールし、逆らえば一瞬で倒産させるという容赦のない手法を、俺はこの戦国時代に持ち込んだのだ。
刃を向けるどころか、相手が「こちらに逆らうという選択肢すら選べない」状況を、金と数字の力で完璧に作り上げているのである。
「三人衆には、すでに私の息がかかった商人を通じて、『義龍様からの誘いには、乗ったフリをして泳がせておけ』と通達してあります。彼らは今頃、冷や汗を滝のように流しながら、義龍様に忠誠を誓う嘘の血判状を書いていることでしょう」
俺が扇子をパチンと広げ、悪びれる様子もなく真実を告げると、道三は帳簿を持つ手をワナワナと震わせた。
「義龍様は、自分の味方(軍事力)が増えたと錯覚し、裸の王様として踊らされているだけなのです。彼がどれだけ武芸を磨き、立派な槍を振り回そうとも……我々の張った『黄金と数字の蜘蛛の巣』の中では、羽虫一匹ほどの脅威にもなりません」
静寂が、奥座敷を重く、息苦しいほどに包み込んだ。
道三は、呆然とした顔で俺の顔と、恐るべき事実が記された帳簿を交互に見つめ……やがて、ゾッとするような恐怖と、それを遥かに上回る狂気じみた歓喜をこらえるように、低く笑い始めた。
「くっ……ふふふ……はははは!!」
道三の目には、確かな「畏怖」が浮かんでいた。
刃を一度も交えず、槍の穂先すら向けず、一滴の血も流さずに、己の主君の嫡男であり屈強な武将である男の謀反を、戦う前に完全に無力化してのけたのだ。
謀略の限りを尽くして美濃を奪い取った戦国の怪物・マムシですら、俺の未来の知識と、資本主義の暴力とも言える経済支配の前に、完全に戦慄していたのである。
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