第10話:閉架書庫の怪異
本日3話更新します
1話目です
現世の理から完全に切り離された図書室は、もはや学園の一部ではなく、地獄の底へと続く巨大な胃袋そのものだった。
開け放たれた閉架書庫の鉄扉から、どす黒い汚泥のような怪異――吸精鬼の群れが、ズルリ、ベチャリと、耳障りな粘着音を立てて這い出してくる。
彼らの放つ腐臭と鉄錆のような血の匂いが、逃げ場のない密室に充満し、肺の奥底まで容赦なく侵食してくる。
「アァ……。アマ、イ……。甘イ、血……」
「喰ウ……。啜ル……。女ノ、肉……」
不定形の肉塊に浮かぶ無数の充血した眼球が、一斉に背後の八束綾へと向けられていた。
彼らの眼中に、立ち塞がった日高清春という「雄」の存在は微塵も映っていない。彼らの飢餓感と下劣な欲望のすべては、土蜘蛛の血を引く極上の生贄にのみ注がれていた。
「来るなっ!!」
清春は、傍らの閲覧机にあった分厚い百科事典をひっつかみ、先頭を這い進んできた巨大な吸精鬼に向かって力任せに投げつけた。
ドムッ、と。
鈍い音が響いたが、事典は怪異の泥のような肉体に深々とめり込み、そのままズルズルと飲み込まれて跡形もなく消滅してしまった。
物理的な攻撃など、彼らには痛くも痒くもない。ただの石ころを泥沼に投げ込んだのと変わらないのだ。
「ギ、ヂヂヂッ!」
邪魔をされたことに苛立ったのか、一匹の吸精鬼が、不規則にうねる触手を清春に向かって鞭のように振り抜いた。
「が、はっ……!?」
腐った肉でできた丸太のような一撃が、清春の腹部を容赦なく打ち据えた。
肺の中の空気が一瞬で吐き出され、視界が真っ白に明滅する。
清春の体は、紙くずのように宙を舞い、数メートル後方の重厚な木製書架に背中から激突した。
ガシャアアアンッ!
凄まじい衝撃音と共に、書架が大きく傾き、収納されていた何百冊という本が、雪崩のように清春の頭上へと降り注ぐ。
「……ぐ、あぁ……っ、かはっ……」
床に崩れ落ちた清春は、口の中に広がる生温かい鉄の味に咽せ返った。
肋骨が数本、確実にヒビ割れている。全身の筋肉が断裂したような激痛が走り、指先一つ動かすことすら困難だった。
息を吸うたびに、胸の奥で鋭い刃物が突き立てられているような感覚に襲われる。
これが、現実だ。
物語の主人公でもない、特別な力も持たない、ただお菓子作りが好きなだけの事なかれ主義の男子高校生。
そんなモブキャラクターが、勇気を出してヒロインの盾になろうとしたところで、奇跡など起きるはずがない。
圧倒的な暴力の前に、一秒で蹂躙されて終わる。それが、無力な人間に突きつけられる残酷な現実だった。
「ひ、だか、くん……っ!」
本の山の下で血を吐く清春を見て、本棚の隅で蹲っていた綾が、悲痛な叫び声を上げた。
彼女は、極度の男性恐怖症だ。
清春に触れられただけで怯え、後ずさるほど、男という存在を根源的に恐れている。
だが、その恐ろしいはずの「男」が、今、自分のために血を流し、命を散らそうとしている。
パニックに陥った頭の中で、恐怖と罪悪感がぐちゃぐちゃに混ざり合い、彼女の目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちた。
「に、逃げて……! お願い、逃げて……っ! 私のために、死なないで……っ!」
綾は、震える声で懇願した。
だが、異界化したこの密室に、逃げ道などどこにも存在しない。
「……逃げ、られるかよ。……ばか……」
清春は、血の混じった唾を吐き捨て、ガクガクと震える腕を床について、必死に立ち上がろうと足掻いた。
見捨てて逃げればよかったのだ。
彼女がどうなろうと、目を瞑って、耳を塞いで、家庭科室で一人平和にマカロンを焼いていればよかった。
そうすれば、こんな骨が砕けるような痛みも、命を奪われる絶望も味わうことはなかったはずだ。
だが、今の清春の脳裏を支配しているのは、後悔ではなかった。
それは、どうしようもないほどの「怒り」と「苛立ち」だった。
――あぁ、なんて無様な姿。見ていられないわ。
頭の奥底で、鈴を転がすような、傲慢で美しい女の声が響く。
――私の体をこんなに傷つけて。泥に塗れて、血を這って。……あなた、本当に腹立たしいほど弱いのね。
それは、清春の中に眠る大妖怪『白鐘の姫』の意識だった。
彼女は、清春が傷ついていることを心配しているのではない。自分の器である肉体が、下等な虫けらどもに傷つけられているという事実が、絶対的な女王としてのプライドを酷く傷つけているのだ。
――そこを退きなさい。……私の庭で、あの汚らわしい泥どもが、私の『可愛いおもちゃ』に触れようとしているじゃない。
姫の声が、サディスティックな怒りと、ドロリとした甘い発情を帯びて脳髄を震わせる。
清春が霞む視線を前に向けると、彼を吹き飛ばした吸精鬼の群れは、すでに清春には一切の興味を失い、ズルリ、ズルリと綾の方へ距離を詰めていた。
「アァ……。甘イ。イイ匂イ……。土蜘蛛ノ、雌……」
「交尾スル……。喰ウ……。中カラ、啜ル……」
耳を塞ぎたくなるような、卑猥で下劣な言葉の羅列。
怪異たちが放つ強烈な邪気にあてられ、綾はもはや悲鳴を上げることすらできず、壁に背を張り付かせてガタガタと震えている。
一匹の吸精鬼の触手が、蛇のようにうねりながら、綾の顔の高さまで持ち上がった。
ベチャリ、と。
その触手の先端が、彼女の顔を乱暴に叩く。
「あっ……!」
綾がいつもかけていた分厚い眼鏡が、無惨に弾き飛ばされ、暗闇の床のどこかへ転がって消えた。
視力を奪われ、完全な盲目状態となった彼女は、さらに深い絶望の淵へと叩き落とされた。
焦点の合わない目で虚空を見つめ、ひゅーひゅーと浅い呼吸を繰り返すことしかできない。
ズルリ。
別の触手が、床を這い、彼女の震える足元へと伸びる。
冷たく、ひどく生臭い粘液をまとったその先端が、綾の白い足首に巻き付いた。
「ひっ……!」
声にならない悲鳴。
触手は、彼女のローファーを乱暴に脱ぎ捨てると、むき出しになった素肌を、生々しい水音を立てながら這い上がり始めた。
ふくらはぎから、膝裏へ。
そして、制服のスカートの裾をめくり上げ、柔らかな太腿のさらに奥へと、醜悪な肉塊が侵入しようとする。
ジュルリ、ジュルリと、これから味わう極上の獲物を前にして、興奮に震えるような下劣な捕食音が四方から響く。
あまりにも悍ましく、吐き気を催すほどの絶望的な光景。
地味で大人しい一人の少女が、理不尽な暴力と欲望によって、今まさに生きたまま解体されようとしている。
「や、めろ……っ! やめろぉぉぉっ!!」
清春は、折れた肋骨の痛みも忘れ、血まみれの手を伸ばして絶叫した。
許せない。
あんな化け物どもが、あの大人しい少女の身体を、心を踏みにじることが。
そして、それ以上に。
俺の獲物に、俺以外の誰かが触れることが、魂の底から許せない。
――その通りよ。
姫の声が、清春の思考と完全にシンクロした。
――あの子は、私が蹂躙するの。私が怖がらせて、泣かせて、私の匂いでグチャグチャに溶かしてあげるの。……あんな薄汚い泥どもに、指一本だって触れさせない。
清春の下腹部から、爆発的な熱が湧き上がった。
それは、生存本能でも正義感でもない。
純度百パーセントの、ドロドロに煮詰まった「独占欲」と、雌としての「発情」だった。
あんな泥まみれの触手で穢されるくらいなら。
俺がこの手で、あの細い首筋に腕を絡め、逃げ場のないほど強く抱きしめて、俺の甘い猛毒で身体の奥底まで染め上げてやる。
あの赤い唇をこじ開け、舌を這わせ、極上の体温を交わしながら、恐怖と快楽でドロドロに溶かして。
俺以外の何者にも怯える必要がないように、俺だけの所有物として完全に作り変えてやる。
『マスター。心拍数、臨界点を突破。肉体の崩壊を防ぐため、強制的な自己防衛システムを起動します』
ポケットの中で、シキの無機質な合成音声が、死刑宣告のように静かに響いた。
『これより、魂の封印を解除。大妖怪「白鐘の姫」へのTS変身シーケンスを強行します。……マスター、あなたの人格がどこまで保たれるかは、私にも計算不可能です』
「……あぁ、もう、どうにでもなれ……っ!」
清春は、床に突っ伏したまま、血に染まった唇で凄絶な笑みを浮かべた。
事なかれ主義の日常は、ここで完全に終わった。
明日から、自分がどんな目で世界を見ることになるのか、どんな狂った愛情を背負い込むことになるのか、今はもうどうでもよかった。
ただ、目の前の醜い虫けらどもを、一匹残らず氷の塵に変えてやりたい。
そして、あの泣き叫ぶ少女を、自分の腕の中に閉じ込めて、一生逃げられない呪い(マーキング)をその唇に刻み込んでやりたい。
『推奨アクション。……存分に、蹂躙してください』
シキの言葉を合図に。
清春の肉体は、目も眩むような白銀の光に包まれた。
それは、血みどろの絶望に支配されていた図書室の空気を、一瞬にして書き換えるほどの、絶対的な神威。
骨が組み替わる音。
筋肉がしなやかに変質し、肌が抜けるような白磁へと生まれ変わる感覚。
平凡な黒髪が、月明かりを織り込んだような白銀の長髪へと変化し、自らが発する冷気を纏って床にまで零れ落ちていく。
――あぁ、窮屈だった。
光の中から漏れ出たのは、もはや男子高校生の低い声ではなかった。
それは、鈴を転がしたような、至高の美しさと冷酷さを併せ持つ、女の声。
光が収束していく。
血まみれで倒れていたはずの少年の姿は消え失せ。
代わりにそこには、この世のすべての美を集めて結晶化したような、絶世の美女が立ち上がっていた。
返り血など一滴たりとも寄せ付けない、純白のドレス。
燃えるような金色の瞳は、瞳孔が縦に細く裂け、人間のものではない「蛇」の冷酷な光を宿している。
空間の温度が、一気にマイナス数十度の極寒へと裏返った。
熱気と悪臭に満ちていた密室の空気が、ピキピキと音を立てて凍りついていく。
最恐の捕食者が、ついにその檻を破り、現世へと降臨したのだ。




