理想の恋人、現実の命綱
翌日の昼休み、ソラと悠真は昨日と同じく、3棟2階の空き教室で落ち合った。
「白石さん、すいませんが……」悠真は申し訳なさそうに、けれど目的を果たすために真っ直ぐ切り出した。「手、掴んでもらえますか?」
ソラは、昨日と同じく勝ち誇ったような笑みを浮かべ、腕組みをして立っていた。
「ん〜、どうしよっかな〜」
「あの……。白石さんのために朝からずっとオンモードなんですが……」
「いや、でもさあ。あの写真、あんたも写ってたじゃん。あんたも盗撮の被害者なんだから、あたしのためっつーか、自分のためでもあるでしょ?」
「そうなりますか?」悠真は小さくため息をついた。「……なら、いいです。僕は元々、犯人には興味がないので。この話はこれっきり、ということで」
交渉決裂と判断した悠真は、迷いのない足取りでソラの横を通り抜け、教室を出ていこうとした。
その腕を、ソラが慌てて掴む。
「……っ!」
悠真の体に、温かく、けれど痺れるような不思議な感覚が流れ込んできた。
「冗談じゃ〜ん。もう、相変わらずノリ悪いんだから」
ニヤリとしながら、ソラが迷いなく悠真の手首をギュッと握りしめた。
悠真の視界から微細なノイズが消え、世界が鮮明な解像度を取り戻した。脳の歯車が完璧に噛み合い、思考が加速していく。
「……やっぱり、これ凄いですね。白石さんに触られているだけで、思考の霧が晴れていくようです」
「あはは、何それ。あたし、高性能な空気清浄機か何かなの?」
ソラは可笑しそうに笑いながらも、昨日よりも少しだけ指先に力を込めてくる悠真の体温に、内心ドキドキしていた。
「それで、犯人の件だけど。何かわかった?」
ソラは、そんな内心を悟られないよう、話題を変えた。
「……まだまだこれからです。今、ソラさんの周りとか、クラスの状況とか、情報をインプットしているところです。もう少し、僕に観察の時間をください」
「ふーん。……ねえ、これさ。毎日こうしてコソコソ会うの、結構ダルくない?」
ソラが、空いた方の手で自分の髪を指に巻き付けながら、上目遣いで言った。
「いっそのこと、ウチら『付き合ってる』ことにしちゃうのどう? 恋人のフリするってこと。そしたらどこでも、堂々と触り放題じゃん」
悠真はその案を瞬時に脳内でシミュレートし、首を横に振った。
「……それはダメですね」
「はぁ!? なんでよ、名案じゃん」
「まず第一に」悠真は極めて冷静な口調で続けた。「写真を送りつけてきた犯人を刺激することになります。嫌がらせのような行為がエスカレートするかもしれません」
「それは⋯⋯そうかもしんないけどさ」
「第二に、そんな付け焼き刃で恋人のフリをしても、周りを騙すのは難しいでしょうね。第三には、教室で寝てばかりの置物扱いの僕と、カースト頂点のギャルのあなたでは、まず恋人と信じてもらえない」
「……もー! 分かったってば! 冗談で言ったんだから、そんな完璧に反論してムキにならないでよ。全然可愛くない!」
淀みなく正論を並べる悠真に対し、ソラはむくれた表情で苛つくようにそう吐き捨てた。
「ムキになったつもりはないですが⋯⋯」悠真は伏し目がちに言った。「でも、白石さん。この協力関係、あなたにとってのメリットが少なすぎますよね」
悠真は真剣な顔で、ソラの瞳を見つめた。
「メリット、ね。まあ、犯人捕まえてくれるなら、それでいいけど」
「それだけでは足りません。僕は、あなたという『命綱』を手に入れた。なら、あなたにもそれ相応の……例えば、あなたがやりたいことを実現するために僕の知能を貸し出すとか、そういう対等な交換が必要だと思うんです」
「……あたしのやりたいこと、か」ソラは悠真をしっかり正面に見据えた。「ねえ、聞きたいんだけど⋯⋯1個いいかな?」
「はい、何でしょうか」
「あたしがあんたの脳を回復させられること、美月先輩には言わないの?」
悠真が昨夜から悩み続けていることをズバリ突かれた。
「……それは」
悠真の言葉が詰まった。
オンモードの脳は、即座に「秘匿すべき」という結論を弾き出している。けれど、それを口にすることへの抵抗感が、胸の奥で重く沈殿していた。
「言えるわけがないでしょう。あなたもおとといの夜、コーヒーショップで聞いた通り、僕のこの異常な体質がわかっても、それを引っくるめて美月さんは好きだと言ってくれたんです⋯⋯なのに、その解決策が、彼女ではなく、他の誰かの『手』にあるなんて……」
「……美月先輩が傷つくから、言わないってこと?」
ソラの声が少し低くなる。
「いいえ。僕が、彼女の前では『完璧』でいたいからです。彼女は僕の理想であり、安らぎです。そこに、こんな非科学的で、不純な依存関係を持ち込みたくない」
「不純、か。……へぇ、あたしとのこれは『不純』なんだ」
ソラが自嘲気味に笑い、掴んでいた悠真の手首に、爪が食い込むほど力を込めた。
「白石さん、痛いです」
「……痛いのはあたしの方だよ……ねえ、じゃあさ。交換条件であたしがやりたいこととして、『美月先輩と別れて』って言ったら、あんたどうする?」
悠真の思考が一瞬だけ止まった。
がすぐにオンモードの超高速演算が起動し、ソラの言葉を解析しようとフル回転する。
瀬戸美月を失うことは、心の平穏の喪失。だが、白石ソラを失うことは、脳の機能維持そのものの崩壊。
どちらを選んでも、悠真の「持続可能な日常」は破綻する。
「……それは」
悠真は言葉を継ごうとしたが、脳内に出力された答えは、初めて目にするものだった。
『――最適解、なし』
悠真が呆然としていると、ソラはパッと手を離し、「あはは!」と乾いた声を上げて笑った。
「うっわ、今の顔、最高。オンでは完璧なあんたがフリーズしてるし……ま、今のは冗談。あたしもそこまで性格悪くないし、あんたみたいなメンドくさい男、こっちから願い下げだわ」
「……冗談ですか。心臓に悪い⋯⋯あなたが真剣に言ってるか、冗談を言ってるのか、まだよく掴めないです」
「ま、女ってフクザツだから⋯⋯あ、あんまり長くいると、ほら。戻ろっか。もう大丈夫?」
「⋯⋯はい。ありがとうございました」
ソラは悠真の腕から手を離すと、足早に教室を出ていった。
何とかごまかしたものの、何であんなことーー美月先輩と別れて、って言ったらどうする?ーー言ってしまったのか。自分の耳が火照るのを感じていた。ただの意地悪のつもりだったのに、答えに窮する悠真の顔を見た瞬間、心臓が跳ねた自分に戸惑いを隠せない。
空き教室に残された悠真も、自分の胸に走った微かな「ざわつき」の原因を、オンモードの脳ですら特定できずにいた。
(「最適解なし」……。僕の演算が、彼女の言葉一つで破綻したというのか?)
悠真は、ソラの手のぬくもりが残る自分の手首を見つめた。
美月は「恋人」で、ソラは「命綱」。
論理的には切り分けられているはずの二人が、脳内で不穏に混じり合い始めている。




