(3)帰る場所ー決別ー
※このエピソードには児童虐待を想起させる描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。
それから何度もジークはルークとフロレンスの元へ訪れた。フロレンスはいつも暖かな食事と、たくさんのお土産を待たせてくれた。父親はいつまでも金を持ってこないジークに悪態をついていたが、金を要求しないのは、ジークなりの矜持だった。フロレンスには、もう十分すぎるものをもらっている。そう思っていた。
「そういえば、ジークはいつもどこから窓まで来てるの?門からじゃないよね」
「そんな目立つとこから来るわけないだろ。抜け穴があんだよ」
「へぇ!どこにあるの?」
「教えてやろうか?」
期待するルークの眼差しを受けて、ニヤリと笑うジーク。
「教えてやんない」
「はぁ!?ひどい!」
ジークとルークの言い合いを眺めながら、ふとフロレンスは、はじめてジークがご飯を食べて帰った翌日のことを思い返した。ジークの頬が酷く腫れていたこと、真新しい痣が体にもあること。本人には問いたださなかったが、彼の親が日常的に暴力を振るっていることはすでに調べがついていた。
ジークの父親は昼間から酒に浸っており、母親も同じで子供を養う気もないらしい。ジークの盗んできた金で、また酒を買っては飲んでいる。どうしようもない親だった。だがそんな親でも、ジークにとっては無二の親だ。フロレンスの一存で、引き離すわけにはいかなかった。
ジークが来る前に、フロレンスはルークにそっと聞いてみた。
「ルーク。ジークの痣、なにか聞いてる?」
「ううん、なにも。ジーク言わないし」
「……そうよね」
それでもたびたび訪れてくるジークを、放ってはおけなかった。そして、この領地での助言役も、そろそろ終わりが来ていた。自分たちが去れば、ジークの生活はまた、前のように戻ってしまうのだろう。それが辛かった。
食事が終わった後、フロレンスは静かに切り出した。
「ねぇ、ジーク、ルーク。伝えておかないといけないことがあるの」
目を伏せ、辛い表情のフロレンスに、いい話題でないことを二人は悟った。
「あと数日で、仕事の区切りがつくの。そうしたら今度は、また別の場所に行かないといけないのよ」
「え?」
胸に氷水を浴びたような言葉だった。いつまでもずっと、とは思っていなかった。でも、唐突に終わりが来てしまった。そして、そのことにひどく動揺している自分に、ジークは驚いてしまった。
「そんな……、せっかくジークと友達になれたのに!別れたくないよ!」
ルークの言葉にも、ジークは驚く。ルークは自分を友達だと言った。そんな存在、ジークにはいたことがなかった。別れたくないとも。こんな自分に、そんな思いを向けていてくれたことが、すごく嬉しかった。でも、それももう終わりだ。いつまでも、この親子の優しさに触れていてはいけない。
「――はっ。誰が友達だよ。俺はそんなつもりは無いね」
そう吐き捨てて、足早に立ち去ろうとするジーク。でも、その表情はひどく悲しいような目をしていた。
「ジーク、ちょっと待って!」
慌てて包みを渡そうとするが、ジークは包みを叩き落とす。クッキーが床に散らばった。いつもなら、それも掴んでいたはずだ。だが、今は見ることも出来なかった。
「もういらねえよ!」
ジークハルトは走って、邸宅から逃げ出した。別れが、終わりがこんなにも辛いものだと、はじめて知った。重い足取りで、それでも向かう先は自分の家しかなかった。薄暗い路地裏を歩く。手には何もない。いつも持たされていたパンもクッキーも、今日は受け取らなかった。
胸の奥が妙に苦しい。ルークの顔が浮かぶ。『せっかくジークと友達になれたのに!』馬鹿みたいな顔で、本気でそう言っていた。
――友達。そんな言葉を向けられたのは初めてだった。
「……うるせぇ」
誰もいない路地で吐き捨てる。どうせ数日後にはいなくなる。だったら最初から関わらなければよかった。そう思うのに、心は少しも軽くならなかった。やがて見慣れた家が見えてくる。錆びた扉と薄汚れた壁。帰る場所はここしかない。ジークは重い気持ちのまま扉を開けた。部屋へ入った瞬間、嫌な酒の臭いが鼻を突く。
「おう、帰ったか」
ジークは返事をしなかった。父親はジークがなにも持っていないことに気がついた。
「今日はなにも無しか?」
ジークは頷いた。
「何でだ」
ジークの様子を訝しむ。
「もうすぐ、この街を去るんだって。だから、もう終わりだ」
「けっ。せっかくの金ヅルがよぉ。最後までしけたもんしかよこさねえで」
父親はジークの様子を省みるでもなく、心底残念そうにしていた。だが、なにを考えついたのか、気味の悪い笑みを浮かべだした。くっくっと笑い声が漏れる。
「……そういや、お前とそう歳の変わらんガキがいるって言ってたよな」
「え?……うん」
「お前、そいつを連れてこい」
ジークは父親の言ったことが理解できなかった。
(誰を?どこへ?ルークを連れ出すってこと?)
だが、父親がルークに良からぬことを思いついたのは理解できた。今まで、父親に口答えなどしたことがない。すれば拳が返ってくるのが当たり前だったから。それでも、ジークは震える声を絞り出した。
「……嫌だ」
「あ?」
「嫌だ!ルークになにするつもりだ!」
瞬間、父親の拳がジークの頬をぶち、体が飛ばされる。
「口答えすんじゃねえ!最後だってんなら、そのガキを人質にとって、金を強請るんだよ!それくらい出来んだろ!」
母親が、ジークの体を支える。ジークはそれでも、父親に逆らった。
「出来るわけないだろ!そんな恥知らずなことーー」
再び、何度も殴られる。母親が止めようとするが、その腕も振り解いて父親はジークに馬乗りになる。胸ぐらを掴まれ、顎を強く押さえつけられる。
「出来ねえっつんなら、お前が金作って来い。せっかく綺麗な顔に産んでやったんだ。――体で稼げ」
「あんた、それはあんまりだよ!」
「じゃあ、お前が稼いで来いよ!お前だって役立たずだろうが」
そう言われて、母親は狼狽える。
「そ、そんなこと……」
顔を青くしながら首を振る。ジークはほっとした。母親だけは違う。そう思った。だが、父親は鼻で笑う。
「じゃあどうする」
母親は答えられない。父親は間を置かずに続けた。
「酒は?飯は?明日からどうやって生きる」
母親の肩が震える。
「お前が稼ぐのか?働けんのか?」
俯く母親を見て、父親は吐き捨てる。
「出来ねぇだろ」
部屋が静まり返る。ジークは母親を見た。何か言ってくれると思った。いつもみたいに抱きしめてくれると思った。大丈夫だと言ってくれると思った。
けれどーー
「ジーク……」
母親の声は弱々しかった。助けを求めるような声だった。
「少しだけだから……」
ジークは目を見開く。
「母さん?」
「ごめんね……」
震える声だった。
「ごめんね、ジーク」
それ以上の言葉はなかった。体を売る、その意味はわからない。だが、母親のその表情はわかった。母親は、自分に縋ってきたのだ。結局、いつもと一緒だ。母親は俺よりも、自分がかわいいのだ。鉛のような汚泥が、胸の奥をどっぷりと冷やしていく。父親の怒鳴り声も聞こえない。殴られた頬の痛みも消えていた。
*
翌日、ジークは寝台の端に座ったまま、ぼんやりと床を見つめていた。昨夜から何も考えられない。頬の痛みも、身体の痛みもまだ残っている。だが、どこか遠くのもののようだった。
扉が開く音がする。父親が戻ったのだと思った。だが、聞こえてきたのは二人分の足音だった。顔を上げた瞬間、ジークの背筋に冷たいものが走る。
知らない男がいた。男は薄気味悪い笑みを浮かべながらジークを見ている。まるで品物でも見るような目だった。本能が危険を告げる。逃げろ、と。父親は男から小さな袋を受け取った。中で硬貨が鳴る。その音が妙にはっきり聞こえた。
「殴られた顔は萎えるが、可愛い顔してんじゃねか」
男は下卑た目で、ジークの顔をじとっと見下ろす。
「好きにしてくれ」
父親は機嫌よく笑った。嫌な汗がジークの背中を伝った。男が一歩近づく。ジークは母親を見た。助けてほしかった。逃げなさい、大丈夫だ、そう言ってほしかった。
「母さん……」
母親は顔を上げない。ただ唇を噛み締めている。
「母さん?」
返事はない。男の手が伸びて、ジークの手首を掴んだ。
「離せ!!」
反射的に振り払おうとする。だが、大人に力で敵うわけが無い。
「嫌だ!!」
両手を取られ、寝台に押し倒されてしまった。男の顔がジークに近づく。息が臭かった。足をばたつかせて暴れる。
「くそ!触んな!」
男の手が、服の下に滑り込む。身の毛のよだつ不快感がジークを襲う。男が何をしようとしているのかわからなくて、ただ怖かった。
「いい声で泣けよ。可愛がってやるからよぉ」
――嫌だ!嫌だ!嫌だ!助けて!
「母さん!!」
大声で叫んだけれど、母親は動かない。見ようともしない。その瞬間、ジークの中で完全に家族への想いが切れた。
――ああ。誰も助けてくれないんだ。誰も、俺のことなんて、どうでもいいんだ。なら、自分で逃げるしかない。
ジークは男の腕に力の限り噛みついた。
「痛え!」
男が怯んだ隙に手を振りほどく。寝台から跳ね起きて、扉へ向かって駆け出した。後ろで怒鳴り声が上がる。父親の声と男の声だ。母親の泣き叫ぶ声も。けれど、ジークは振り返らなかった。振り返ったら逃げられなくなる気がした。
路地へ飛び出す。息が苦しい。涙で前が見えない。それでも足を止めることは出来ない。胸が破裂しても、全力で逃げないといけなかった。
向かう先は一つだ。優しい声を知っている場所。暖かな食卓がある場所。フロレンスとルークのいる領主館だった。




