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第9話:放課後の図書室、甘い血の匂い

本日3話目です

次回は明日投稿します



 旧校舎の廊下は、まるで巨大な怪物の食道の中に迷い込んだかのように、湿り気を帯びた重い空気で満たされていた。


 日高清春は、足音を殺す余裕もなく、板張りの床を蹴り上げて図書室へと走っていた。

 息が上がり、肺がヒューヒューと痛みを訴えている。

 普段、体育の授業でさえ適当に手を抜いてやり過ごしている事なかれ主義の彼にとって、全力疾走など何年ぶりかの行為だった。


「……はぁっ、はぁっ、くそっ……!」


 清春は、額に滲む汗を拭うのももどかしく、薄暗い廊下を突き進む。

 窓の外はすでに完全な夕闇に沈んでおり、旧校舎の電灯はとうの昔に切られている。

 頼りになるのは、窓から差し込む僅かな紫色の月明かりだけ。


 なぜ俺は走っているのか。

 誰の記憶にも残らないモブキャラとして、平和にマカロンやマドレーヌを焼いて卒業していくはずだったのに。

 どうして、得体の知れない化け物が巣食うこんなお化け屋敷に、自分から飛び込んでいるのか。


 答えは分かっている。

 俺の中に棲む、あの傲慢で美しい『牝の怪物』が、自分の獲物を横取りされそうになって、内側から激しく喚き散らしているからだ。


 ――早く行きなさい。私の愛らしい玩具が、汚らわしい泥どもに汚されてしまうわ。


 脳髄に直接響くような、甘くて、冷酷で、背筋が凍るほど嗜虐的な声。

 清春は、下腹部に重たく渦巻く熱を必死に押さえ込みながら、ようやく目的の場所――図書室の重厚な木扉の前に辿り着いた。


 ギィィィ……。


 錆びついた蝶番が、悲鳴のような音を立てて開く。

 図書室の中は、廊下以上に深く、底なしの暗闇に沈んでいた。

 無数に並ぶ高い書架が、迷路のように入り組み、巨大な墓標のように立ちはだかっている。


 その暗闇の奥。

 閉架書庫へと続く、重たい鉄扉の前に。

 一人の少女のシルエットが、フラフラと、まるで糸に操られる操り人形のように立っていた。


「……八束さん!」


 清春は、迷わずその背中へ向かって駆け出した。


 彼女は、振り返らなかった。

 両腕をだらりと下げ、虚ろな足取りで、閉架書庫の鉄扉の取っ手に手を伸ばそうとしている。

 あの扉の向こう側には、彼女の魂を糸で引き寄せている、無数の吸精鬼どもが待ち構えているのだ。


「待てって……開けるな!」


 清春は、間一髪で綾の背後に追いつき、彼女の細い肩をガシッと掴んで、強引に自分の方へと引き寄せた。


「あ……」


 腕の中に崩れ落ちてきた綾の身体は、驚くほど軽かった。

 そして、氷のように冷たかった。

 生命力という生命力が根こそぎ奪われ、ただの抜け殻になってしまったかのような、痛ましいほどの冷感。


「八束さん、しっかりしろ! 俺だ、日高だ! 分かるか!?」


 清春は、腕の中でぐったりとしている綾の顔を覗き込んだ。

 分厚い眼鏡の奥の瞳は、焦点が全く合っておらず、白濁したように濁っている。

 半開きの唇からは、浅く、ひゅーひゅーという掠れた呼吸が漏れるだけ。


 だが。

 清春が彼女を抱きとめた瞬間。

 彼女の白い首筋から、強烈な匂いが立ち昇り、清春の鼻腔をダイレクトに打ち据えた。


「……っ!?」


 それは、ただの血の匂いではない。

 熟れきった果実が腐り落ちる寸前のような、強烈な甘さと。

 夜の底に咲く毒花のように、嗅ぐ者の理性を根本から麻痺させるような、むせ返るほど濃厚で芳醇な香り。

 これが、土蜘蛛の混血である彼女が放つ、怪異を狂わせる「極上の血の匂い」。


 ドクン!!


 清春の心臓が、破裂しそうなほど大きく跳ね上がった。


 ――あぁ、なんて甘くて、美味しそうな匂い。


 内なる姫の声が、歓喜に震えた。

 清春の体温が一気に急上昇し、項から背骨に沿って、ジリジリと焼け焦げるような熱が走る。

 腕の中にいる、この無防備で、柔らかくて、甘い匂いを放つ少女。

 今すぐ、このまま床に押し倒してしまいたい。

 あの白い首筋に歯を立て、甘い血の匂いを直接味わい、怯えて泣き叫ぶ赤い唇を私の唇で塞いで、私だけのマーキングで体の内側からドロドロに犯してしまいたい。


「……っ、ふ、ぐぅっ……!」


 清春は、自分の口から漏れそうになった淫らな吐息を、必死に奥歯を噛み締めて殺した。

 危ない。

 理性の綱が、あと一本、わずかな衝撃でプツリと切れてしまいそうだ。


 怪異から助けに来たはずの自分が、怪異以上に残酷な牝の捕食者となって、この場で彼女を蹂躙してしまいそうになる。

 男としての「日高清春」の理性と、妖怪としての「白鐘の姫」の発情が、一つの肉体の中で激しく主導権を争い、清春の脳を沸騰させていく。


『マスター。心拍数、交感神経、テストステロン値、すべてがレッドゾーンを突破しています。あなたの脳波は現在、深刻な「捕食・生殖モード」に移行しつつあります』


 ポケットの中で、シキが冷徹な事実を告げる。


(……黙れ、分かってる! 俺は、俺は男だ。……ただの、男子高校生だ!)


 清春は、腕の中で自分の胸に顔を預けている綾を、少しだけ乱暴に揺さぶった。


「八束さん! 起きろ! こんなところにいたら、本当に喰われるぞ!」


「……ん、……ぁ……」


 清春の必死の呼びかけに、綾の濁っていた瞳に、ほんの少しだけ光が戻った。

 彼女は、焦点の合わない目で清春の顔を見上げ、それから、自分が「男の腕の中」に抱きしめられているという事実に、ワンテンポ遅れて気づいたようだった。


「ひっ……!? あ、いやっ……!」


 極度の男性恐怖症である彼女の体が、ビクンと大きく跳ねる。

 彼女は残された力を振り絞って、清春の胸を突き飛ばし、後ずさりして本棚の角に背中を打ち付けた。


「な、なんで……日高くんが……ここに……。こないで、男の人は、いや……」


 彼女は、ガタガタと全身を震わせながら、両手で自分を抱きしめるようにして蹲った。

 怯えきった、小動物のような瞳。

 その瞳に映っているのは、怪異への恐怖と、目の前にいる「男」への恐怖が入り混じった、絶対的な絶望だった。


 清春は、突き飛ばされた胸を押さえながら、小さく息を吐いた。


 拒絶された。

 だが、それがいい。

 彼女が俺を怖がり、遠ざけようとしてくれることで、俺の中の『姫』の支配欲が少しだけ削がれ、男としての理性を保つための隙間ができる。


「……ごめん。急に触って。でも、聞いてくれ。ここは危ない。今すぐ、一緒にここから逃げるんだ」


 清春は、一歩だけ距離を空けたまま、静かで低い声で語りかけた。

 事なかれ主義の彼が、他人のためにこれほど真剣に言葉を紡ぐのは、人生で初めてのことだった。


「逃げる……? でも、私……」


 綾は、ぼんやりとした頭で、自分の胸のあたりを強く握りしめた。


「私、……引っ張られてるの。……見えない糸みたいなのに。……あそこへ、行かなきゃって。……あの中で、誰かが、私を待ってるって……」


 彼女の視線が、再びあの忌まわしい閉架書庫の鉄扉へと向かう。

 シキの言っていた通りだ。

 彼女の魂は、すでに半分以上、怪異の巣へと引きずり込まれてしまっている。

 物理的にここから連れ出そうとしても、あの因果の糸が繋がっている限り、彼女の精神は永遠に地獄の底へと縛り付けられたままなのだ。


 どうすればいい。

 変身すれば、あの糸を断ち切れる。

 俺の中の『姫』の絶対的な力なら、あんな下等な化け物どもの呪いなど、一瞬で氷漬けにして粉砕できる。

 だが。

 ここでトリガーを引いてしまえば、俺は確実に、目の前で怯える彼女を「自分の匂い」で上書きし、滅茶苦茶にマーキングしてしまう。


 男のまま、彼女を背負って逃げるか。

 それとも、化け物になって、怪異ごと彼女を蹂躙するか。


 清春が、究極の二択に歯を食いしばっていた、その時だった。


『――ピーッ! ピーッ! ピーッ!』


 突然、静まり返っていた図書室に、シキのけたたましい緊急アラートが鳴り響いた。


「っ!? シキ、どうした!」


『マスター! 緊急事態です! 対象「八束綾」が図書室に到達したことをトリガーとして、旧校舎の霊的空間が完全に反転しました!』


「反転……って、まさか!」


『はい。空間の「異界化」が完了しました。現在、この図書室は現世の物理法則から完全に切り離され、怪異の巣、すなわち「密室」へと変貌しました。出入り口はすべて消滅しています』


 シキの無機質な宣告と同時に。

 図書室の空気が、まるで水の中に沈められたように、ドロリと重く、粘り気を帯びたものに変わった。


 ピシャリ、と。

 背後で、清春が開けて入ってきたはずの図書室の扉が、見えない力によって勢いよく閉ざされる音がした。

 振り向くと、そこにあったはずの木製の扉は、コンクリートの壁と一体化するようにして、完全にのっぺらぼうな壁へと変わってしまっていた。


 逃げ道が、消えた。


「う、嘘だろ……」


 清春は、背中に冷たい汗が滝のように流れるのを感じた。


 そして。

 異界化が完了した図書室に、地獄の蓋が開く音が響いた。


 ギィィィ、ガチャンッ!!


 綾が吸い寄せられるように見つめていた、閉架書庫の重厚な鉄扉。

 それが、内側から凄まじい力で弾け飛んだのだ。


「ヒィッ……!?」


 綾が、短い悲鳴を上げて床にへたり込む。


 開け放たれた漆黒の入り口から。

 むせ返るような腐臭と、鉄錆のような血の匂いが、突風となって吹き荒れた。

 そして、その暗闇の奥から、ズルリ、ベチャリと、耳障りな水音を立てながら「それら」が這い出してきた。


 人間の負の感情と欲望の残滓から生まれた、醜悪な肉塊。

 不定形の汚泥のような体に、無数の充血した眼球が浮かび上がり、不規則に蠢く触手を持った化け物たち。

 吸精鬼の群れだった。


「ギ、ギヂ……ヂヂヂッ……」

「アァ……アマ、イ……匂イ……」


 十匹、二十匹……いや、それ以上。

 無数の吸精鬼たちが、床を這い、本棚をよじ登りながら、一斉に綾の方へと視線を向けた。

 彼らの充血した眼球には、極上の餌を前にした飢餓感と、下劣な欲望がギラギラと渦巻いている。


「あ……、あぁ……っ、いや……こないで……」


 綾は、腰を抜かしたまま後ずさるが、背中はすでに壁に阻まれている。

 分厚い眼鏡は床に転がり、彼女の視界はぼやけた絶望に染まっていった。

 吸精鬼たちの触手が、彼女の足元に向かって、ズルリ、ズルリと距離を詰めていく。


「やめろぉっ!!」


 清春は、考えるよりも先に動いていた。

 彼は、綾と吸精鬼の群れの間に立ち塞がるようにして飛び出し、両手を広げた。


「俺は、俺は……っ」


 声が震える。足がガクガクと笑っている。

 ただの男子高校生が、こんな化け物の群れを前にして、勝てるはずがない。

 そんなことは、嫌というほど分かっている。


『マスター。人間の肉体では、生存確率は0パーセントです。推奨アクション:大至急、魂の封印を解除し、変身を実行してください』


 シキの冷徹な声が、清春に最後の決断を迫る。


 目の前には、よだれを垂らしながら迫り来る醜悪な化け物の群れ。

 背後には、恐怖に震え、自分を拒絶しながらも、死の淵で涙をこぼす地味な図書委員の少女。


 事なかれ主義の平穏な日常は、完全に終わった。

 ここから先は、圧倒的な蹂躙と、甘く淫らな毒が支配する、最恐の姫の独壇場だ。


 清春は、覚悟を決めるように、深く、重い息を吸い込んだ。

 

最後までお読みいただき、ありがとうございます。


本作を応援してくださる方は、ぜひブックマークや下の評価【★★★★★】をいただけますと幸いです。


次回お楽しみに。

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