(2)小さな産声
※本話には、出産・産後出血・産後の心身の不調に関する描写があります。苦手な方はご注意ください。
知らせを受けたルークは、事情を理解できないままのアルシオとエクシオを侍女へ預け、産室へと駆け付けた。つい先ほどまで、サロンで穏やかに言葉を交わしていたばかりだった。破水したと聞かされても、あまりの突然さに現実感が追いつかない。
産室へ通されると、そこには青い顔のアリーシャと、その周囲を慌ただしく行き交う宮廷医や侍女たちの姿があった。
「アリーシャ。大丈夫か」
「大丈夫よ。ちょっと驚いただけ」
笑ってみせるアリーシャだったが、その顔からは血の気が引いたままだった。そこへ、宮廷医の一人がルークに声をかけてきた。アリーシャの容態について、説明するとのことで、ルークたちは産室の扉の前に移動した。
「今のところ、御子の鼓動に乱れはございません。陣痛も始まっておりますので、このまま御産が進む望みは十分にございます」
宮廷医はそう前置きしてから、重い声で続けた。
「ただ、陛下はもとより血が乏しく、長い御産に耐えられるだけの余力がございません。もし子宮の口が開かぬうちに御子の鼓動が弱まれば、産道からお出しするのは間に合わぬでしょう」
「……そのときは」
「御子を救うには、陛下の腹を開くほかございません。しかし、その処置に陛下が耐えられるかは――お約束できません」
アリーシャは妊娠中からずっと貧血気味だった。破水があっても、子宮の口が順調に開いてくれば、問題はないらしい。しかし、今はまだ陣痛が弱いため、いつ開き切るか予測できない状態だそうだ。腹を開く――子供を救うためとはいえ、今のアリーシャが耐えられるとは思えなかった。
「可能性の話でございます。ただ、万が一そうなった場合、陛下と御子、いずれのお命を優先するべきか。今のうちに御意志をお聞かせ下さいますか」
もちろんアリーシャを、と言いたかった。
だが、腹の子が生まれてくることを、アリーシャもルークも、息子たちも待ち望んでいたのも事実だ。何より、意識のあるアリーシャを置いて、ルークの独断で決められるものではなかった。
「……それを、俺一人に決めろというのか」
「事が起きてからでは、陛下にお尋ねする猶予がないかもしれません」
「今は意識がある。アリーシャにも説明をしてくれ」
そして、寝台のアリーシャは息苦しさや倦怠感を抱えながらも、説明を最後まで聞いた。
「そのときは、腹を開いてください」
「アリーシャ」
「この子を産道から出すのが間に合わないと、あなたがたが判断したときはです」
「だが、それではお前が――」
「この子は、まだ生きているのでしょう」
宮廷医が、静かに頷く。
「ならば、迷うことはありません。わたくしの腹を開きなさい。これは女皇としてではなく、この子の母としての命令です」
ルークはゆっくり寝台のそばで膝を折り、その手を強く握った。
「アリーシャ、大丈夫だ。きっと無事に生まれる。皆を信じて、頑張れ」
しかしそれは、ルークが自分に言い聞かせているようでもあった。アリーシャは額に汗をにじませながらも、ルークと目を合わせ、かすかに笑みを返した。こんな時まで、自分を安心させようとしている。そのことが、かえってルークの胸を締め付けた。
退室を促され、ルークは扉の外で、何もできずに待ち続ける。やがてどれだけの時間が経ったのか、弱い産声が聞こえ、皇女誕生が告げられた。
「皇女殿下がお生まれになりました」
「アリーシャは」
「陛下は、出血が多く……いま処置をしております」
「出血……」
「腹を切るには至りませんでしたが、産後の出血がなかなか止まらず、多くの血を失われました」
ルークは足元が大きく揺らいだように感じた。
「……それは、命に関わるほどか」
「出血はひとまず抑えております。しかし、陛下のお身体が持ち直されるかどうか……数日は予断を許さない状態でございます」
ルークは言葉を失った。
「また、皇女殿下もお体が小さく、陛下が今授乳をできる状態ではないため、乳母がすぐにでも必要です」
「……ああ。そうだな。乳母の候補となっていた者たちをすぐに登城させよう。皇女のもとには宮廷医を一人就かせてくれるか」
「もちろんでございます。あの……、皇女殿下のお名前はいかがなさいますか?」
ルークはすぐに答えられなかった。皇女であれば、この名にしよう。そう決めた時のアリーシャの笑顔が、脳裏に浮かぶ。二人で初めて呼ぶはずだった。腕に抱き、無事に生まれてきてくれたことを喜びながら。
それでも、名を持たぬままにはしておけない。侍女の腕に抱かれた小さな娘を、見つめ、かすれた声で、その名を呼んだ。
「……ルナーリア」
父として喜ぶ余裕はない。宮廷医から「しばらくは予断を許さない」と告げられ、ルークはアリーシャを失い、三人の子を一人で育てる未来を想像してしまった。
アリーシャの様子を直に確認したかったが、入室は許可されなかった。ルークは、足早に宰相の元へ訪れ、皇女の誕生と、アリーシャの容態について説明した。宰相も、途中から合流したジークハルトも、その報告を重く受け止めた。
「誕生の報せは出す。しかし、祝宴は延期を。陛下の容態については、きつく外へ漏らさぬよう徹底しろ」
ルークの命を受け、乳母の手配と女皇の容態についての箝口令が早急に進められた。
自分の声とは思えないほど、平坦な声だった。命じることも、何をすべきかも、わかっている。でも、そうしていないと、膝が折れてしまいそうだった。今すぐにでもアリーシャの元へと駆け戻りたかった。しかし、ルークには、もう一つやらなければならないことがあった。妹の誕生を、皇子たちに伝えることだ。
アルシオとエクシオは、侍女らとともに、自室で大人しく待っていた。扉をたたくと、侍女ではなく二人が扉を開けて、ルークを迎えた。
「父様!赤ちゃん、生まれた!?」
二人の皇子に両手をひかれ、ルークは室内に入る。二人とも、今か今かと知らせを待っていたのだろう。期待に目を輝かせている。ルークは膝を折り、二人と目線の高さを合わせた。
「ああ。生まれたよ。女の子だ。名はルナーリアという」
「ルナーリア……」
「やったぁ!妹だ!」
アルシオは喜びを噛みしめているようで、対するエクシオは両手を上げ喜んでいる。それぞれの反応に、こわばっていたルークの胸の内が、ほんのわずかに温かくなった。
「母様は?」
アルシオの問いに、ルークは喉を詰まらせた。大丈夫だとは言えない。だが、五歳と三歳の子供に、母が危険な状態だとは到底告げられなかった。
「母様はとても疲れている。今は、そっとしておいてあげよう」
「会えないの?」
「……今は、まだ」
アルシオがそっとルークの頬へと手を伸ばした。
「父様、泣いてるの?」
アルシオに聞かれ、ルークは思わず息を呑んだ。涙は流していないつもりだった。しかし、アルシオにそう指摘されるほど、ひどい顔をしていたのかと思わされた。
「泣いていないよ。ただ、父様も疲れたのかな」
無理矢理に笑顔を作る。それでも、アルシオの心配そうな表情は変わらない。アルシオは小さな体で、ルークを抱きしめた。それを見ていたエクシオも、真似してルークを抱きしめてくれた。それが、ルークの崩れそうな胸をそっと温めてくれていた。
「ありがとう……」
ルークは二人をしばらく抱きしめた後、ゆっくりと腕をほどいて立ち上がった。二人の頭をなで、なるべく二人には普段通りに過ごさせるよう侍女へ言い置く。今は、アリーシャともルナーリアとも会わせることはできないが、二人の容態が落ち着けば、きっとまた家族そろって笑いあうことができる。そう、思うほかなかった。
二人を侍女へ託すと、ルークは再び産室へと足を向けた。娘の小さな産声は確かに聞いた。それでも、今はただ、閉ざされた扉の向こうから、もう一度アリーシャの声が聞こえることだけを願っていた。




