回診Ⅴ
次に呼ばれて入ってきたのは阿竹さんだった。
阿竹さんは少し緊張しているように見えたが、すみれを見つけると少しその表情を和らげてニコッとすると、慎ましく手を振る。
すみれも口元を緩めて軽く頭を下げた。
岡所がそれに気づいて、
「月山さん、阿竹さんのことも知っているのかい」
とすみれに聞いてきた。
「はい、阿子さんと一緒です。ボランティアで知り合って、お二人の部屋に訪問させていただきました」
「ああ、そうだったんだ」
「ええ。月山さん、お部屋に来てくださってウチのなつともすごく仲良くなってくれたんですよ」
阿竹さんも同意する。
「なつ?」
岡所が怪訝に聞き返すと、阿竹さんは少し慌てて説明する。
「あ、なつっていうのはウチにいる猫ちゃんのことなんです。とても人懐っこいんですよ」
「そうなんですか。僕も猫大好きなんですよねえ」
岡所は納得するとちょっと羨ましげな表情を浮かべる。
「なつちゃん、本当に人懐っこいんですよ。私初対面なのに、お腹を撫でさせてくれたんです!」
すみれは思わず口を出してなつのことを賛美した。
「本当に?いいなあ。僕も会ってお腹撫でさせて欲しい」
岡所は今度は本当に羨ましそうな顔をする。
阿竹さんはコロコロと笑った。
「今度もし良ければなつに会いにきてやってください」
「本当ですか?ぜひ」
「ええ」
岡所は腕を組んで宙を見る。どうやら本当に訪問するつもりなのかスケジュールの調整を考えているような様子だ。
すると看護師の女性がわざとらしく咳払いをする。
岡所が我に返って首をすくめると
「それでは診察の方に入りますね」
と言って改めて阿竹さんに向き直った。
「お身体の具合はどうですか?」
「ええ、最近は調子がいいんです」
「食欲や、睡眠はいかがですか?前は食欲が無くてあまり眠れてなかったようでしたが」
「だいぶ良くなったみたいです、最近は毎日よく眠れてます」
「いい事ですね。食事の方はいかがですか?」
「はい、前は一日一食がほとんどでしたけど、今は一日2食だったり3食の日もあるんです」
「うーん、それはだいぶ改善したみたいですねえ」
岡所は思わず、といった風に声を上げた。
「ええ、懐に余裕のある時は時々ですけど阿子さん達に付き合ってお肉も食べれるようになりました。」
「それはすごい。前は全然食べれなかったですものね」
「きっとそれもなつのおかげです」
「なつちゃんの?」
「はい、あの子食べっぷりが本当に良くて、幸せそうに食べてるのを見てるとこっちまで食べようかな、という気になってくるんです。それに寝るときも一緒に寝てるとすごくぐっすり寝られるみたい」
岡所は合点がいったように頷いた。
「そうでしたか。そりゃあなつちゃんのお手柄ですねえ」
「本当になつには感謝してます」
阿竹さんは微笑んだ。
「それじゃあ、血圧測ってみましょうか」
「はい、お願いします」
阿竹さんは腕をまくって差し出した。
「血圧は低いですね。でも前回測った時よりは高くて低すぎない程度です。少し改善ですね」
血圧を測り終えると岡所はそう言ってにっこり笑った。
「そうですか、安心しました」
「やはりなつちゃん効果ですかねえ」
岡所がそう言うと、
「そうだと思うんです。前は本当に物忘れや置き忘れとか多かったですし、同じことばかり聞いたりしてそれでまわりに迷惑をかけてしまって、すごく落ち込んでたんですけど、今はそれほど忘れることも無くて、忘れたり失敗したりしても落ち込むことがなくなってきたんです」
阿竹さんは大きく頷きながら答える。
「犬と触れ合うのは心身に良いらしいですが、猫もそうなんですかねえ」
岡所はちょっと考え込むような仕草をする。
「なつはすごく人懐っこくてまるで犬みたいなんです。だからかな」
阿竹さんは笑って言った。
すみれは阿竹さんの顔を見つめながら初めて会った時より確かに表情が柔らかくなったな、と感じる。
それはきっとなつと暮らし始めたことも大きいし、阿子さんや里平さんと一緒にいることも影響しているのだろうと思うのだった。
「はい、じゃあ心音聴きますね」
岡所はそう言って聴診器を装着する。
阿竹さんは頷いて上着を捲り上げた。
ほっそりとした白い背中が現れる。
腰周りにシワが寄り、肩甲骨のあたりの陰影が弱々しく見える。
岡所はしばらく聴診器を阿竹さんに当てて心音を聴いていたが、
「もういいですよ」
と言って、
「うん、とりあえず雑音も無いし大丈夫なようですね」
と微笑んだ。
「ありがとうございます」
阿竹さんは少し弾んだ声を出した。
「なつちゃんと触れ合うことでいい影響が身体に出てきたのかもしれませんね。あとは食べるものに気をつけて栄養をしっかりとってください。阿竹さんは今まで食欲が落ちてましたから三食しっかりとってもらえれば大丈夫だと思います」
「はい、わかりました」
すみれは阿竹さんが以前より身体の調子が良くなってきたというのを聞いてホッとする。
きっと今まで阿竹さんは自分の頭の働きが衰えていくことがすごく不安だったのだ。
当たり前だ。
普通だと思っていた自分が自分でなくなっていく時間を過ごしているのだ。
不安に思わないほうがおかしい。
それはどれだけの不安だっただろう。
夜だって眠れず、それがずっと続いて、しかも進行していくのだ。
けれどなつが来たことで気持ちがやっと穏やかになったのだ。
本当に、良かった。
すみれはしみじみと感じると、またあの部屋にお邪魔してなつに会いに行こうと思った。




