第4話:石田三成の異常な暗算。南蛮の不当な関税を複式簿記で論破する
マカオ総督府、豪奢な調度品で飾られた応接室。
先ほどの装甲蒸気船による規格外の艦砲射撃の余韻で、マカオ総督ドミンゴ・デ・メロの耳の奥には、まだキーンという耳鳴りが残っていた。
武力では、あの極東から来た悪魔のような軍団に絶対に勝てない。
その現実は、あの天を焦がした爆炎が冷酷に証明している。
(だが……ここは私の土俵だ。商いと数字の席において、大航海時代を生き抜くポルトガル商人を出し抜ける者など、この世界には存在しない!)
ドミンゴは、応接室の長机越しに座る小柄な男――羽柴秀吉と、その後ろに立つ若き官僚――石田三成を鋭く睨みつけた。
暴力では屈したが、ドミンゴは決して無能な男ではない。むしろ、明国という巨大な帝国と本国ポルトガルとの間に立ち、莫大な利権と富のバランスを複雑な計算で取り仕切ってきた、極めて優秀な経済人である。
彼らは「水と食料、そして船の燃料(石炭)の補給」を求めてきた。
ならば、ここで法外な為替レートと複雑怪奇な関税システムを押し付け、合法的に彼らの資金を枯渇させてやればいいのだ。言葉も単位も違う野蛮な極東の猿どもに、南蛮の高度な経済のからくりなど見抜けるはずがない。
「いいだろう。貴官らの要求である物資の補給は許可する」
ドミンゴは通訳を介し、わざとらしく胸を張って告げた。
「ただし、決済はポルトガルの法定通貨である『クルザード金貨』か、あるいは『スペイン・レアル銀貨』のみとする。貴国が持ち込んだ日本の『丁銀』での支払いを希望するなら、我々の定める交換比率と、明朝の定めるマカオ港独自の『特別入港関税』、さらには単位換算の手数料として三割を上乗せしていただく。当然の処置だな?」
ドミンゴは部下に指示し、机の上に分厚い帳簿と、真鍮製の複雑な天秤ばかりを置かせた。
日本の丁銀は重量や銀の含有量が一定ではない。それをヨーロッパの通貨単位に換算し、さらに明国の『両』という単位を噛ませることで計算を意図的に複雑化させ、ドミンゴに圧倒的に有利な「隠れ利ざや」を生み出す。これが彼が長年用いてきた、誰も見破れない完璧な錬金術であった。
「……ほう。随分と複雑な計算になるようじゃのう。三成、わかるか?」
秀吉が面白そうに後ろを振り返ると、石田三成は一切の感情を交えない冷徹な顔で、静かに進み出た。
「お任せを、殿。……通訳殿、彼らの提示する交換比率と、物資の単価をすべて読み上げなさい」
通訳が、ドミンゴの用意した帳簿の数字を読み上げる。
「ええと……水一樽につき〇・五クルザード。石炭一トンにつき三レアル銀貨。日本の丁銀との交換レートは、丁銀の銀含有量を六割と仮定し、一両=一・五レアルとして計算、さらにそこから関税三割と両替手数料が……」
複数の通貨、含有量の仮定、単位の違い、そして不規則に重なる手数料。
通訳の言葉を聞いているだけで、後ろに控えていた黒田官兵衛は「あかん、頭が痛くなってきた……胃にもくる……」と顔をしかめた。清正や正則に至っては、すでに目を回して口半開きになっている。
「ふん。理解できないなら、大人しくこちらの言い値で払うことだ」
ドミンゴが口元に嘲笑を浮かべた、その時である。
「なるほど。総額で日本円にして約五百貫、丁銀の重量にしておよそ千七百匁といったところですか」
三成の口から、淀みなく、そして一瞬のタイムラグもなく答えが弾き出された。
彼は手に持った算盤を弾いてすらいない。ただ空中で視線を少し動かしただけで、瞬時に三つの国の通貨を換算し、複雑な手数料を掛け合わせた答えを導き出したのだ。
「なっ……!?」
ドミンゴは目を見開いた。手元の帳簿に書かれた最終的な請求額と、今この若造が口にした額の価値が、見事に一致していたからだ。
「しかし総督殿」
三成は冷たく目を細め、分厚い帳簿をドミンゴの目の前にドンッと置いた。
「明智殿より授かりし未来の絶対知識……『複式簿記』の観点から言わせていただければ、貴殿の提示した数字は『矛盾』と『不正』のオンパレードです」
「ふ、ふくしき……なに?」
「借方と貸方です」
三成は懐から一本の墨筆を取り出し、ドミンゴの目の前にある白紙の羊皮紙に、流麗なアラビア数字で次々と数式を書き込み始めた。
「まず、日本の丁銀の銀含有量を六割と仮定したのは意図的な過小評価ですね。我々が持ち込んだ丁銀の灰吹法による純度は八割を超えています。さらに、貴殿が提示した一両=一・五レアルという金銀比価。これは、ヨーロッパ本国における金銀の交換レートと、この極東におけるレートの『差異』を悪用した裁定取引です」
「あ、あーびとら……!?」
ドミンゴの顔から血の気が引いた。通訳が懸命に言葉を変換するが、ドミンゴは通訳の言葉以上に、目の前の紙に書き出されていく『完璧な数式』に恐怖していた。
「極東では銀の価値が高く、ヨーロッパでは銀の価値が低い。貴殿はその為替の差異を利用し、我々から巻き上げた銀を明国の金に替え、それを本国に送ることで二重、三重の利ざやを抜こうとしている。違いますか?」
三成の指先は止まらない。
彼が書き記していくのは、当時のヨーロッパでも最先端のイタリア商人たちしか扱えなかった複式簿記の概念であり、それを明智光秀という未来人の知識によって極限まで洗練させた、究極の経済学であった。
「さらに不可解なのは、この『特別入港関税三割』の使途です」
三成は冷酷な目でドミンゴを射抜いた。
「明国の法に基づくなら、マカオでの徴税は広東の地方官に納められるはず。しかし、貴殿が提示した物資の単価には、すでに本国ポルトガルへの上納分と明国へのみかじめ料が『原価』として組み込まれている。つまり、この追加の関税三割は、国に納められるものではなく……総督殿、貴殿個人の『裏帳簿』に入ることになりますね?」
「――ッ!!!」
ドミンゴは椅子から転げ落ちそうになった。
心臓が早鐘のように打ち、背中を大量の冷や汗が流れ落ちる。
(ば、馬鹿な……! あり得ない!!)
ドミンゴは優秀な商人である。だからこそ、今目の前で起きている現実がどれほど「異常」であるかを、誰よりも正確に理解してしまった。
自分が本国ポルトガルの王宮すら欺き、明国の役人にも悟られぬよう、数年がかりで緻密に組み上げた複雑怪奇な『不正の錬金術』。それを、今初めてこの港にやってきたばかりの極東の若造が、一切の計算機も使わず、頭の中の暗算だけで一瞬にして解体し、暴き出してしまったのだ。
「こいつは……人間ではない……計算機の悪魔だ……!!」
ドミンゴはガタガタと震えながら、三成の書いた羊皮紙を見つめた。
そこには、自分すら理解しきれていなかった自らの裏金の流れが、借方と貸方に美しく二分され、一銭の狂いもなく明確に「可視化」されていた。
「これぞ、明智殿が創り上げた絶対の真理。数字は決して嘘をつきません」
三成は筆を置き、眼鏡の奥をギラリと光らせた。
「総督殿。不当な関税の撤回、ならびに適正な銀含有量での取引を要求します。もしこれを拒否し、この裏帳簿の存在を本国ポルトガル、あるいは明朝の役人に通報されたくなければ……おわかりですね?」
数字という名の、逃げ場のない完璧な刃。
大航海時代の荒波を泳ぎ切ってきた誇り高きポルトガル総督は、武力で完全に心を折られた上に、自らが最も得意とする経済の領域においてすら、この極東の怪物たちとは『次元が違う』という残酷な事実を叩きつけられたのである。
「わ、わかった……降参だ……君たちの言う通りの適正価格で、水も石炭もすべて用意しよう……」
ドミンゴは両手をつき、完全に白旗を揚げた。その目には、先ほどまでの傲慢さは微塵もなく、ただ圧倒的な知能の差に対する深い絶望と畏怖だけが宿っていた。
「……おい佐吉。お前、いつの間にあんな複雑な計算を……?」
後ろで見ていた官兵衛が、引き攣った顔で胃のあたりをさすりながら尋ねた。
「すべては明智殿から叩き込まれた知識の通りです」
三成は当然のように平然と答えた。
「あのお方の脳内には、世界中のあらゆる通貨、過去から未来に至る経済の仕組みが、すべて詰まっておいでです。私がしているのは、その知識の引き出しから適切な数式を選び出し、頭の中で当てはめているだけに過ぎません。明智殿の知略に比べれば、この南蛮人の裏帳簿など、子供の落書きにも劣ります」
(明智光秀……)
ドミンゴは通訳を通してその名前を聞き、全身に鳥肌が立つのを感じた。
目の前にいる砲艦を操る魔王のような小男(秀吉)も、計算機の悪魔(三成)も、極東にいる「アケチ」という男の掌の上で踊る駒に過ぎないというのか。
日本という国には、一体どれほどの化け物が潜んでいるというのだ。
「ガハハハハ! よくやったぞ佐吉! これでわしらも安泰じゃわい!」
秀吉が立ち上がり、腹を抱えて大笑いした。
そして、絶望してへたり込んでいるドミンゴの元へ歩み寄り、その肩をポンと優しく叩いた。
「まあそう気を落とすな、総督殿。わしらは別に、あんたの裏金を本国に告発しに来たわけではない。適正な価格で商いをしてくれるのなら、あんたの懐事情には目を瞑ってやるわい」
「ほ、本当か……?」
ドミンゴがすがるような目を向けると、秀吉は人懐っこい、しかし決して逆らえない魔王の笑みを浮かべた。
「当然じゃ。その代わり……これからわしらがこの海で大暴れするにあたって、マカオの港を『我が遠征軍の専属の補給基地』として使わせてもらうぞ。弾薬の手配から、明国への口利きまで、あんたにはたっぷり働いてもらうからな。わしらと手を組めば、あんたの懐もさらに温かくなること間違いなしじゃ!」
圧倒的な武力で脅し、経済で急所を握り、最後は甘い利益の蜜を吸わせて共犯者に仕立て上げる。
これぞ、人たらしの天才・羽柴秀吉の真骨頂であった。
ドミンゴは、目の前の小柄な男が放つ異常なカリスマ性に完全に飲み込まれ、もはや頷くことしかできなかった。
「あ、ああ……喜んで、協力させてもらおう……」
「よし、交渉成立じゃ!」
秀吉は満面の笑みでドミンゴの手を握りしめた。
「やれやれ……殿の悪辣な人たらしと、佐吉の容赦のない数字責め。相手が不憫になってくるわ。これでは私の胃薬がいくらあっても足りん……」
官兵衛が深々とため息をつきながら、再び太田胃散を口に流し込む。
かくして、極東のバグ軍団は、大航海時代のアジアにおける最重要拠点・マカオを、たった半日で無血のまま手中に収めてしまったのである。
彼らの視線はすでに、次なる標的――天竺と、その先に待つ白人列強の海へと向けられていた。
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