第14話:豪雨の山中、マムシの窮地(改稿版)
俺が単騎で飛び出してから、二日後の夕刻。
鬱蒼と木々が茂る美濃北部の険しい山道は、俺の脳内図書館が導き出した気象データの通り、急激な天候の悪化に見舞われていた。
最初は、ポツリ、ポツリと冷たい雨粒が頬を打つ程度だった。
だが、山間部特有の冷たい上昇気流が積乱雲を急激に発達させ、空はわずか数分のうちに、真夜中のように分厚くどす黒い雲に覆い尽くされた。
そして次の瞬間、バケツをひっくり返したような――いや、滝の真下に放り込まれたかのような、暴力的で凶暴な豪雨が山全体を白く霞ませたのだ。
「申し上げます! 前方の橋が、急な増水で完全に押し流されております! 渡ることは不可能です!」
「なんだと!? ええい、ならば引き返せ! 一旦山を降りて、遠回りになろうとも迂回路を探すのだ!」
視界も定まらない豪雨と、耳をつんざくような雨音の中。
山道を進んでいた十数名の一行は、突然の自然の猛威によって完全に足を止められ、混乱に陥っていた。
一行の中心にいるのは、筋骨隆々とした体躯に、上等な合羽を羽織った初老の男。
その双眸は、獲物を狙う蛇のように鋭く冷酷な光を放っている。美濃国を実力で掠め取り、国主にまで登り詰めた戦国の怪物――『マムシ』こと、斎藤道三である。
彼は現在、領内の不満分子や国衆の動向を直接探るという名目で、あえて派手な行列を避け、ごく少数の精鋭の護衛だけを連れて隠密行動をとっていた。
普段であれば、その神出鬼没で迅速な動きは敵の裏をかき、情報の漏洩を防ぐ彼の十八番の戦術だった。だが、今日ばかりは、その「少数精鋭の隠密行動」という選択が、最悪の形で裏目に出たのだ。
ドドドドドッ!!
後方の斜面から、地鳴りのような轟音が響いた。
豪雨によって地盤が緩み、巨大な岩と泥を巻き込んだ土砂崩れが山道を飲み込み、彼らの退路を完全に塞いでしまったのだ。
「チッ……忌々しい雨め」
馬上の道三が、笠の隙間から鬱陶しそうに舌打ちをし、灰色の空を睨みつけた。
その顔には、歴戦の武将らしい油断のなさと共に、わずかな焦りの色が浮かんでいる。長年、権謀術数で人の心を操り、騙し討ちで幾多の敵を葬ってきた怪物であっても、天候という絶対的な物理的暴力の前では、為す術がないことを悟ったからだ。
前方は橋が落ちた激流の川。後方は土砂崩れ。左右は切り立った崖と、深い茂み。
完全に袋のネズミである。
「――ふははははっ! 天の怒りだ! 運の尽きたか、悪逆非道のマムシめ!!」
凄まじい雨音と濁流の轟音を切り裂いて、斜面の上部の茂みから、殺意に満ちた野太い声が響き渡った。
次の瞬間、蓑を被り、野盗のように目を血走らせた数十人の男たちが、次々と姿を現した。
かつて道三によって国を追われ、一族を殺された旧主・土岐氏の残党たちである。
彼らは道三が少人数でこの秘密の山道を通るという情報を、何らかの手段で掴んでいたのだ。そして何日も前からこの山中に潜伏し、道三の首を獲る機会を執念で待ち伏せしていた。
そこに、この奇跡のような豪雨が降り、道三の退路を断った。彼らにとって、これ以上の好機はない。
「おのれ、土岐の残党どもが……! 御屋形様をお守りしろ!」
道三の護衛たちが慌てて刀を抜き、主君の前に立ち塞がる。
だが、数は圧倒的に不利(十対三十)である上、状況は最悪だった。
足場は大量の雨を含んでドロドロの泥濘と化しており、草鞋が滑ってまともに踏み込むことすらできない。さらに、雨水をたっぷりと吸った衣服や具足は鉛のように重く、彼らの体力を急速に奪っていた。
「者ども、構わん! 今日この場所で、あの忌まわしきマムシの首を獲り、我が主君の無念を晴らせ!!」
「うおおおおおっ!!」
残党の頭目が太刀を振り上げると、数十人の男たちが狂ったような雄叫びを上げ、泥を跳ね飛ばしながら一斉に斜面を駆け下りてきた。
刃と刃がぶつかり合う鈍い音、肉を裂く音、そして断末魔の悲鳴が、豪雨の中に入り混じる。
「ぐあっ!」
「うおっ……足が滑っ――!」
悪路に足を取られた護衛たちが、次々と数の暴力に押し潰され、泥の中に倒れ伏していく。
自慢の精鋭たちが死んでいくのを見下ろしながら、道三は馬上から降り、自らの死期を悟ったかのように表情をスッと消した。
(わしの野望も、ここまでか。……だが、ただでは死なん。一人でも多く道連れにしてくれるわ!)
道三は腰の大太刀に手をかけ、鯉口を切り、血みどろの乱戦を覚悟した。
彼自身もまた、腕の立つ武将である。泥にまみれ、血に染まりながら、最後の悪あがきをしてやろうと太刀を引き抜こうとした――まさにその時だった。
「――お下がりください、道三様。貴方様の御手が汚れますゆえ」
ざあざあと降りしきる、耳を塞ぎたくなるような豪雨の中。
血と泥にまみれた乱戦の山道の只中に、静かな、しかし雨音や怒号に一切かき消されることのない、異様に通る声が響いた。
その声には、一切の殺気がない。焦りもない。
まるで、暖かい自室で茶でも飲んでいるかのような、極めて平坦で、絶対的な余裕に満ちた声だった。
ピタリ、と。
道三と残党たちの動きが、そして視線が、まるで強力な磁石に吸い寄せられるように、声のする方へと集まった。
そこには、周囲の血生臭く泥臭い光景から、完全に切り離されたような『奇妙な空間』があった。
激しい雨粒を弾き飛ばす、黒漆塗りの和傘。
それを悠然と片手で差して立っているのは、上等な武具に身を包んだ、まだ十代半ばほどの若い武士だった。
彼はドロドロの泥濘の只中に立ちながらも、その着物の裾には、泥の跳ね返りがただの一滴も付着していない。
周囲の男たちが泥まみれになって獣のように殺し合っている中で、彼だけが、まるで重力や物理法則から完全に逸脱した、別の次元の生き物であるかのような『異常な静謐さ』を放っていた。
「何者だ、貴様は! 邪魔立てするなら容赦せんぞ!!」
突如として現れた異物に、残党の頭目が血走った目で怒鳴りつける。
だが、その若者は――俺は、黒い番傘を少しだけ持ち上げ、笠の下から道三の方を振り返って、余裕たっぷりに薄く、不敵に微笑んでみせた。
「通りすがりの、ただの明智十兵衛でございます」
歴史オタクの青年が、そのチート頭脳を使って自ら緻密に計算し尽くし、最高のタイミングで組み上げた「マムシ攻略」の舞台。
歴史の歯車が、この瞬間、凄まじい音を立てて回り始めた。
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