第十一章-2 血の残響
一方、帝国では、皇国の施設の外交が終了し、明日帰国の準備に追われていた。そして、ルークはセレナに請われ、皇帝セヴェルスを見舞うことになった。
ルークとしては、今さら父親かもしれない男に会うつもりなどなかった。だが――。
「実は、父の容体はあまり思わしくありません。会えるとしたら、今をおいて他には無いでしょう」
セレナは静かに言った。
「息子と明かす必要はありません。皇国の王配として、皇帝を見舞ってくだされば構いません」
そう言われてしまえば、断ることなどできなかった。セレナに案内され、ルークは皇帝の寝所へと足を踏み入れる。
皇帝セヴェルスは上半身を起こし、静かにこちらを見ていた。頬は痩せこけ、眼は落ち窪んでいる。だが、その眼光の鋭さは未だ衰えていない。
「お父様。お加減はよろしいようですね」
セレナが穏やかに声を掛ける。
「こちらは、セレスティア皇国――アリーシャ陛下の王配殿下でございます」
「……お初お目にかかります。セレスティア皇国より参りました。ルーク・アリスター・セレスティアと申します」
ルークは、静かにセヴェルスを見つめる。セヴェルスの落ち窪んだ眼が、かっと見開かれる。老いた皇帝は、言葉を失ったようにルークを見つめていた。
しばらくの沈黙の後――、セヴェルスはゆっくりと口を開いた。
「……これはまた、面白い客人だ」
かすれた声だったが、その眼は鋭い。
「ようこそ参られた。……このような姿で、すまぬな」
「とんでもございません。陛下にお目通り叶い、光栄にございます」
セヴェルスはしばらくルークを見つめていたが、ふと呟いた。
「……アリスターか。あまり聞かぬ名だな」
「新興の家にございます。皇国で頂きました」
「そうか」
短い沈黙が落ちる。
「新興で――女皇の王配、か」
その言葉には、どこか含みがあった。やがてセヴェルスは再び口を開く。
「貴殿は、御年はいくつだ」
「二十七にございます」
「そうか」
セヴェルスの眼が、ゆっくりとルークの体つきをなぞる。
「その体……剣を振るうのか」
「ええ。嗜む程度ではございますが」
「嗜む、か……」
かすかな笑みが、老皇帝の口元に浮かんだ。やがて、セヴェルスは静かに言った。
「大した男だ」
そして、ふと問う。
「貴殿の信条はなんだ?」
ルークは一瞬だけ考え、答えた。
「――人を尊重すること、です」
その言葉を聞いた瞬間、セヴェルスの眼がわずかに揺れた。ほんの一瞬のことだった。やがて老皇帝は、静かに息を吐く。
「……そうか」
それ以上は、何も言わなかった。
その後、しばらくセレナを交え、他愛のない話が続いた。やがてルークは静かに一礼し、寝所を辞した。
扉が閉まり、残されたセヴェルスの脳裏に、一人の女性の姿が浮かんでいた。
(ちょうどあの女が去ったのも、27年くらい前か……)
決して折れず、屈せず。それでいて、人の内面を遠慮なく見透かしてくる。その眼差しは静かで――柔らかな雰囲気は、あの頃のままだった。
セヴェルスはゆっくりと目を閉じる。
「……そうか」
長い廊下には人影はなく、窓から差し込む午後の光だけが静かに床を照らしていた。しばらく無言で歩いたあと、セレナが足を止めた。
「……ありがとうございました」
振り返らずに言う。ルークも立ち止まった。
「いえ。見舞いに伺っただけです」
「それでも」
セレナはゆっくりとこちらを振り向く。その表情はいつもの冷静な皇女のものだったが、瞳の奥だけがわずかに揺れていた。
「父は……久しぶりに穏やかな顔をしておりました」
ルークは何も答えない。沈黙が落ちる。やがてセレナは小さく笑った。
「きっと、父上はお気づきになったでしょうね」
その言葉に、ルークの視線がわずかに動いた。
「……何を、ですか」
「貴方が息子だと」
静かな声だった。
「兄上たちはあなたを、帝国を揺るがす“可能性”として見ております。
ですが私は……皇国でのあなたを見ていて分かりました」
ほんの少しだけ視線を伏せる。
「父に似ていると思いました。強さではなく――在り方が」
「だからこそ、敵にしてはならないとも思いました」
ルークはしばらく黙っていたが、やがて低く言う。
「私は帝国と争うつもりはありません」
「ええ。分かっております」
セレナは微笑む。
「それでも帝国は、その“可能性”を放っておけないでしょう。どうか……これからもお気をつけください」
一歩近づき、静かに続けた。
「それに……、アリーシャ陛下が少し羨ましいと思いました。あなたのような方が隣にいらっしゃるのが」
二人はそれ以上言葉を交わさなかった。やがてルークは一礼し、歩き出す。廊下の向こうへ消えていくその背を、セレナはしばらく見つめていた。そして小さく呟く。
「……どうか、お幸せに」
それは帝国の皇女としてではなく、一人の妹としての祈りだった。
その夜、客室の窓を開けると冷たい風がゆるやかに流れ込んでくる。城下に見える灯りは、そこに生きる人々の生活だ。皇国とは、比べられ無いほど無数に広がる灯りを見下ろし、ルークは一人窓辺に立っていた。
帰国の準備はすでに整っている。明日になれば、この国を離れる。――それで終わりだ。そう思っていたはずだった。だが胸の奥には、言いようのない感情が静かにあった。
寝所で見た、あの男の眼。鋭く、老いてなお衰えぬ威圧。そして――ほんの一瞬だけ見せた、揺らぎ。
(……やはり、どこが似ているのか、俺にはわからないな)
自嘲するように小さく息を吐く。父などいないと思って生きてきた。必要だと感じたこともない。
ルークには母がいた。支えてくれる人々がいた。そして今は――帰る場所がある。それだけで十分だったはずだ。
だが、もしあの男が本当に父ならば、自分はこの城の中で育ち、帝国の皇子として生きていたのか。覇を争い、剣を振るい、血を流していたのか。
だが次の瞬間、ルークは目を閉じた。その可能性を想像してみても、やはりどこか他人事のようであった。
脳裏に浮かんだのは、朝の柔らかな陽射し。腕に抱く小さな赤子。そして――静かに微笑む一人の女性。
「……馬鹿らしい」
小さく呟く。どんな血が流れていようと関係ない。どこで生まれたかも関係ない。自分が選んだ場所は、もう決まっている。守りたいものも、守るべきものも。
ルークは窓を閉めた。夜の冷気が遮られ、部屋に静けさが戻る。剣を壁に立てかけ、灯りを落とす。明日になれば帰る。
ただ一人の女王のもとへ。
そして、まだ小さな我が子のもとへ。
それでいい。それが――自分の人生だ。ルークはゆっくりと寝台に身を横たえた。帝国で過ごす最後の夜は、驚くほど穏やかに更けていった。




