(2)窓からの来訪者【挿絵あり】
翌日もフロレンスは視察に出掛けていた。ルークは部屋の中で借りた本を読んでいた。ふと、窓を叩く音が聞こえて顔を上げると、昨日の子供、ジークがいた。どうやって邸宅に入ってきたのか。門番もいたはずなのに。
ジークは窓から、声をかける。
「あの女は?」
ジークはルークのあげた服は着ていなかった。今日の服も穴が空いた、ボロボロの服だった。洗った髪は後ろで無造作に括っている。せっかくの綺麗な髪なのに勿体無いと、ルークは思った。
「あぁ。母様のこと?出掛けてるよ」
「ちっ。いねえのか」
ルークは洗った服をジークへ返す。
「はい。君の服。洗ってあるよ」
「わざわざどうも」
でも、ジークはルークの服を返せない。もう売り払ってしまったから。そしてその金も、酒に消えた。
「……貰った服は返せない」
それしか言えなかった。でも、ルークは怒らない。
「いいよ。あれはあげたんだから。それより、無事に家に帰れた?危ない目に遭ってない?」
「はぁ?気にするとこ、そこかよ」
ジークはやっぱり目つきも口も悪い。でも、ルークはもっと話をしたくなった。
「僕、ルーク。君は?」
「言うと思うか?」
「教えてくれないと、呼べないよ?」
「呼ぶ必要ないだろ」
「せっかくだから、ちょっと寄ってきなよ」
「お前頭おかしいのか」
ジークは狼狽える。ルークは自分を少しも蔑む様子を見せない。ジークの周りの子供は、皆、擦れた目をしているし、裕福な家の子供たちなど、汚いものを見るような目を向けるだけで、近づいてくることさえしない。
「クッキーあるけど、食べる?」
ルークは棚にあったクッキーをとって、窓際に戻りジークへと差し出す。クッキーの甘い香りがジークの鼻をくすぐる。それでも、ジークが手を伸ばそうとしないため、ルークは一つを手に取り口に頬張った。サクッとした音と、香ばしい香りが強くなる。
「おいしいよ」
ジークは我慢できずに、素早く一つを手に取って頬張った。口の中にバターの香りと、甘い味が広がる。
「……うま!」
「でしょ?」
ルークはなぜか自分のことのように嬉しそうに笑った。ジークは意味が分からなかった。
「もっと食べていいよ。明日も用意しとくし」
「……お前、もっと警戒しろよ。普通、危ないだろ。俺みたいなのが近づいたら」
「君みたいなの?よくわからないけど、僕、遊ぶ相手いないし、暇なんだよ」
もう一つクッキーを口に放り込んで、ルークは言う。だが、その無邪気さは、かえってジークをイラつかせた。
(暇ってなんだよ。俺は、その日の食べもんすら満足にないのに。結局、貴族のぼんぼんかよ)
「俺は暇じゃねえんだよ。あの女いねえんなら、もう帰る」
そう言って、ジークはさっさと去ってしまった。その手には、掴めるだけのクッキーを握って。その背中を、ルークは見つめていた。自分の発言で、機嫌を損ねてしまった。でも、クッキーは気に入ってくれたみたいだ。明日は、別の味のクッキーを用意しておこう、そう思った。
*
「え?あの子来てくれたの?」
夕食時、ルークはフロレンスにジークが来たこと、服を返したことを伝えた。
「うん。母様に用があるみたいだったけど、すぐに帰っちゃった」
クッキーをあげたことも伝えたが、機嫌を損ねたことはなんとなく言えなかった。
「そう。無事に帰れたならよかったわ。何の用だったのかな」
「母様、明日はジンジャークッキーがいいな。喜んでくれるかな」
「あらあら、珍しくルークが気にしてるぅ」
口元に手を当てて、フロレンスは肩を上げる。今まで、訪問先の子供と遊んでいても、特定の子を気にする素振りがなかった息子の様子に、驚く。
「だって、何だか、ほっとけなくて」
「そうね。母様もあの子は気掛かりだわ。あの子の目、何もかも諦めているようにみえるのよね」
ルークは、母の言葉の意味を深くは理解できなかった。でも、寂しそうな目をした子だなとは思った。
「もしまた来たら、優しくしてあげてね」
「うん」
「でも、無理に聞き出そうとしちゃだめよ」
「なにを?」
「話したくないことは誰にだってあるでしょ?自分から話してくれたら聞いてあげたらいいのよ」
「うん」
「いい子ね。明日は、ジンジャークッキーも、バタークッキーもいっぱい焼いてもらっちゃおう!」
フロレンスは笑顔を、ルークへとむけた。
*
翌日、夕方に再びジークは訪れた。玄関からではなく、また窓を叩く音がして、ルークは窓を開ける。
ジークは昨日と違い、唇の端を切っていた。子供の目にも、殴られたものだとわかった。
「どうしたの?」
「なんでもねえよ」
ぶっきらぼうに答えるジークに、ルークは母の言葉を思い出した。傷のことは、聞かれたくないことなのだろう。ルークは、言葉を飲み込んだ。そして、その様子をみたジークは、拍子抜けしてしまった。いかにも訊ねたそうな顔をしているのに、飲み込んでいる。そんな人間もまた、ジークの周りにはいなかった。
「……クッキー、食べる?」
「……おう」
窓枠にジークは腰掛ける。二人とも無言で、クッキーを口に入れる。たくさんあったクッキーは、すぐになくなってしまった。それでも、ジークは帰ろうとしない。
「あの女まだ帰ってこないのか?」
「うん。もうすぐ帰ってくるとは思うけど」
「お前。暇って、いつも何してんの?」
「だいたい本読んでるかな」
「はぁ?つまんねぇの」
ルークは少しむっとしてしまう。本を読むのは楽しい。でも、確かにずっと読んでるのは、飽きてしまう。つまらないと吐き捨てられると、ルーク自身もつまらないものと言われた気がした。
「うるさいな。でも、勝手に外に出るわけにいかないんだから、仕方ないじゃないか」
「ふーん」
(勝手に出れないって、やっぱりぼんぼんじゃん)
でも、ずっと部屋の中で過ごすのも、それはそれで退屈なのかもしれない。ルークの境遇は、ジークにはわからなかった。庭にくらい出ればいいのに、とジークは思った。
その時、ドアを開ける音が聞こえて、二人は振り返った。
「ルーク、ただいま」
聞き慣れた声にルークが顔を上げる。
「母様!」
勢いよく立ち上がり、ルークは母に抱きつく。フロレンスはルークを抱き上げぎゅっと抱きしめる。ふと窓際を見て、目を丸くする。
「まぁ」
そして窓際に腰掛けるジークを見つけると、ふわりと笑った。
「また来てくれたのね」
「別に」
即答だった。だが帰ろうともしないその様子に、フロレンスはくすりと笑う。
「そう」
それ以上は追及しなかった。ジークのそばには、クッキーを平らげた皿だけが残っていた。
「ルークの相手をしてくれていたの?ありがとう」
お礼を言われて、一瞬ジークは目を丸くする。
「別に……。そんなつもりじゃねえし」
後ろめたさがつのる。自分は、彼らの恩にたかろうとしているのに。ジークは目を背けるしか出来なかった。そんな様子を見ながら、フロレンスは微笑む。
「いいえ。ルーク、嬉しそうだったでしょ?だから、ありがとう」
ジークは目を見開いた。その言葉は、ジークの胸の奥を温かくした。その理由はわからない。
「さて、もうお腹ぺこぺこ。あなたもついでに食べていく?」
さも当たり前のように声をかけられ、ジークは断る隙を失ってしまった。結局、ジークは晩御飯を頂くことになった。そこに並ぶのは今までジークが食べたことのないものばかり。しかも、フロレンスやルークと同席だ。食事のマナーもなにもなってないジークに、フロレンスもルークも何も言わない。あえて手づかみでも食べられるものをフロレンスは侍女に指示していた。はじめこそ警戒していたジークも。二口目には食事を書き込むように食べていた。
「あなたのことはなんで呼んだらいい?」
フロレンスが聞くと、ジークは一瞬戸惑いながら、でも今度は答えてくれた。
「……ジークハルト」
「まぁ、凛々しい名前ね」
微笑むフロレンスに対して、ルークは心底驚いた様子で、椅子から立ち上がってしまった。
「え?もしかして男の子?」
ルークの勘違いにカッとなって、ジークも立ち上がる。
「はぁ!?何だと思ってたんだよ」
「てっきり、女の子だと……」
「お前ふざけんなよ!どう見ても男だろうが!」
「ごめんなさい!――でも!ジークだって”お前”って言うなよ!僕の名前はルークだ!」
二人の言い合いを、フロレンスは微笑んで見ている。ルークが同年代の子と、言い合いをしているのは珍しかった。この日は、賑やかな食事になった。ルークにとっても、こんなふうに誰かと言い合いながら食事をするのは久しぶりだった。そしてジークは知らない。誰かと並んで笑い、言い合いながら食卓を囲むことを、人は団欒と呼ぶのだと。
食事を終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。ジークは椅子から立ち上がる。
「もう帰るわ」
ぶっきらぼうにそう言うと、窓の方へ向かおうとした。
「あら、待ちなさい」
フロレンスに呼び止められる。侍女から受け取った布包みを、フロレンスはジークへ差し出した。
「これ、持っていきなさい」
中にはパンとクッキーが入っているらしい。ほんのり甘い香りがした。
「……いいのかよ」
「もちろん」
フロレンスは微笑む。
「食べきれなかった分だもの」
本当は、そんな量ではなかったことくらいジークにも分かった。それでも、それ以上は何も言わない。そっけなく包みを受け取る。
「じゃあな」
「えぇ」
フロレンスは玄関まで見送りに来てくれた。夜風が頬を撫でる。
「気をつけて帰ってね」
その言葉に、ジークは少しだけ眉をひそめた。変な女だ。俺みたいなやつに、普通に接してくれている。身を案じてくれる。そのことが、また、ジークの胸を温かくした。それでも何も返さず、ジークは背を向けた。
*
家へ帰ると、父親はいつものように酒を飲んでいた。空いた瓶が床に転がっている。赤ら顔の父親は、ジークの姿を見るなり声を上げた。
「帰ったか」
そして開口一番に言う。
「何もらってきたんだ?」
ジークは黙って布包みを差し出した。父親は乱暴に受け取り、中を覗く。
「何だこりゃ」
パンとクッキーを見て、露骨に顔をしかめた。
「こんだけか」
舌打ちが落ちる。
「もっともらえるだろうが。飯はどうした」
ジークは少しだけ視線を逸らした。
「……食べさせてもらってきた」
「はぁ!?」
怒鳴り声が響く。次の瞬間、頬に衝撃が走った。体が吹き飛ぶ。壁へ肩をぶつけ、そのまま床へ崩れ落ちた。
「っ……」
口の中に鉄の味が広がる。
「あんた!やりすぎだよ!」
母親が慌てて駆け寄ってくる。
「うるせぇ!」
父親は酒瓶を机へ叩きつけた。
「食わせてもらえるならもっと持って帰ってこい!何のために行かせてると思ってやがる!」
母親はジークの肩を抱く。
「大丈夫?」
心配そうな声だった。けれど、その次の言葉がジークの胸を抉る。
「今度はうまくやるよね?」
母親は不安そうに言う。
「そうよね?ジーク」
ジークは返事をしなかった。殴られた頬が痛い。ぶつけた肩も痛い。――でも、それ以上に胸の奥が痛かった。
さっきまでいた屋敷を思い出す。ルークがいて、フロレンスがいて、馬鹿みたいなことで言い合いをして、一緒に飯を食べた。帰り際には、『気をつけて帰ってね』と、そう言ってくれた。ジークは床を見つめる。同じ親なのに。同じ大人なのに。どうして、あんなにも違うのだろう。その答えは分からない。ただ一つだけ分かったのは、さっきまでいた場所の暖かさとは違い、我が家は凍えるほど冷たかったということだった。




