敬愛、のち、渇望
駅の改札前。行き交う人々の中で、美月は何度もスマートフォンの、ある画面を確かめるように見ていた。
トーク画面に残る、一昨日の夜に送った自分からのメッセージ。
『悠真くん、急にごめんね。もしよかったら、今度の土曜日、どこか出かけない?』
あの日、バイト先の裏口で目にした光景。白石ソラの手首を掴み、すがるような、あるいは射抜くような目で彼女を見つめていた悠真。
「どういうこと?」と嫉妬にまみれて問い詰めるような、自分のブランド価値を下げる真似は美月にはできない。でも、見なかったことにしてそのまま流せるほど、心に余裕があるわけでもない。
(私は私で、ベストを尽くす。これまでも、そうやって欲しいものを手に入れてきたように)
画面が明るくなり、悠真から『了解しました』と返信が来た時の安堵感。
一方で、美月は理想の自分――清楚で、理知的で、安心感を与え、信頼されるアナウンサ――が、内側からミシミシと音を立てて軋んでいるのも自覚していた。
(でも、悠真くんは誰にも譲れない)
美しく、賢く、完璧に。私は私のやり方で、彼を繋ぎ止めてみせる。
美月は改めて、強く決意を固めた。
「……美月さん。お待たせしました」
聞き慣れた、けれど今は少しだけ怖く感じる、落ち着いた声。
顔を上げると、そこにはいつも通りの、非の打ち所がない「オンモード」の悠真が立っていた。
「あ、悠真くん。私も今来たところ。……忙しいのに、誘っちゃってごめんね」
美月は周囲の花がいっぺんに咲き出したかのような、完璧な笑顔で悠真を迎えた。
「いいえ。美月さんと二人で、こうして昼間に外で会うのは久しぶりですから。とても楽しみでした」
悠真はそう言って、優しく微笑む。その微笑みすらも、今の美月には白石ソラとの時間を隠すための仮面に見えてしまう。
(……だめ。疑っちゃだめ。彼の恋人は、私)
「ねえ、悠真くん。今日はね、行きたいところがあるの。一緒に来てくれる?」 美月は努めて明るい声を作り、悠真の腕に自分の腕を絡めた。柔らかい胸を押し当てながら、いつもより、ずっと深く。
「……え、ええ。もちろんです」
悠真が、わずかに目を見開きながら答えた。
動揺だろうか。それとも期待だろうか。
オンモードの彼を揺さぶりたい。あの子に向けたような「剥き出しの熱」を、自分にも向けてほしい。
美月が連れてきたのは、百貨店の一角、色鮮やかな水着が並ぶフロアだった。
「ここ……ですか?」
悠真が戸惑いながら尋ねた。
「うん! もうすぐ夏だし、悠真くんと海に行きたいなと思って。せっかくだから悠真くんに選んでほしいの。ダメかな?」
美月は上目遣いで、恥ずかしげな様子を見せながら悠真を熱い目で射抜いた。
「……だ、だめじゃないですけど、そんなの選んだことないので……参考になるかどうか……」
「悠真くんが選んでくれた水着を、着たいの」
悠真はゴクリと唾を飲み込んだ。
「……わかりました。精一杯選ばせていただきます」
「ふふ……お願いね」
美月は、計算ずくで悠真の顔を覗き込み、彼の瞳が泳ぐのを楽しんだ。
「あっ、でも……セクシーすぎるやつは、ちょっと考えさせてね?」
「そんなの選ばないです!」
「どうだかなあ。男子高校生だし?」
美月は意地悪な目付きで悠真の肩あたりをツンツンとつついた。
美月に気圧されながらも、悠真はオンモードの脳をフル回転させ、水着売り場という未知の領域に挑んでいた。
彼の目が捉えたのは、清楚な白のワンピースタイプや、セパレートだがフリルがついたような、露出を最小限に抑えたデザインのものばかりだ。
「……美月さん。こちらなどは、いかがでしょうか。非常に上品で、美月さんの雰囲気に合うと推測します」
悠真が提示した、「無難すぎる」 一着を見て、美月は思わず吹き出しそうになった。
(……ふふ、やっぱり。悠真くんらしい)
悠真は「理想の瀬戸美月」を壊さないよう、必死に安全牌を選んでいる。
その生真面目さが可笑しく、そして少しだけ物足りない。
美月は計算ずくで悠真に一歩近づき、彼の耳元に顔を寄せた。
「……もっと大胆なものでも、いいんだよ?」
「え……っ?」
小悪魔的な囁きと共に、微かに香る美月のシャンプーの匂い。
悠真の背筋に、今まで感じたことのない、痺れるような熱が走った。
「私だって、悠真くんをドキドキさせたいって思ってるんだから」
「な……何を、仰っているんですか。僕は、いつも……」
悠真の言葉が泳ぐ。
「ふふ……じゃあ、悠真くんが選んでくれたこれと」
美月は悠真の手からフリルの付いた水着を受け取ると、もう片方の手で、自分で選んでおいた、鮮やかな大輪のハイビスカスが描かれた、背中の紐が細いビキニ の水着を掲げた。
「……少しだけ攻めた、これ。両方試着してみるね。どっちが似合うか、ちゃんと見てて?」
美月はそう言い残すと、悠真の制止を振り切るようにして試着室へと姿を消した。
カーテンが閉まる間際、彼女に向けられた悠真の瞳には、理想の恋人を見つめる澄み渡った敬愛ではなく、一人の女に翻弄される、男子高校生の剥き出しの熱い渇望が宿っていた。




