(3)待つしかない
出産から数日が過ぎた。出血はひとまず治まったものの、あまりにも多くの血を失ったアリーシャは、起き上がることさえできなかった。意識は絶えず浮き沈みし、目を開けているときでさえ、長い夢の中にいるようだった。
アリーシャの母もまた、娘を産んだあと、産後の肥立ちが悪く、その腕に我が子を抱くことのないまま息を引き取った。母を亡くしたアリーシャを、父王は乳母に託した。さらにシュバルツ家へ降嫁していた妹を王城へ呼び戻し、ともに養育に当たらせた。九歳上の兄ケイネスも、叔母の息子である八歳上のカインも、幼いアリーシャを大切に、大切に慈しんでくれた。
母を知らずとも、愛されなかったわけではない。乳母にも、叔母にも、兄たちにも、父にも惜しみない愛を注がれて育った。それでもアリーシャは、時折どうしようもなく、無条件に甘えられる「母」という存在に憧れた。
だからこそ、アルシオが生まれたときも、エクシオが生まれたときも、できるかぎり自分の手で育てた。腕に抱き、乳を与え、泣けばあやし、眠るまでそばにいる。その一つひとつが、アリーシャにとって何ものにも代えがたい喜びだった。
けれど、今は――体が鉛のようで、指先ひとつ思うようには動かせない。赤子の泣き声が聞こえた気がして、アリーシャは薄く目を開いた。けれど、視界にあるのは見慣れた寝室の天蓋だけだった。
あの子は、どこにいるのだろう。まだ一度もこの腕に抱いていない、小さく生んでしまった我が子。
(お母様も……このようなお気持ちだったのかしら)
我が子が生きているのか、温かな腕に守られているのかさえ確かめられず、ただ寝台の上で、自分の身体が回復するのを待つしかない。もしもこのまま死んでしまったら……。そんな思いが頭をもたげるが、それでも意識は再び深く沈んでいった。
再び目を覚ました時、寝台の傍らにはルークが座っていた。アリーシャの瞼が開くと、ルークは目に見えて安堵した。けれど、その顔は少しやつれている。自分が眠っている間も、ずっとそばにいてくれたのだろうか。
「……ルーク」
「アリーシャ、気分はどうだ?」
ルークは椅子から立ち上がり、寝台の縁へ座り直した。頬へ触れた手はとても温かく、そのぬくもりにアリーシャは目を細めた。
「体が、とても重たいわ」
「無理もない。ひどく血を失ったんだそうだ」
「わたくしは、どのくらい眠っていたの?」
「出産から、今日で三日になる」
「三日……」
それほどの時間が過ぎていたことに、アリーシャは愕然とした。
「あの子は……?あの子は、どうしてるの?」
かすれた声でルークへ尋ねる。先ほど、泣き声が聞こえた気がした。でも、その小さな姿はどこにも見えない。
「ルナーリアなら心配するな。身体は小さいが、しっかりと乳を飲んでいるそうだ」
「ルナーリア……」
「ああ。女の子だ。俺たちで決めていた名をつけた」
「そう……。女の子だったのね」
まだ、娘であることさえ知らなかった。ルナーリア。いつか生まれてくる娘のために、二人で選んだ名前。その名を、まだあの娘に、呼んであげることすらできない。
「急なことだったが、乳母もすぐに手配した。宮廷医もついている。だから今は、自分の身体を休めることだけ考えろ」
「乳母が……」
乳をしっかり飲んでいる。その言葉には心から安堵した。小さく生まれた娘は、きちんと生きようとしている。それなのに、胸の奥には自分が母親でなくなってしまったような寂しさが広がる。一度もルナーリアに会えていない、この腕に抱いていない。名前を呼んであげることすらできない。
「アルシオと、エクシオは……?」
「二人とも元気だ。お前に会いたがっている」
「そう……」
娘にも、息子たちにも会えない。皆が自分を待っている。早く身体を起こして、子供たちのところへ行きたい。そう思うのに、指先すら思うように動かなかった。
(寒い……、身体が重たい……。あの娘に会いたい……。でも、ひどく眠いわ……)
*
その後、ルークはアルシオとエクシオをルナーリアのもとへ連れていった。ルナーリアの部屋へ入る前に、二人には何度も言い聞かせた。
「いいか。ルナーリアは予定よりも早く生まれたから、まだ身体がとても小さい。今日は見るだけだ。抱いてはいけない。わかったな」
「大丈夫。わかってる」
アルシオは神妙な顔でうなずいた。隣のエクシオは、どこまで理解しているのかわからない。それでも、父親の言いつけを守るつもりはあるらしく、同じように大きくうなずいた。
「僕も!わかってる!」
「ああ。母様はまだ身体を休めているから、ルナーリアもきっと寂しい。二人で、たくさん話しかけてやってくれ」
アリーシャについては、まだ身体を起こせないため、しばらく静かに休ませてあげてほしいと伝えていた。それで納得できているかはわからないが、二人とも今は辛抱してくれている。
部屋へ入ると、乳を飲み終えたところなのか、ルナーリアは揺り籠の中で静かに眠っていた。
「……わぁぁぁぁ……。かわいい」
「本当だ。妖精みたい……」
アルシオもエクシオも、ルナーリアを起こさないよう、声をひそめ、揺り籠の中の妹を見つめた。
「本当に小さいんだね……。頑張って生まれてきたんだね」
「そうだな。懸命に生きようとしているな」
ただただ妹がかわいい様子の二人に、ルークは胸の内が温かくなるのを感じた。ここにアリーシャがいれば、どれだけいいか。だが、それを一番感じているのは、誰でもないアリーシャだろう。
しばらく妹を見つめていたアルシオが、ふと小さく首を傾げた。
「ルナーリアは、僕と同じじゃないんだ……」
「同じ?」
「髪の色。母様とエクシオと同じなんだね」
「僕と同じ!」
すかさずエクシオが言う。誇らしげなその言葉に、アルシオは少し残念そうな顔をした。ルークは思わず、その頭を撫でた。
「アルシオは父様と同じは嫌か?」
「ううん。嫌じゃない。僕は大好き。……でも、父様の色じゃ、駄目なのかな」
アルシオのその言葉に、ルークの胸が強く締め付けられた。まだ五歳の息子が、自分の色は望まれないものなのかと、すでに考え始めている。きっと、エクシオやルナーリアの色を噂する大人たちの言葉を、どこかで耳にしたのだろう。自分自身は、黒い髪も赤みを帯びた茶色の瞳も、好きでも嫌いでもなかった。ただ生まれ持ったものとして、深く考えたこともない。だが、アルシオに受け継がれたその色を、同じようにどうでもいいものだとは思えなかった。
ルークはアルシオの前に膝をつき、そっと抱きしめた。
「駄目なわけがない」
「本当?」
「ああ。お前が俺と同じ髪と瞳で生まれてきたとき、父様は嬉しかった」
「嬉しかったの?」
「当たり前だろう」
ルークが迷わず答えると、アルシオはわずかに安堵したように瞬いた。アリーシャの容態がまだ安定しないなか、ルーク自身も心身ともに限界に近い。それでも息子の小さな傷を見過ごさず、アルシオの小さな背中をさする。
「お前が俺の色を持って生まれたことも、エクシオとルナが母様の色を持って生まれたことも、同じくらい嬉しいよ」
アルシオは自分の前髪に触れ、しばらく考えるように俯いた。それから、ルークの髪にもそっと手を伸ばす。
「僕も、父様と同じで嬉しい」
「……そうか」
小さな手が黒髪に触れる。
「僕も!」
アルシオとルークに抱きつくように、エクシオも交じって三人で抱き合った。
*
その夜、子供たちを寝かせたあと、ルークは一人、執務室に残り書類に目を通していた。
「なんでこんなとこにいる?眠れてるか?」
不意に声のした方を見ると、ジークハルトが扉を開けて立っていた。
「これだけでも、目を通しておかないと」
「馬鹿。お前も休め。全然寝れてないだろ」
少し語気が強い。だが、ルークは聞き流し再び手元の書類へ視線を落とした。眠れていないのは事実だった。けれど寝台に戻ったところで、眠れる気はしない。手を止めれば、たちまち不安が胸を占める。もしもアリーシャの容態が回復しなかったらーー。
「読めてないだろ」
ジークハルトの手が伸び、ルークの前から書類を取り上げた。
「返せ」
「同じところを、さっきから何度も見てる」
指摘され、ルークは口を閉ざした。
ジークハルトは深くため息をつき、書類を置くと、机の端へもたれかけた。
「アルシオたちの前では、不安な顔はできないもんな。陛下の前でだって、ずっと気を張ってたんだろ。俺の前でくらいその顔やめてもいいんだぞ」
「その顔って、なんだよ……」
「父親と夫の顔だよ」
その一言で、ルークは眉を寄せた。反論しようとして、けれど言葉が続かなかった。
「怖いよな……」
その一言にルークの張りつめていたものが緩む。怖いに決まっている。アリーシャを失うかもしれない。まだ小さな子供を三人も残して、彼女がいなくなってしまうかもしれない。想像してしまうと、今でも胸の奥が冷えてしまう。
「……あのとき、アリーシャは腹を開けと言ったんだ」
ジークハルトの息を呑む音がした。
「万が一、出産にルナーリアが耐えられない場合は、自分の腹を開けと」
何の迷いもなく、そう言ったアリーシャの言葉は、今でもルークの胸を穿つ。どちらの命を優先させるか、ルークには判断できなかった。だが、アリーシャは自らと腹の子の命を秤にかけることなどしなかった。
「だが、俺は……、それでは残された俺や子供たちはどうするんだ、と」
「御子を見捨てられなかったんだろ」
「分かってる」
思わず吐き捨てるような言い方になってしまった。
「分かってるさ。俺だって、腹の子は諦めろ、なんて言えない。言えるはずない……」
アリーシャの選択が間違っていたとは思わない。それでも、彼女が自分の命をあまりにも容易く勘定から外したことが、恐ろしかった。ジークハルトは、アリーシャを庇わなかった。ルークを諫めることもしなかった。
「……そうか」
ただ、それだけを返した。
「陛下といい、フロレンス様といい、母親って怖いほど強いよな……」
ルークは答えなかった。アリーシャを責めることはできない。もし同じ選択を迫られたなら、きっと自分も同じだ。やり場のない怒りを吐き出したところで、アリーシャの容態が変わるわけではない。自分は何もできない。どれほど剣を振るえても、どれほど強くなっても、今のアリーシャにしてやれることが何もない。
「俺は……無力だ」
ようやく絞り出した声は、驚くほど弱かった。
「そばにいても、手を握ることしかできない。代わってやることもできない。ただ、回復するのを待って、祈ることしかできない」
「ああ」
ジークハルトはただ、聞いていた。否定も、慰めもしない。それでも、根拠のない励ましを口にされるより、ずっとよかった。
「お前まで、倒れたらどうすんだ。陛下が目を覚ました時、そばで手を握ってやるんだろ。んで、元気になられたら、小言でも言ってやれ」
「……そうだな」
「早く寝ろ。そんな急いで片づけなきゃいけないもんはないはずだ」
出産から十日が過ぎたころ、アリーシャはようやく峠を越えた。




