(1) 母が連れてきた少年【挿絵あり】
その国は、一見すると豊かだった。大通りには人が溢れ、露店には色とりどりの商品が並んでいる。行き交う人々の表情も明るく、活気に満ちていた。だが、一本細い路地へ入れば景色は変わる。崩れかけた建物や、壁際にうずくまる浮浪者、裸足で走り回る子供たち。大通りの賑わいとは別の世界がそこにはあった。
ルークは馬車の窓から、その光景を静かに眺めていた。
「ルークは、この街をどう思う?」
向かいに座るフロレンスが尋ねる。ルークは少し考えた。
「同じ街なのに、全然違う」
「そうね」
フロレンスは頷く。
「表向きは華やかでも、そこにあるのは格差や貧困だわ。彼らのことも目を向けてあげないと、それは広がるばかり。だからこそ、領地経営は難しいのよ」
今回訪れたのは、とある貴族の領地だった。フロレンスは領主から領地経営について助言を求められ、この国へ招かれている。滞在はしばらく続く予定だった。馬車はやがて領主の邸宅へ到着した。広大な庭園、白い石造りの屋敷。迎えた領主はいかにも貴族然とした、小太りの男であった。客人として迎えられたフロレンスとルークは、そのまま客室へ案内される。宛がわれた客室は豪華な内装と上質な調度品が置かれていた。フロレンスは当面の間、領主の邸宅に滞在させてもらって、領主らとともに内政の見直しや領地の視察へと赴く。その間、ルークはというと、母が忙しい間は一人邸宅で過ごすことが主だった。
フロレンスは各国を渡り歩きながら、助言役を務めている。新しい土地、新しい屋敷、新しい人々。けれど数週間もすれば、また別の場所へ向かう。だからルークはあまり人と深く関わらなかった。子供がいれば一緒に遊ぶこともある。だが、いずれすぐに別れることになるのだ。そのことを、幼いながらにルークは知っていた。結局、本を読んだり、許されれば護衛の騎士たちに剣を教わったりして過ごすことが多かった。
その日もそうだった。昼過ぎ、フロレンスは領主との会談へ向かい、ルークは書庫から借りた本を読んでいた。夕方になり、窓の外が赤く染まり始めた頃、屋敷の玄関が騒がしくなった。何事だろうとルークは本を閉じて廊下へ出る。階段を降りると、そこにはフロレンスの姿があった。隣の領主もうろたえた様子だ。フロレンスは誰かを背負っている。
「母様?」
フロレンスが振り向いた。
「あら、ルーク」
背中には痩せた子供がぐったりと背負われている。年齢は自分と同じくらいだろうか。いや、少し上かもしれない。意識を失っているようだ。髪は汚れで固まり、顔も煤で汚れている。着ている服は擦り切れてところどころ穴が開いている。
「その子、どうしたの?」
「街で倒れたの」
フロレンスは静かに答えた。
「盗みを働こうとして失敗したみたい。大人たちに随分殴られていたわ」
ルークは思わず眉をひそめた。それで、領主がうろたえているわけだ。そんな子供をわざわざ背負って領主の邸宅まで連れて帰ったのだ。領主からしたら、迷惑ごとを持って帰ったようなものだ。だが、表立って反対していないところを見ると、存外気優しい男なのか、反論できないだけの気弱な男なのかはわからなかった。
フロレンスは侍女たちへ指示を出す。
「お風呂の準備をお願い。それから医師も呼んで」
「かしこまりました」
慌ただしく人が動き始める。ルークもその後ろを付いていった。客室の一つへ運び込まれた子供は、侍女たちによって汚れた服を脱がされる。その瞬間、部屋の空気が変わった。侍女の一人が小さく息を呑む。服の下、痩せこけた体には無数の痣があった。大人たちに殴られていたとはいえ、今日できた痣の他にも、古いものも多数、全身にみられた。まるで日常的に殴られているようだった。
ルークは黙り込む。フロレンスも何も言わない。ただ、その紫色の瞳が静かに細められた。
「ルーク。見世物じゃないわよ。あなたの服を一着、この子に取ってきてあげて」
フロレンスはルークへと短く伝えると、子供の介抱を続けた。ルークはすぐに客室へと戻り、自分の服を取ってきた。侍女たちに服を渡すと、ルークは部屋の隅に座り、終わるのを静かに待っていた。しばらくすると、身体を洗われた子供は寝台へ寝かされた。汚れが落ちると、その子の印象は一変した。白い肌、長い睫毛、整った顔立ち。痩せてはいるが、驚くほど綺麗な顔をしている。
ルークは素直な感想を口にした。
「可愛い」
「そうね」
フロレンスも頷く。
「きっと美人になるわ」
ルークも同意した。年齢は近そうに見えた。この子が起きれば、少し話してみてもいいかもしれない。そう思った時だった。寝台の上の子供がうっすらと目を開いた。うつろな目が次第にはっきりしてくる。子供は周囲を見渡し、次の瞬間――
「……どこだよ、ここ」
びっくりするくらい目つきも口も悪かった。ルークは思わず瞬きをした。美少女みたいな見た目なのに、眉間にしわを寄せ、周囲を威嚇するような鋭い目をしている。まるで野良犬だった。
フロレンスは穏やかに微笑む。
「安心して。あなたを助けたの」
「はぁ?……余計なことしやがって」
少年は即答した。敵意むき出しで、感謝の欠片もない。ルークは呆れた。フロレンスはなぜか楽しそうだった。
「とりあえず、お腹空いてない?ご飯にしましょうか」
フロレンスがそういうと、侍女たちがパンとスープ、果物を持ってきた。サイドテーブルに置かれたそれに、子供の視線がくぎ付けになる。だが、その子供はフロレンスを睨みつけ、一向に手を付けようとしない。
「……なんのつもりだよ」
「なにって、ご飯よ?それはあなたの分だから食べていいのよ?」
「……信用できるか。それに、この服。こんな上等なもん着れるか!」
なおも威嚇する子供に対して、フロレンスは微笑みを崩さない。
「その服もあげるわ。さっき着てた服は血がついてたから、今洗ってるわ」
「なにすんだよ!俺の服返せよ!」
「洗ったら返してあげる。それよりも、冷めないうちに食べなさい」
子供の視線が再びパンに戻る。しかし、手を伸ばさず、おもむろにベッドから起き上がる。
「帰る」
去り際に、パンを掴んで窓際へと走る。一瞬部屋の全員を見回した。バンっと窓を開け、そのまま飛び出してしまった。
ルークはぽかんと口を開けたまま、窓から去った子供の方を見ていた。
「行っちゃった」
「そうね」
「追いかけなくていいの?」
「いいのよ。パンだけでも持ってってくれたし」
「なんか、怖い子だった」
「仕方ないわ。急に優しくされても、信じられないでしょう」
「そうなの?」
「あぁ、でもあの服じゃ、悪いことしたわね」
「え?なんで?前のよりいいじゃない」
「……ルーク。さっきの子の服、見たでしょ?」
「うん。汚かった」
「そうね。でも、そんな服を着てた子がいきなり上質な服を着ていたら、周りがどう見る?」
「え?……羨ましい、かな」
「そうね。欲しい、と思うわね。盗ってでも、手に入れようとする人もいるかもしれないわ」
「あ……。そうか。だから、服を洗ってたのか」
「えぇ。返してあげたかったけど、もう行ってしまったわね」
その部屋には、冷めたスープと果物が残されていた。
街の片隅、薄汚れた路地裏の一角には、ひっそりと明かりが灯り、そこへ住む人々が細々と生活している。子供は物陰に隠れながら、パンを頬張る。誰かに見られる前に、盗られる前に腹に入れないといけない。柔らかいパンなんて、物心ついたときから、食べたことなかった。味わいたかったが、そうはいかない。湯気のたったスープは、香りがよくどんな味がするのか食べてみたかったのは、本音だ。だが、毒が入っているかもしれない。食べたら最後、何を要求されるかわかったものではない。
自分を助けたと言った女も、周りの侍女たちも、隣にいた子供も、誰も信用出来なかった。信用できるのは、自分だけだった。
子供は重たい足取りで、家へと戻った。錆びついたドアを開けると、空いた酒瓶がすぐそばで転がっている。
「遅かったじゃねえか、ジーク」
ジークと呼ばれたその子供は、酒瓶を拾うと、木箱へと戻した。呼んだ男は、赤い顔をして、別の酒瓶を煽っていた。
「おかえり、ジーク。なぁに?その服。ずいぶんいい服着てるじゃない!」
「ただいま、母さん、父さん」
ジークは部屋にいる男女へと顔を向ける。ジークを迎えたの女もまた、顔を赤くしている。
「ごめん。今日は金盗って来れなかった」
ジークは俯きながら言った。昼間の失敗を思い出す。通行人の懐から財布をすろうとして、捕まってしまった。男たちに殴られていたが、変な女が止めてくれたまでは覚えている。そこから、気がついたら見知らぬ場所で、綺麗な服を着せられていた。しかも、体は綺麗に洗われ、食事まで用意されていた。あのまま、あそこにいたら何をされるのかわかったものではない。それでも何も持ち帰れなかったことを、両親が怒るのではないか、それが怖かった。
ジークはすぐに顔を上げる。
「でも見て!」
少しだけ明るい声になる。服の裾を引っ張った。
「いい服だろ?これ売れば、金になるよね」
母親の目が服へ向く。途端に顔が輝いた。
「そうね!いい生地だし、端金盗るよりよっぽどいいわ!」
ジークはほっとする。怒られなかった。それだけで嬉しい。
「さすがね、ジーク!」
母親はジークの頭を撫でて、褒める。その言葉に胸が温かくなる。父親も酒瓶を揺らしながら笑った。
「おう、やるじゃねぇか」
赤ら顔でニヤニヤしている。
「いい金ヅルでも見つけたのか?」
ジークは少し迷った。昼間の女のことを思い出す。綺麗な服を着て、優しい声でジークに微笑みを向ける変な女だった。
「別に」
ぶっきらぼうに答える。父親は興味なさそうに酒を煽る。
「風呂も入れてもらったのか?」
「え?気がついたら綺麗になってた」
父親は、何か思案するように顎に手を当てる。
「明日も行け」
「え?」
「その服くれた奴んとこだよ」
ジークが顔を上げる。
「領主のとこだったよ。貴族だよ?」
「いいじゃねえか。何が目的か知らねえが、もらえるもんはもっと貰ってこい」
父親は当然のように言った。
「でも……、捕まったら何されるか」
「盗んでこいとは言ってねぇだろ。貴族様の施しはありがたく頂いてこい」
「うん」
「とりあえず、その服は脱いで、明日売ってこい」
父親はそれだけ言うと、興味を無くしたように再び酒を煽った。母親がジークの服を脱がそうと近づく。上着を脱ごうと腕を上げた時に、ジークは殴られた体が痛んだ。
「痛っ」
「まぁ、ジーク。傷だらけじゃない」
「うん。今日ちょっと失敗しちゃって」
母親はジークの体をぎゅっと抱きしめる。酒の匂いとともに、暖かな体温が伝わる。
「……ごめんね。母さんたちが、こんなで」
ジークにしか聞こえないよう小声で、母親はそっと謝る。ジークは母親の背中に手を回す。心配してくれている。それだけが嬉しかった。
「大丈夫。今度はもっと上手くやるから」
「……ジーク」
再び抱きしめる腕に力がこもった。しばらくすると、体は離れる。
「汚す前に、脱いどこっか」
母親は笑顔で、そう言った。
これが、ジークの日常だった。




