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皇国のアリーシャ  作者: 岡井チマ
第三部
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第十一章-1 女皇の矜持

 澄み渡った朝の空を見上げながら、アリーシャは静かにルークを想っていた。腕の中では、アルシオが無心に乳を吸っている。まだ幼いこの子には、父がどのような場所にいるのかなど分かるはずもない。だが――アリーシャにも分からない。


 今頃、帝国には到着したのだろうか。

 無事でいるのだろうか。

 ジークハルトたちは……

 祈らずにはいられなかった。


 しばらくすると、ネリーら侍女たちが訪れる。


「アリーシャ様、おはようございます。起きていらっしゃいますか」


「おはよう、起きているわ。今、アルシオにご飯をあげているの」


「左様でございますか。では、また後ほど着替えにいたしましょう。隣に、朝食もご用意しておきます」


 ネリーはそっと退室し、朝食の準備をはじめる。皇国ではいつもと変わらない日常だ。飲み終えたアルシオは満足げに、笑ってアリーシャを見上げている。アリーシャも、微笑みながらアルシオを抱きしめた。


 朝食後、アリーシャは宰相らと共に朝議へと向かう。朝議の内容もいつも通り。帝国からの知らせもまだ、無い。朝議が終わり、貴族や文官たちが退室していく中で、アリーシャに声を掛けてくる者がいた。50代くらい、眼光は鋭いが、やや肩が下がっている。確か伯爵位であったか……。アリーシャと年は変わらないであろう、10代後半の金髪の少年を伴っている。


「ご機嫌麗しゅうございます、陛下。少しお時間をいただけますか。紹介したいものがおります」


 アリーシャは柔らかい笑顔で対応する。


「構いません。お伺いしましょう」


「ありがとうございます。こちらの者は、我が伯爵家の三男坊でございまして。」


 少年は、金髪に少し緑が混じったような碧眼をしている。そういえば皇族の皇女が先代当主に輿入れされたのだっただろうか。伯爵には似ず、整った顔立ちをしている。


「王配殿下が帝国へと赴かれ、さぞお寂しい思いでいらっしゃることでしょう。陛下のお心が少しでも安らぐよう、よろしければ、愚息をお側に置かれてはいかがでしょう」


 アリーシャは耳を疑った。笑顔はかろうじて保ってはいるが、この男が何を言っているのか、理解できなかった。


「愚息は母に似て、このように金髪に碧眼をしております。もし、ご懐妊されれば、皇族の色を継ぐ御子ができますでしょう」


 アリーシャは息をするのも忘れた。拳が、ギリっと握られる。穏やかな微笑みはかろうじて保っていた。


「ーー伯爵の進言、ありがとうございます」


 声は丁寧だった。しかし、近しいものが聞けば、刃のように怒気を孕んでいるのがわかる。確かに皇国は、血脈と歴史を重んじてきた国だ。皇族の色を継ぐ御子を望む声があることも――理解している。

 だが今、ルークの不在のこの時に、アリーシャにそれを勧めてくる。その神経が理解できない。

 伯爵の口元がわずかに緩む。だが次の瞬間、アリーシャの瞳が静かに細められた。


「ですが、王配の不在時を狙って、そのような進言をなさるとは……随分と早計ではありませんか」


 伯爵の顔がわずかに強張る。だが、引かなかった。


「失礼ながら、陛下。私は決して王配殿下や皇子殿下を軽んじているわけではございません」


 周囲がざわめく中、伯爵は淡々と言葉を続ける。


「しかし皇国は、長きにわたり皇族の血を柱としてきた国家。民もまた、それを望んでおります」


 宰相は一歩踏み出しかけ――そして止まった。伯爵は深く頭を下げる。


「王配殿下がご不在の今、万が一という事も考えねばならぬのが臣の務め。これは陛下のため、そして皇国のための進言にございます」


 その時だった。


「……父上、もうおやめください」


 三男が、顔を青くし明らかに戸惑っている。伯爵の袖を引き、父親を止めようとするが、伯爵は鋭く振り返る。


「黙れ」


 青年は口を閉ざし、視線を落とした。アリーシャは、その様子を静かに見ていた。そしてゆっくりと口を開く。


「そうですか」


 一歩、伯爵へ歩み寄る。


「では伯爵は、こう仰るのですね。王配が不在の今こそ――私が“より正統な御子”を成すべきだと」


 ざわめきが、ぴたりと止まった。アリーシャの声は穏やかだったが、氷のような微笑を浮かべている。


「それが皇国のためだと。……随分とご都合のよい忠義ですね」


 伯爵の顔色が変わり、沈黙が広がる。アリーシャはまっすぐ伯爵を見据えた。


「王配は生きております。そしてアルシオは――私と王配の子です。その事実を軽んじるような提案を、私は受け入れるつもりはありません。……どうしても必要なのであれば、ルークと相談した上で決めることとしましょう」


 その言葉が落ちた瞬間、朝議の間の空気が凍りついた。誰一人、息をすることさえ憚られるような静寂。宰相は静かに視線を伏せた。――だがこれは陛下自らが裁くべき局面だ。


 周囲の貴族たちは顔を見合わせる。中にはかすかに頷く者もいた。伯爵の言葉が決して突飛なものではないことを、この国の歴史を知る者ほど理解しているからだ。

 だが同時に――今の女皇の怒りが、正当なものであることも。

 伯爵の三男は蒼白なまま立ち尽くしていた。視線は床に落ち、肩が小さく震えている。


(なぜ……こんなことに)


 父の言葉の意味は理解している。それが政治であることも分かる。だが、目の前の女皇は――かつて兄王の後ろで静かに微笑むだけの少女ではなかったか。三男の記憶には、俯きがちなアリーシャの姿しかなかった。


 だが目の前の女皇からは、誇りを傷つけられた者の静かな怒りと気迫が感じられた。その強さに、少年は息が詰まる思いがした。

 やがてアリーシャが踵を返すと、凍りついていた空気が一気に動き出した。廊下へ出ると、控えていた貴族たちの間にざわめきが広がる。


「……今のは、少々言い過ぎでは」

「だが、伯爵の言い分も分からぬではない」

「いや、王配殿下はご存命だぞ」

「だが帝国に赴いておられる。万一があれば……」


 低い声が波のように重なる。そのざわめきの中を、アリーシャは一度も振り返らず歩いた。足音だけが石床に静かに響いた。


 ――ルークが戻るまで。この国は、私が守る。


 その想いだけが、胸の奥で静かに燃えていた。


 執務室の扉を閉めた直後、アリーシャはようやく深く息を吐いた。張り詰めていた肩の力が一気に抜ける。ネリーが静かに歩み寄る。


「……よくお耐えになりました、アリーシャ様」


 アリーシャはソファーに腰掛け、眉間を押さえる。今になって、じわじわと心労が押し寄せる。


「耐えた、のかしら。……怒りを抑えるのに必死だったわ」


 ネリーは少し微笑む。


「それでも、毅然としていらっしゃいました」


「あのくらいは言わせてもらわないと、腹の虫が治らないわ」


 アリーシャのらしく無い言葉に、ネリーは思わず笑ってしまった。


「でも、私もスカッといたしました」


 二人で笑い、執務室の空気は少し和らいだ。ルークが無事戻るまで、皇国も、アルシオもーー私が守る。そう改めて決意したのだった。




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