(4)帰る場所ー始まりー
昼前の陽光が窓から差し込んでいた。ルークは机に向かい、本を開いていた。だが、昨日のジークの表情が頭から離れず、文字を追えずにいた。すると不意に視界の端、窓の外に影が映る。
「……ジーク?」
思わず立ち上がり、窓辺へと駆ける。窓の下に、ジークが蹲っていた。いつもみたいに窓を叩かない。言葉を発せず、ただ膝を抱え、俯いている。
ルークの顔から血の気が引いた。
「ジーク!」
慌てて窓を開ける。ジークは顔を上げた。その顔を見て、ルークは息を呑んだ。頬は腫れ上がって、唇も切れている。腕には青黒い痣。そして何より、その目が違った。今までのジークは、どんなに不機嫌でも、どんなに怒っていても、生きる力だけは宿していた。
だが今は空っぽだった。
「母様!」
ルークは部屋を飛び出した。
「母様!来て!早く!」
*
フロレンスはルークに手を引かれるようにしてジークの元へと駆け込んだ。窓の下に蹲る少年を見て、表情が変わる。何があったのか。詳しく聞くまでもなかった。ジークは震えていた。まるで怯えた小動物のように。
フロレンスはゆっくりとしゃがみ込む。
「ジーク」
少年の肩がびくりと震えた。
「大丈夫よ」
優しい声だった。その声を聞いた瞬間。ジークの張り詰めていたものが切れた。ぽろりと涙が落ちる。大粒の涙は洪水のように止まらない。何も言えない。言葉にならない。ただ涙だけが溢れ、嗚咽が響く。フロレンスはただジークを抱き寄せる。その温もりが、余計に涙を誘った。
「ジーク」
静かな声だった。
「何があったの?」
ジークは首を振る。思い出したくない。言葉にもしたくない。あの男も。父親の笑った顔も。母親の背けた背中も。全部、全部無かったことにしたかった。震える唇を動かす。
「……もう」
掠れた声だった。
「もう……家にはいたくない」
フロレンスは黙って聞いていた。
「帰りたくない……」
それだけで十分だった。フロレンスは静かに目を閉じる。胸の奥に、怒りが込み上げる。けれど、それを表には出さない。今、必要なのは怒りではない。この子を安心させることだ。フロレンスはそっとジークの頭を撫でた。
「そう」
優しい声だった。
「もう帰らなくていいわ」
ジークは目を見開く。フロレンスは微笑む。
「大丈夫。ここにいていいのよ」
その言葉は、不思議と信じられた。
「もう、あなたを一人にはしないから」
ジークの目からは、また涙が溢れた。ここにいていい。一人にはしない。ジークがどんなに望んでも、両親からはかけてもらったことのない言葉だった。震える手でジークはフロレンスの背中に手を回して、泣きじゃくった。
ひとしきり泣いたジークは疲れてしまったのか、そのまま気絶するように眠ってしまった。フロレンスはジークを抱えて部屋へと戻る。侍女らに手当てを依頼し、ルークにはジークのそばにいるよう伝えた。
「この子が起きるまで、離れないであげて。そばにいてあげて」
「わかってる。僕がみてるから」
ルークはこれから母がどこに行くのか、察していた。ジークを守ることが、今すべきことだともわかっていた。フロレンスはそっとルークの頭を撫でる。
「ルーク、ありがとう」
「ううん。ジークは僕の友達だから」
フロレンスは微笑み、静かに部屋を出た。そのまま領主の元へと、足を運ぶ。数日前から調査を頼んでいたある一家のもとへ、乗り込むために。護衛を二人お借りしたいと領主へ告げると、領主は快諾してくれた。
「ありがとうございます。しばらくお借りいたします」
そういうフロレンスは笑っていたが、驚くほど冷たい目をしていた。
*
護衛二人を従え、フロレンスはジークの家へと向かう。道中、誰も口を開かなかった。護衛は、何度か視察の場にもついてきてくれた二人で、フロレンスが静かに怒っていることに気が付いているようだった。穏やかな笑顔は浮かべている。だが、その瞳だけは凍り付くように冷たかった。
やがて見えてきたのは、薄汚れた小屋だった。酒瓶が転がり、壁は傷んでいる。護衛の一人が扉を叩く。
「誰だよ」
不機嫌そうな声が中からして、扉が開く。そこにいた男を見て、フロレンスは表情一つ変えなかった。
ジークの父親だった。男は一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに下卑た笑みを浮かべる。
「あんた、誰だ?」
「ジークハルトの件で参りました」
男は鼻を鳴らす。
「ああ、あいつが世話になってる御貴族様か。あいつが何かやらかしたか?」
「いいえ」
フロレンスは首を振る。
「今日はあなたにお話があります」
フロレンスの声に男の顔が引きつる。その奥では、母親が不安そうにこちらを見ていた。フロレンスは構わず続ける。
「先ほど、息子さんを私の元で保護いたしました。詳しくは聞いていません。でも、身体中の虐待の痕と、泣きじゃくる様子は放っておけませんでした」
男が顔をしかめる。
「帰りたくない、と。あの子は私に言いました」
母親の肩が震えた。
「だから、彼は私が引き取ります」
「は?」
父親が声を荒げる。
「あいつは俺たちの息子だぞ!」
「ええ」
フロレンスは頷く。
「さっきまではね。でも、これきりで縁を切ってください」
「ふざけんな!」
父親がフロレンスにつかみ掛かろうと手を伸ばす。瞬間、護衛の男が父親を取り押さえた。
「以前から、あなた方のことを調べていました」
酒浸りの両親。育児放棄。窃盗の強要。――全て知っている。
「ですが、あの子自身が望まない限り、手を出すつもりはありませんでした」
フロレンスは静かに言った。
「曲がりなりにも、あなた方はあの子の親ですから。――でも、あの子は私の元へ来ました」
その言葉に込められた重みを、母親だけは理解した。
「泣きながら、十歳の子が、うちに居たくないと」
「たかがガキが泣いただけだろうが!」
父親はそれでも反論した。だが、母親が顔を覆って、嗚咽が漏れた。父親の反発は予想通りだけれど、母親が悲しむ様子には、微塵も胸が痛まない。それよりも怒りが込み上げる。
(泣いているのはジークよ。あなたが泣いてる場合じゃないでしょう)
その言葉はぐっと飲み込んだ。フロレンスは懐から小袋を取り出し、乱雑に父親の元へと放った。ずしりと重い音がする。中から覗いたのは金貨だった。父親の目の色が変わる。
「これを受け取ってください」
「へぇ……?」
父親が身を乗り出す。
「これであの子のことは金輪際忘れてください」
フロレンスの声はどこまでも静かで熱を持たなかった。
「ジークハルトは今後、私が面倒を見ます」
父親は袋をひったくるように受け取った。中身を確認し、顔を綻ばせる。
「へへっ……こりゃ大した額だ」
フロレンスは一度もその男を見なかった。もう見る価値もない。ジークのことよりも、もう金貨にしか目が向いていない。――反吐がでる。視線を母親へ向けると、母親はむせび泣いていた。
「ごめんなさい……」
震える声だった。
「本当に、ごめんなさい……」
フロレンスはしばらく黙っていた。そして静かに告げる。
「――謝る相手が違うわ」
母親が顔を上げる。
「でも、もうその機会は二度と無い」
母親の顔から血の気が引いた。
「あなたはあの子が助けを求めた時、手を差し伸べたの?」
静かな声だった。
「ジークハルトは最後まであなたを信じていたのでしょう?」
母親が崩れ落ちる。フロレンスは目を逸らさなかった。
「それが、あなたの報いだわ」
そう言い残し、踵を返した。背後から咽び泣く声が聞こえたが、もう振り返らない。金輪際、ジークハルトに近づくことは許さない。
*
ジークが目を覚ました時、ルークがそばにいた。
「起きた?」
「ーー俺、なんで」
ジークは半分無意識でここへ駆け込んできていた。冷静になって、後ろめたさが募る。
「ーーごめん、帰るわ」
立ちあがろうとするジークの手を、ルークは必死に掴んで離さない。
「帰ったら駄目だ!」
「離せって」
振り解こうとするが、ルークは離さない。力はてんで無い。あの男の方がよっぽど強かった。でも、この手を振り解くことができなかった。
「なんで帰ろうとするんだよ。帰りたく無いんでしょ?ここにいたらいいだろ!」
ジークはフロレンスに抱きついて泣いたことを思い出した。一人にしないと言ってくれた。ここにいていいと言ってくれた。頭を撫でてくれた暖かな手は、母親のそれとはまるで違っていた。思い出しただけで胸の奥が苦しくなる。
「……」
ジークは視線を落とした。ルークはまだ必死に腕を掴んでいる。
「離せよ」
「やだ。帰らせない」
即答だった。ジークは思わず顔をしかめる。
「お前に何がわかるんだよ!」
「わかんないよ」
ルークはあっさり認めた。掴む手に力が入る。
「でも、ジーク泣いてた」
ジークは言葉を失った。ルークの声は震えていた。
「だから帰っちゃ駄目だ」
ジークは目を逸らした。帰りたくないのは本当だった。でもーー。
「……迷惑だろ」
ぽつりと零れる。
「え?」
「俺なんかいたら」
ルークは目を丸くした。そして本気で不思議そうな顔をする。
「なんで?」
「なんでって……」
言葉が続かない。今まで迷惑じゃなかったことなんてない。金を持って帰らないと怒られた。失敗すると殴られた。自分がいることで誰かが困る。それが当たり前だった。
ルークはそんなジークを見つめる。
「母様、怒ってなかったよ」
静かな声だった。
「むしろすごく心配してた」
ジークは唇を噛む。
「それに」
ルークは少しだけ困ったように笑った。
「僕もジークが心配だよ」
その言葉はあまりにも真っ直ぐだった。だからこそ、ジークには痛かった。信じてしまいそうだった。ここにいてもいいのだと。自分なんかでも。――そう思ってしまいそうだった。気付けば、また涙が滲んでいた。ルークはそれを見ても何も言わない。ただ手を離さなかった。まるで、もうどこにも行かせないと言うように。
フロレンスが邸宅へ戻ると、ジークは寝台に上半身だけ起こして、じっとしていた。その理由はすぐにわかった。隣でルークが眠っている。小さな両手が、ジークの手首をしっかりと掴んでいた。
まるで逃がすものかと言わんばかりに。フロレンスは思わず小さく笑う。
「あらあら。本当に離れなかったのね」
ジークは気まずそうに視線を逸らした。
「……何回か振りほどこうとしたんだけど」
言葉を濁す。十歳のジークなら、本気で振りほどこうと思えば出来ただろう。けれど出来なかった。いや、しなかったのだ。
「そう」
フロレンスはそれ以上言わなかった。ジークは困ったような顔をする。
「……これ」
視線がルークへ向く。
「起こした方がいいか?」
「ふふ」
フロレンスは肩を揺らした。
「きっと安心して寝ちゃったのね」
そう言ってルークの髪を撫でる。ルークは小さく身じろぎしたが起きない。昨夜からずっと気を張っていたのだろう。ジークはそんなルークを見つめる。自分なんかのために、どうしてそこまで出来るのか、理解できない。でも、胸の奥が少しだけ温かかった。
フロレンスはそんなジークを見つめた。泣き腫らした目。痣の残る顔。けれど先ほどまでの絶望だけの表情ではない。そこに少しだけ安堵が混じっている。フロレンスはそっと寝台の端に腰掛けた。
「ジーク」
少年が顔を上げる。
「お話があるの」
静かな声だった。
「もう、あなたをあの家へ帰すことはないわ」
ジークの瞳が大きく見開かれた。そしてフロレンスは続ける。
「さっき、ご両親にも会ってきたの」
その瞬間、ジークの顔から血の気が引く。何を話してきたのかはわからない。でも、あの親がフロレンスに何を言ったのか、もし手を出していたら、そう考えるだけで怖かった。けれどフロレンスは優しく微笑んだ。
「大丈夫」
あの時と同じ声で。
「もう全部終わったから」
ジークは目を見開いた。
「今日から、あなたも私の息子よ」




