第17話:羊皮紙の世界地図と、生かされた理由
ザッ、ザッ、ザッ……。
白く濃い硝煙が重く立ち込め、むせ返るような血と泥の匂い、そして焼け焦げた火薬の匂いが鼻をつく山崎の戦場。
その不気味なほどの静寂の中を、一定の足音がゆっくりと近づいてきた。
軍扇を片手に持った俺(明智光秀)が、美しい水色桔梗の陣羽織を翻し、泥水に塗れた大地を歩み、深く膝をつく秀吉の前に姿を現した。
俺の背後には、最新式の後装式ライフル銃を構え、銃口の先に鋭い銃剣を煌めかせた無数の明智の兵たちが、一切の隙なく秀吉の本陣を完全包囲している。
だが、明智の兵たちは誰一人として引き金に指をかけていないし、勝鬨を上げることもない。すでに戦は完全に終わり、残るは「敗戦処理」と「未来への契約」だけだということを、俺の鍛え上げた軍隊は冷徹に理解しているのだ。
俺は、泥水の中で項垂れる秀吉を見下ろし、静かに口を開いた。
「……見事な行軍だったぞ、秀吉。これほどの短期間で西国の戦線をまとめ上げ、毛利との和睦を成立させ、三万もの軍勢を率いてこの京まで戻ってくるとはな」
俺の声は、山崎の平野によく響いた。
「歴史にその名を永遠に刻むであろう『中国大返し』……さすがは、日の本が誇る稀代の天才だ。俺の用意した防衛線で阻まれはしたが、お前のその凄まじい執念とバイタリティには、心底恐れ入ったよ。俺には絶対に真似できない芸当だ」
それは決して勝者の驕りや、皮肉などではない。俺という未来の歴史を知る人間から見た、豊臣秀吉という傑物に対する心の底からの賞賛であった。
だが、その言葉を受けた秀吉は、泥だらけの顔をゆっくりと上げたが、その目に光はなかった。
焦点が合わないほど虚ろに濁った瞳。そこには、俺への怒りや憎悪、あるいは天下を獲れなかった悔しさすら残っていなかった。あるのは、すべてを諦め、己の完全な敗北という運命を受け入れた者特有の、底知れぬ『虚無』だけだ。
「……笑え。そして殺せ、明智殿」
秀吉は自嘲するように口端を歪め、泥を吐き出すようなかすれた声で絞り出した。
「前線の兵たちがあれだけ無惨に散ったというのに、わしら本陣の武将だけが、ただの一発の弾も浴びずに無傷で残された。……貴方は、最初からわしをここでハメて一網打尽に葬り去り、わしのこの絶望の顔を特等席で拝むつもりだったのだろう。わしが命を削って成し遂げた一世一代の『中国大返し』すらも、貴方様にとっては、手のひらの上で踊らせるための予定調和の茶番であったのじゃな」
秀吉は、泥水の中で崩していた姿勢を正し、静かに正座の姿勢になった。
そして、死を覚悟した武士として、自らの首をすっと前へ差し出した。
「わしは、貴方様の巨大な手のひらの上で、天下が獲れると勘違いして必死に踊らされていただけの、滑稽な猿じゃ。……見事な手並みにござった、明智様。完敗じゃ。さあ、早くその腰の刀で、わしの首を刎ねられよ。それが、せめてもの武士の情けというものじゃろう」
首を垂れる秀吉の隣で、泥にまみれた黒田官兵衛や加藤清正、福島正則らも、もはや一切の抵抗を諦めていた。
天下を獲るという夢の果てがこれか。彼らもまた、主君の運命を共にする覚悟を決め、無念に唇を噛みちぎらんばかりにして固く目を閉じ、静かに白刃が振り下ろされるのを待っている。
反逆者としてここで斬首され、その首は京の六条河原に晒され、一族郎党は根絶やしにされる。それが戦国の、いや、歴史の勝者と敗者の絶対の常識だ。彼らはそのルールに従って生きてきたのだから、受け入れるしかない。
だが――俺は腰の刀に手をかけなかった。
チャキ、という刀を抜く音の代わりに聞こえたのは、ガサゴソと懐を探る衣擦れの音だった。
俺は懐から大切に保管していた、一枚の分厚い「羊皮紙」の束を取り出した。
そして、泥にまみれて目を閉じている秀吉の目の前に、バサリと音を立ててそれを広げて見せたのである。
「……なんだ、これは……?」
首を刎ねられるとばかり思っていた秀吉が、不思議そうに薄く目を開け、地面に広げられた羊皮紙を覗き込む。
「貴様、打ち首の前に、わしに辞世の句でも詠めと申すか……?」
「いや。……『世界地図』だ」
俺が端的に答えると、秀吉と官兵衛が、弾かれたように同時に目を丸くして顔を上げた。
「せ、せかい……ちず……?」
当時の日本において、正確な世界地図などというものは、南蛮の宣教師かごく一部の特権階級しか目にしたことのない、幻のオーバーテクノロジーの品である。
そこに精緻な筆致と極彩色の顔料で描かれていたのは、彼らが知る「日本」という島国が、地球という巨大な球体の上で、いかに小さく、豆粒のようにちっぽけな存在であるかを示す、残酷なほどのスケール感だった。
巨大な『明国(中国)』があり、その先には『天竺』があり、さらに遥か彼方には『ヨーロッパ』という広大な大陸が広がっている。
日本の戦国大名たちが血みどろになって奪い合っている領土など、この地図の上では、針の先ほどの点にも満たないのだ。
俺は、死を覚悟してこわばっている秀吉の肩にポンと手を置き、この日初めて、心の底からの親愛とリスペクトを込めて微笑みかけた。
「前線で犠牲になった兵たちには悪いことをしたが、ああでもして圧倒的な『時代の差』という暴力を見せつけなければ、お前のその鋼のように強固な野心は決して折れなかっただろうからな。……それに、お前たちの命をここで奪う気など、最初からない」
「なんだと……? 殺さぬ、だと?」
秀吉が、信じられないものを見る目で俺を見上げる。その目には、死への恐怖から解放された安堵ではなく、俺の真意が全く読めないことへの底知れぬ戸惑いが渦巻いていた。
「これほどの大軍を率いて、貴方を討とうとしたわしを……生かすと申すか?」
「ああ。お前たちにはまだ、死ぬ前に俺の代わりにやってもらわねばならない『大仕事』があるのだからな」
「大仕事……?」
「そもそも、前提が間違っている」
俺は、秀吉の顔を真っ直ぐに見据え、歴史の真実を口にした。
「お前は『主君の仇討ち』のためにここまで泥水を啜って走ってきたのだろうが……上様(信長)は、死んでいない」
「――っ!?」
秀吉の呼吸が、完全に停止した。
隣で聞いていた官兵衛も、目玉がこぼれ落ちんばかりに見開き、全身を硬直させた。
「本能寺での上様の死は、あの方を外の世界へ逃がすための、俺と上様による『大芝居』だ」
「なっ――――!!? ば、馬鹿な……!!」
俺の口から放たれた言葉に、ついに秀吉が悲鳴のような声を上げた。
「上様の死が、上様ご自身の合意によるものじゃと!? まさか……そんな馬鹿な話があるはずがない! 日の本中が、あれほど震え上がった大事件が……! わしらは、その大芝居のために……!」
官兵衛も言葉を失い、ただただ愕然と口を開閉させている。
天下を揺るがし、日本の歴史の転換点となるはずだったあの大事件が、まさか当人たちの合意による「壮大な茶番劇」だったなどと、どれほど優れた頭脳であろうと想像できようか。
いや、光秀のチート能力と信長の狂気を知っていればこそ、彼らにとっては「あり得る」と納得させられてしまうほどの圧倒的な説得力があった。
「今頃、上様は俺が堺に用意した巨大な南蛮装甲船に乗って、意気揚々と外の世界へ向かっている頃だろうよ」
俺は、呆然とする秀吉たちをよそに、淡々と真実を語り続けた。
「これから俺は、家康殿や、すでに俺の傘下に下った畿内の大名たちと共に、この日本を武力による奪い合いではなく、法と経済で治める国へと一気に『近代化』させる。国内の戦はもう終わりだ。お前たちのような暴力装置が、日本国内で出る幕はもう二度とない」
秀吉は、その言葉の意味を理解しようと必死に脳を回転させていた。
武力による統治の終焉。それはすなわち、武士の存在意義の喪失である。では、生かされた自分たちはどうなるというのか。
「……だが、海を渡った上様を支援するため、国を挙げて大船団を組織する。そのための武力は必要だ」
俺は、秀吉の目の前に広げられた世界地図を扇子でトントンと叩き、彼の魂の底に眠る野心へと直接語りかけるように、言葉を紡いだ。
「秀吉。お前には、この世界地図の海を渡ってもらうぞ」
秀吉の運命が、そして日本の歴史が、ここから全く別の次元へと分岐していく瞬間であった。




