2026年7月10日 目的と行動の関係性について (文章練習)
7月10日
朝の家を出るまでの間、語彙力についての本を読んだ。その時に考えていたことをメモにまとめていたので改めて整理してみようと思う。メモを読み返してみると、本の内容から一歩逸れた内容について考えており、本をトリガーとした内省であるように思う。
読んだ箇所の中で特に考えさせられたのは冒頭箇所の語彙力に繋がるまでの理由の部分であり、簡単にまとめると
「自分で考える習慣はないが納得しなければ動きにくい若者に対して伝え方が大事である」というものである。
今を生きる若者の一人としては共感できるところが多い内容であった。
私も例にもれず考えるのが得意ではなく、かといって理由もなく言われたことを続けられるほど単純でもない。
そもそも私は理由がないと動けないというよりも、理由が曖昧なままだと行動の質が下がるという性質を持っているのだろう。
イソップ寓話の「3人のレンガ職人」の話が分かりやすい例だ。
自分が何をしているのかだけを見ていると行動はただの作業になり、目的が見えれば少しは集中できる。しかし、自分の行動がどんな価値につながって理解できたとき、行動の質は一気に上がる。
私の場合も同じで、目的や意味が見えた瞬間に集中力や継続力が生まれるのだろう。私のランニングが正にそうだ。4月の時点で目的があいまいだったランニングが5月に目的がクリアになりモチベーションや持続力に繋がったのかもしれない。
では、なぜこのような考えることが苦手で、理由を求める性質を強めてしまったのだろうか。
考えるのが得意でないなりに考えると、教育に要因の一部があるのではないかと思う。
少なくとも私が思い返すことのできる学校教育は受動的に教育を受けることに特化しており、本人の考える能力が育ちやすいものではなかったように思う。
また、最初から物事の理由を教えてしまい好奇心や疑問といった考えるための前提を奪ってしまっているような気もする。
そして、納得させるための理由を最初から与えられるのが当たり前となってしまっており、理由を説明されないと動きにくくなっているのかもしれない。
さて、ここまでメモの内容をまとめてきたが、その内容について考えると
環境のせいにしている時点で、責任転嫁をしているような気もするし、同じ近代教育を受けた人の中にも考えることができる人が星の数ほどいることを思えば、教育のせいというのは的を射た考えではないのかもしれない。
結局、なんでこういった性質が強まったのかは謎であるが、それでも理由という要素が行動のクオリティに影響している可能性があることを改めて理解できた今日は良い日であった。
トリガーって言葉がかっこよくて使いたかっただけ。
眠ぃ




