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皇国のアリーシャ  作者: 岡井チマ
第三部
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第十一章-2 血の残響

 一方、帝国では、皇国の施設の外交が終了し、明日帰国の準備に追われていた。そして、ルークはセレナに請われ、皇帝セヴェルスを見舞うことになった。

 ルークとしては、今さら父親かもしれない男に会うつもりなどなかった。だが――。


「実は、父の容体はあまり思わしくありません。会えるとしたら、今をおいて他には無いでしょう」


 セレナは静かに言った。


「息子と明かす必要はありません。皇国の王配として、皇帝を見舞ってくだされば構いません」


 そう言われてしまえば、断ることなどできなかった。セレナに案内され、ルークは皇帝の寝所へと足を踏み入れる。

 皇帝セヴェルスは上半身を起こし、静かにこちらを見ていた。頬は痩せこけ、眼は落ち窪んでいる。だが、その眼光の鋭さは未だ衰えていない。


「お父様。お加減はよろしいようですね」


 セレナが穏やかに声を掛ける。


「こちらは、セレスティア皇国――アリーシャ陛下の王配殿下でございます」


「……お初お目にかかります。セレスティア皇国より参りました。ルーク・アリスター・セレスティアと申します」


 ルークは、静かにセヴェルスを見つめる。セヴェルスの落ち窪んだ眼が、かっと見開かれる。老いた皇帝は、言葉を失ったようにルークを見つめていた。

 しばらくの沈黙の後――、セヴェルスはゆっくりと口を開いた。


「……これはまた、面白い客人だ」


 かすれた声だったが、その眼は鋭い。


「ようこそ参られた。……このような姿で、すまぬな」


「とんでもございません。陛下にお目通り叶い、光栄にございます」


 セヴェルスはしばらくルークを見つめていたが、ふと呟いた。


「……アリスターか。あまり聞かぬ名だな」


「新興の家にございます。皇国で頂きました」


「そうか」


 短い沈黙が落ちる。


「新興で――女皇の王配、か」


 その言葉には、どこか含みがあった。やがてセヴェルスは再び口を開く。


「貴殿は、御年はいくつだ」


「二十七にございます」


「そうか」


 セヴェルスの眼が、ゆっくりとルークの体つきをなぞる。


「その体……剣を振るうのか」


「ええ。嗜む程度ではございますが」


「嗜む、か……」


 かすかな笑みが、老皇帝の口元に浮かんだ。やがて、セヴェルスは静かに言った。


「大した男だ」


 そして、ふと問う。


「貴殿の信条はなんだ?」


 ルークは一瞬だけ考え、答えた。


「――人を尊重すること、です」


 その言葉を聞いた瞬間、セヴェルスの眼がわずかに揺れた。ほんの一瞬のことだった。やがて老皇帝は、静かに息を吐く。


「……そうか」


 それ以上は、何も言わなかった。

 その後、しばらくセレナを交え、他愛のない話が続いた。やがてルークは静かに一礼し、寝所を辞した。


 扉が閉まり、残されたセヴェルスの脳裏に、一人の女性の姿が浮かんでいた。


(ちょうどあの女が去ったのも、27年くらい前か……)


 決して折れず、屈せず。それでいて、人の内面を遠慮なく見透かしてくる。その眼差しは静かで――柔らかな雰囲気は、あの頃のままだった。

 セヴェルスはゆっくりと目を閉じる。


「……そうか」




 長い廊下には人影はなく、窓から差し込む午後の光だけが静かに床を照らしていた。しばらく無言で歩いたあと、セレナが足を止めた。


「……ありがとうございました」


 振り返らずに言う。ルークも立ち止まった。


「いえ。見舞いに伺っただけです」


「それでも」


 セレナはゆっくりとこちらを振り向く。その表情はいつもの冷静な皇女のものだったが、瞳の奥だけがわずかに揺れていた。


「父は……久しぶりに穏やかな顔をしておりました」


 ルークは何も答えない。沈黙が落ちる。やがてセレナは小さく笑った。


「きっと、父上はお気づきになったでしょうね」


 その言葉に、ルークの視線がわずかに動いた。


「……何を、ですか」


「貴方が息子だと」


 静かな声だった。


「兄上たちはあなたを、帝国を揺るがす“可能性”として見ております。

 ですが私は……皇国でのあなたを見ていて分かりました」


 ほんの少しだけ視線を伏せる。


「父に似ていると思いました。強さではなく――在り方が」


「だからこそ、敵にしてはならないとも思いました」


 ルークはしばらく黙っていたが、やがて低く言う。


「私は帝国と争うつもりはありません」


「ええ。分かっております」


 セレナは微笑む。


「それでも帝国は、その“可能性”を放っておけないでしょう。どうか……これからもお気をつけください」


 一歩近づき、静かに続けた。


「それに……、アリーシャ陛下が少し羨ましいと思いました。あなたのような方が隣にいらっしゃるのが」


 二人はそれ以上言葉を交わさなかった。やがてルークは一礼し、歩き出す。廊下の向こうへ消えていくその背を、セレナはしばらく見つめていた。そして小さく呟く。


「……どうか、お幸せに」


 それは帝国の皇女としてではなく、一人の妹としての祈りだった。




 その夜、客室の窓を開けると冷たい風がゆるやかに流れ込んでくる。城下に見える灯りは、そこに生きる人々の生活だ。皇国とは、比べられ無いほど無数に広がる灯りを見下ろし、ルークは一人窓辺に立っていた。


 帰国の準備はすでに整っている。明日になれば、この国を離れる。――それで終わりだ。そう思っていたはずだった。だが胸の奥には、言いようのない感情が静かにあった。


 寝所で見た、あの男の眼。鋭く、老いてなお衰えぬ威圧。そして――ほんの一瞬だけ見せた、揺らぎ。


(……やはり、どこが似ているのか、俺にはわからないな)


 自嘲するように小さく息を吐く。父などいないと思って生きてきた。必要だと感じたこともない。


 ルークには母がいた。支えてくれる人々がいた。そして今は――帰る場所がある。それだけで十分だったはずだ。


 だが、もしあの男が本当に父ならば、自分はこの城の中で育ち、帝国の皇子として生きていたのか。覇を争い、剣を振るい、血を流していたのか。

 だが次の瞬間、ルークは目を閉じた。その可能性を想像してみても、やはりどこか他人事のようであった。

 脳裏に浮かんだのは、朝の柔らかな陽射し。腕に抱く小さな赤子。そして――静かに微笑む一人の女性。


「……馬鹿らしい」


 小さく呟く。どんな血が流れていようと関係ない。どこで生まれたかも関係ない。自分が選んだ場所は、もう決まっている。守りたいものも、守るべきものも。


 ルークは窓を閉めた。夜の冷気が遮られ、部屋に静けさが戻る。剣を壁に立てかけ、灯りを落とす。明日になれば帰る。


 ただ一人の女王のもとへ。

 そして、まだ小さな我が子のもとへ。


 それでいい。それが――自分の人生だ。ルークはゆっくりと寝台に身を横たえた。帝国で過ごす最後の夜は、驚くほど穏やかに更けていった。



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