第2話:【ねねの船内日誌①】荒くれ者たちと、初めての船酔い
『天正十年、六月某日。天気、快晴。
大坂の港を出立してから、はや五日が経過した。
見渡す限りの青い海。陸地の影はとうの昔に見えなくなり、この巨大な黒鉄の船は、絶え間なく波をかき分けて西へと進み続けている。
明智殿が用意してくださったこの「蒸気船」とやらのおかげで、風がなくても船は進むらしいが、それでも海の上だ。波のうねりに合わせて、船体は昼夜を問わず大きく揺れ続けている。
戦にしか能のない我が夫の家臣どもは、今、見えない敵と壮絶な死闘を繰り広げている……』
私は筆を置き、船室の小さな丸窓から外洋のうねる波を見つめて、深大なるため息をついた。
「うぅぅ……あ、アニキ……もうダメだ……俺の胃袋が、口から飛び出しそうだ……」
「馬鹿野郎、清正……気合いで乗り切れッ……俺たちは、山崎の地獄を生き抜いたんだぞ……うげぇぇっ」
私が日誌をつけている机の後ろ、板張りの床の上では、屈強な大男たちが青白い顔をしてゴロゴロと転がっていた。
加藤清正と福島正則である。
陸の上では、身の丈を越える大身槍を振り回し、鬼神の如き武勇を誇る猛将たちだ。しかし今、彼らはかつてない強敵――『船酔い』の前に、完全に屈服し、情けないうめき声を上げている。
「あんたたち、陸の上じゃあんなに威勢が良かったのに、本当に情けないねぇ!」
私は呆れながら立ち上がり、船室の隅に用意しておいた薬缶から、温かい白湯を木椀に注いだ。
「ほら、起きなさい。冷たい水をがぶ飲みするから胃が暴れるのさ。明智殿からいただいた『航海衛生手引書』にも、腹を冷やすなと口酸っぱく書いてあっただろうが」
「あ、姐さん……すまねえ……」
清正が涙目で木椀を受け取り、ズズッと白湯をすする。正則も這うようにして近づき、私の手から白湯を受け取った。
彼らは幼い頃から私が我が子のように世話をしてきた、可愛い身内のようなものだ。どんなに体が大きくなり、武功を立てようとも、私にとってはいつまでたっても手のかかる悪ガキに過ぎない。
「全く、戦場では一番槍だと息巻くくせに、波の揺れ一つでこのザマかい。明智殿が見たら、鼻で笑われるよ」
「うぅ……だって姐さん、地面がずっとグラグラしてるんスよ……踏ん張りが利かねえ……」
「そうさ、これは敵の妖術だ……明智の旦那が、俺たちを弱らせるために仕組んだ罠に違いねえ……」
「馬鹿なことを言ってないで、少しでも生姜湯でも飲んで温まりな。それに、換気も大事だって書いてあったからね。あんたたちみたいなむさい男が密集してたら、空気も淀んで余計に気持ち悪くなるんだよ」
私は彼らの背中を力強くさすりながら、船室の扉を少し開けて、潮風を招き入れた。
今回の海外遠征にあたり、明智光秀殿からは莫大な量の物資とともに、分厚い一冊の冊子が手渡されている。
『航海における兵站と衛生管理の徹底について』と題されたその手引書には、船という密閉空間における病の恐ろしさと、それを防ぐための知識がびっしりと書き込まれていた。
水を飲むときは必ず煮沸消毒をすること。換気を怠らないこと。そして、長旅における壊血病(明智殿はこれを「血の巡りが腐る病」と表現していた)を防ぐために、柑橘類の果汁や梅干しを定期的に摂取すること。
「……それにしても、明智殿というお方は、本当に底知れないね」
私は白湯をすする清正たちの背中を見ながら、独りごちた。
夫である秀吉を徹底的に叩き潰し、絶望の淵に追いやった男。だが、同時にこれほどまでに緻密で、命を慈しむような細やかな指示書を用意する男でもある。
「武力で制圧するのではなく、知識と管理で人を動かす」――夫が勝てなかった理由が、私にも少しだけわかる気がした。
「……あ、姐さん……私にも、その白湯を……いや、生姜湯を一杯……頼む……」
ふと、扉の隙間から幽鬼のような声が聞こえた。
見れば、黒田官兵衛が壁を伝いながら、ふらふらとこちらへ歩いてくるではないか。普段の怜悧な軍師の面影は微塵もなく、その顔は蝋人形のように白く、額には脂汗がびっしりと浮いている。
「ちょっと官兵衛殿! あんたまでどうしたのさ! 自分の船室で休んでいなさいって言ったじゃないか!」
「休んでいられる状況ではないのです……ぐっ、胃が……船の揺れと、殿の無茶振りとで、私の胃はもはや千切れる寸前だ……」
官兵衛は膝から崩れ落ち、腹を抱えてうずくまった。彼は懐から、明智殿のお手製であるという『特製胃薬』を取り出し、震える手で直接口に流し込んでいる。
「明智殿は……私を海の上で謀殺するおつもりだ……こんな鉄の箱に閉じ込められて、見知らぬ海に放り出されて……あぁ、胃が、胃が痛い……っ」
「いい加減にしなさいよ、官兵衛殿。明智殿が本気で殺す気なら、そもそも大坂で生かしておかないさ。ほら、白湯で薬を流し込みな」
私は世話の焼ける軍師の口元に木椀を差し出した。
全く、腕っぷし自慢も頭脳自慢も、海の上に出ればみんなただの弱い人間にすぎない。こうなったら、私が腹を括って全員の面倒を見るしかないだろう。
「……理解に苦しみますね。なぜ貴殿らは、そのように無様な姿を晒しているのですか」
その時、船室の奥から、一切の感情の起伏を感じさせない冷徹な声が響いた。
石田三成である。
彼は分厚い帳簿と算盤を小脇に抱え、揺れる船内をまるで平地を歩くかのような足取りで、スタスタと歩いてきた。その顔色は全く変わっておらず、船酔いの気配すら微塵も感じさせない。
「み、三成……お前、なんで平気なんだよ……ッ」
清正が恨めしそうに睨みつけると、三成は冷たく目を細めた。
「波のうねりには一定の周期があります。船体の傾斜角と波の周期を計算し、三半規管にかかる負荷を相殺するように重心を移動させれば、揺れを感じることはありません。なぜ貴殿らはその程度の計算すら頭のなかで処理できないのですか? 猪のように力任せに踏ん張るから、脳が混乱して嘔吐を催すのです」
「んなこと言われても……頭で波のリズムなんて計算できねえよ……!」
「無能ですね。明智殿が用意してくださったこの強固な船で酔うなど、兵站を管理する私からすれば、ただの資源(水と食料)の無駄遣いです。吐くなら水を飲むなと言いたいところですが、脱水症状で死なれても殿の戦力に穴が開く。せいぜい姐さんの世話になり、早急に三半規管を適応させることです」
三成はそれだけ言い捨てると、再び帳簿に目を落とし、「第三船倉の石炭の燃焼効率が……」と呟きながら去っていった。
「あ、あの野郎……いつか絶対ぶっ飛ばしてやる……」
清正がギリギリと歯を食いしばるが、立ち上がる力もない。官兵衛に至っては、「あの若造の言葉は、私の胃痛をさらに加速させる……」と涙目になっている。
「はいはい、わかったから。今はとにかく休むこと。佐吉の言う通り、吐いてばかりじゃ体が干からびちまうからね」
私は彼らを寝かしつけると、もう一つ盆に温かい生姜湯と、蜂蜜に漬け込んだ梅干しを用意した。
向かう先は、この船の最上階にある船長室だ。
***
コンコン、と扉を叩いて中に入ると、重厚なマホガニー製の机の上で、夫である羽柴秀吉が羊皮紙の世界地図と睨み合っていた。
「殿、入るよ。少しは休んだらどうだい?」
「おお、ねねか。……休んでなどいられるか。明智殿がわしに与えたこの盤面、見れば見るほど途方もなく広大じゃ。わしの野心をすべて注ぎ込んでも、まだ余りあるわい」
秀吉はそう言って豪快に笑ったが、その声はいつもより少しだけ張りがない。
私は机に盆を置き、彼の顔を覗き込んだ。
「無理するんじゃないよ。あんたの顔色も、さっきから少し悪いじゃないか。ほら、強がらずに生姜湯を飲みな。明智殿の言いつけ通り、梅干しも持ってきたよ」
「……お前にはかなわんわい」
秀吉は苦笑いを浮かべ、私の差し出した生姜湯を素直に受け取った。
彼もまた、鉄の船の揺れと見知らぬ外洋の気配に、少なからず疲労を覚えているのだ。しかし、兵たちの手前、そして総司令官という立場上、決して弱音を吐くわけにはいかない。
だからこそ、私という妻の前でだけは、こうして少しだけ肩の力を抜くことができるのだ。
「うむ……温かい。五臓六腑に染み渡るわい」
秀吉は生姜湯をすすり、蜂蜜漬けの梅干しを口に放り込むと、ほうっと長い息を吐いた。
「ねねよ」
「なんだい?」
「わしらは、とんでもないところまで来てしもうたな」
秀吉の言葉には、どこか夢現のような響きがあった。
「尾張の貧しい農村で、泥水をすすって生きていたわしが……織田信長という魔王に見出され、天下の玉座まであと一歩のところまで這い上がり……そして今度は、明智光秀という化け物に敗れ、日本を追い出されて、こんな鉄の船で海の向こうへ向かっておる。まるで、出来の悪い講談でも聞かされておる気分じゃ」
「そうだね。私も、あんたと祝言を挙げた時には、まさか海を渡って異国の王様をどつき回す旅に出るなんて、夢にも思わなかったよ」
私はふふっと笑いながら、秀吉の隣に立ち、彼と同じように世界地図を見下ろした。
天竺、明国、そしてヨーロッパ。
私にはよくわからない異国の名前が並んでいるが、これから私たちが向かう場所であることだけは確かだ。
「恨んでいるかい? あんたの天下を奪い、こんな海の上まであんたを追いやった明智殿のことを」
私が静かに問うと、秀吉は少しだけ目を伏せ、やがてゆっくりと首を振った。
「……否じゃ。不思議なものよ。山崎の泥の中で、あの方に見下ろされていた時は、殺してやりたいほど憎かった。わしのすべてを否定された気がしてな。だが……」
秀吉は、机の上に広げられた地図の「ヨーロッパ」の文字を力強く指差した。
「あのお方は、わしに『お前にしかできん』と言ったのだ。わしの野心は、日本のちっぽけな枠に収まるものではないと。……わしを一番評価し、わしの才能の恐ろしさを一番理解していたのは、信長様でもなく、このわし自身でもなく……明智光秀という男だったのだ」
秀吉の目には、清正たちのような怯えや、官兵衛のような胃痛に苦しむ色はなかった。
そこにあるのは、純粋で、ギラギラとした極上の野心の炎だけだ。
「わしは、明智光秀という男が敷いたレールの上を走らされておるのかもしれん。だがな、ねね。そのレールが世界へと続いているのなら、わしは喜んでその上を爆走してやるわい! 海の向こうでわしを待っておる上様と合流し、この世界地図のすべてをわしの色に染め上げて……いつか、極東でふんぞり返っておるあの化け物に、『どうじゃ!』と最高の自慢話(親書)を送りつけてやるのよ! ガハハハハ!」
その腹の底からの笑い声を聞いて、私は心の底から安心した。
この男は、決して折れてなどいない。むしろ、日本という狭い鳥籠から解き放たれ、本来の姿である『果てしなき野心の怪物』として、完全に羽ばたこうとしているのだ。
「あんたの野心に、地獄の底まで……いや、海の果てまで付き合ってあげるよ」
私は秀吉の背中にそっと手を添え、力強く言った。
「兵站の管理や、怪我人や病人の世話は、私が全部引き受ける。明智殿の残した手引書もあるし、佐吉の小憎らしい計算もあるからね。あんたは後ろを振り返らずに、思う存分、前だけを見て暴れておいで」
「おおっ! 頼むぞ、ねね! お前がいれば、この秀吉は無敵じゃわい!」
秀吉は私の手を強く握り返し、再び世界地図へと向き直った。
***
『……そうして、航海は続いていく。
清正や正則のような荒くれ者たちも、あと数日もすれば波の揺れに慣れるだろう。官兵衛殿の胃痛は治りそうにないが、それもまた彼の宿命だ。
明智殿が用意してくれた完璧な物資と知識、そして佐吉の緻密な計算。これらがあれば、私たちに乗り越えられない海はない。
私は、この荒くれ者たちを束ねる「極東の母」として、彼らが存分に暴れ回れるよう、後方からしっかりと支え続けるつもりだ。
待っていなさい、まだ見ぬ異国の王たちよ。
極東からやってきた、このとんでもない軍団が、あんたたちの世界をひっくり返しに行くからね。』
私は日誌の最後の行に力強くそう書き記すと、筆を置き、船室の扉を大きく開け放った。
吹き込んでくる潮風は、どこまでも青く、そして新しい時代の匂いがした。




