第16話:泥の中の敗者と、戦の概念の崩壊
「あ……ああ……」
秀吉は馬上で、ただ呆然と、焦点の合わない虚ろな目で眼下に広がる惨劇を見つめていた。
つい先ほどまで山崎の平野を容赦なく引き裂いていた、鼓膜を破らんばかりの手回し式機関砲(ガトリング砲)の連続音と、空中で炸裂する榴散弾の轟音は、今やピタリと鳴り止んでいる。
だが、後に残された静寂は、戦闘が終結した安堵をもたらすものでは決してなかった。それは、圧倒的な暴力の前にすべての抵抗がへし折られ、戦場が完全に「沈黙させられた」という、この上なく残酷な死の静けさだった。
先鋒として有刺鉄線に突っ込んだ数百の兵たちは、鉄の棘に絡まりながら無残にも薙ぎ払われ、夥しい血の海に沈んでいる。
しかし、その奥に続く三万の大軍のほとんどは、五体満足なまま生き残っていた。生き残ってはいながらも、もはや一歩たりとも前に進もうとする者はいない。
彼らの心は、天から降り注ぐ回避不能の鉄片と、横凪ぎに薙ぎ払われる見えない銃弾の壁の前に、完全に、そして修復不可能なまでに破壊されていた。
兵士たちは武器を泥の中に放り出し、地に平伏してガタガタと震え、あるいは両手で頭を抱えて子供のように泣きじゃくっている。
それは「敗残兵」と呼ぶことすらおこがましい、ただ恐怖に支配され、処理されるのを待つだけの「無力な肉の群れ」であった。
(これは、戦ではない……)
秀吉の、これまで幾多の死線を潜り抜けて研ぎ澄まされてきた天才的な軍才が、己の完全な無力さを冷酷に告げていた。
戦とは本来、知略と知略のぶつかり合いであり、将の采配、兵の士気、そして大義名分が勝敗を決するものだ。奇襲、伏兵、包囲、分断、そして調略。秀吉はこれまで、自らの頭脳と「人たらし」の才を駆使し、不可能を可能にしてきた。
墨俣の一夜城で常識を覆し、金ヶ崎の退き口で死地に飛び込み、水攻めで敵城を呑み込んだ。己の才覚と泥臭い努力こそが、最下層の農民から天下人へと這い上がるための最強の武器だと信じて疑わなかった。
だが、今目の前で起きたこの数十分の惨劇には、いかなる兵法も通用しない。
自分がどれほど必死に知恵を絞ろうと、どれほど兵を愛して士気を鼓舞しようと、神速の行軍で奇襲をかけようと、すべてがまったくの無意味なのだ。
あの明智光秀という男が未来から持ち込んだ『時代の差』という絶対的な暴力の前では、個人の才能も、熱い忠義も、三万という圧倒的な数の優位すらも、すべてが塵芥に等しい。
武士としての誇りも、己の果てしない天下への野心も、文字通り泥水を啜って積み上げてきた血の滲むような努力も。すべてが機械的な火力によって、ただただ無慈悲に、そして事務的にすり潰されてしまったのだ。
「殿! 危のうございます、今すぐお退きくだされ! これ以上ここに留まれば、本陣ごと全滅いたしますぞ!!」
泥と血にまみれた黒田官兵衛が、必死の形相で秀吉の馬の手綱を引こうとする。己の主君を逃がすためならば、ここで自分が盾となって死ぬ覚悟を決めた、凄まじい気迫だった。
加藤清正や福島正則らも、「我らが殿を務めまする! 殿は早く後方へ!」と武器を構え直して秀吉を庇うように立ち塞がった。
だが、秀吉は動かなかった。いや、動けなかったのだ。
彼は乾いた、空洞のような笑いを一つ漏らし、ゆっくりと首を振った。
「官兵衛……お主ほどの知恵者が、わからぬか」
「殿……っ! 何を仰られますか、早く!」
「見ろ。我らの周囲を。前線の兵たちがあれだけ血の海に沈んだというのに……わしら本陣の者たちの周りには、ただの一発の銃弾も、大筒の弾も飛んできておらんではないか」
秀吉の言葉に、官兵衛たちはハッと周囲を見渡した。
確かに、彼らが布陣している本陣の泥地には、弾痕一つ、焦げ跡一つない。前線との間には、まるで見えない壁が存在しているかのように、被害の境界線がくっきりと引かれていた。
「あやつは、意図してここを狙っておらぬのじゃ。その気になれば、わしら本陣の者など、あの上空から降ってくる雷のような大筒で、一瞬にして木っ端微塵に吹き飛ばせるというのに」
「それは……我らを生け捕りにするためと申すか!?」
「それだけではない。見ろ、我らの背後を。退路となる桂川の対岸には、いつの間にか明智の水色桔梗の旗がビッシリと並んでおる。左右の天王山の獣道すらも、完全に伏兵に塞がれておるわ。……最初から、逃げ道など一つも用意されておらんかったのじゃ」
官兵衛は顔面を蒼白にし、絶望に唇を噛みちぎらんばかりに歪めた。
そうだ。彼らは包囲されたのではない。最初から「巨大な死の檻」の中に自ら飛び込み、鍵をかけられてしまったのだ。
「明智光秀は、わしらの命を奪うことすら、己のさじ加減一つで決めておるのじゃ。我らは生殺与奪を完全に握られ……ただ、生かされているに過ぎん」
生殺与奪を握られるということ。それは、武士にとって死以上の屈辱であった。
華々しく戦って散ることも、一番槍の功名に命を懸けることも、潔く腹を切ることすらも許されない。ただ「お前たちは私の手のひらの上で無力な虫けらなのだ」という事実を、魂の底まで刻み込まれたのだ。
わずか数時間。いや、実際の戦闘時間は一時間にも満たなかったかもしれない。
日の本最強と謳われ、天下を獲るはずだった羽柴軍三万の大軍は、軍としての機能を完全に喪失し、砂上の楼閣のように崩壊した。
抵抗する意志を持つ者はもはや一人もおらず、残された秀吉の本陣は、官兵衛ら数名の側近の武将たちとともに、朝靄の向こうに潜む明智軍の冷たい銃口の森の中に完全に孤立していた。
「……終わった。わしの……わしの天下が……」
ポロポロと、秀吉の大きく見開かれた両目から、大粒の絶望の涙がこぼれ落ちた。
これまで幾度となく明智光秀の「先回り」に手柄を奪われて絶望し、西国の泥沼へ左遷され、それでもなお這い上がろうと狂気のような執念を燃やしてきた。
あの男の裏をかき、出し抜き、いつか自分の足元にひざまずかせてやるのだと。その執念だけが、人間の限界を超えた『中国大返し』を成し遂げさせた原動力だった。
だが。
己の一世一代の神速の行軍すらも、光秀の用意した巨大な舞台装置の上で踊らされただけの茶番劇に過ぎなかった。
自分は歴史の主役などではなく、明智光秀という神のごとき男が描いた脚本の、ただの哀れなピエロだったのだ。
ドサッ……。
秀吉は、まるで糸の切れた操り人形のように、ついに馬の背から力なく崩れ落ちた。
雨上がりの冷たい泥水の中に、深く、深く両膝をつき、両手を地面につく。
顔が泥にまみれ、誇り高き黄金の陣羽織が汚水に沈むが、秀吉はそれを拭おうともしなかった。
「殿……!」
清正が悲痛な声を上げるが、秀吉の耳には届いていなかった。
泥にまみれて項垂れるその背中は、つい数時間前まで天下人の器を誇り、意気揚々と三万の大軍を率いていた男のそれではない。
尾張の貧しい農村に生まれ、日々の飯にも困り、ただ泥にまみれて生きるしかなかった、あの頃の「ただの哀れな小作農・藤吉郎」へと戻ってしまったかのように、ひどく小さく、そして脆く見えた。
戦国という時代が終わった。
己の野心が、夢が、すべてが否定された。
静まり返った山崎の平野に、秀吉のしゃくり泣く声だけが、虚しく、そして惨めに響き渡っていた。
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